日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(4)

図録では「日本の国家形成を考えるうえで、古墳時代の始まりに築造された奈良県桜井市箸墓(はしはか)古墳の研究は重要な意味を持つ。この古墳は現在宮内庁が管理する陵墓であり、一般的には立ち入り出来ない。」西藤清孝氏(橿原考古学研究所)は、この古墳は「卑弥呼(ひみこ)」に関わる古墳として日本列島最初の大規模古墳として多くの人を魅了しているとしている。しかし「卑弥呼」は弥生後期の3世紀頃、日本人の歴史や社会状態を記した「魏志倭人伝」の中に、およそ2千文字にわたって、当時の「倭」(わ)と言われた日本の歴史、地理を述べた史書である。しかし、「卑弥呼」の居た「耶摩台国」は、九州説、大和説と別れ、いずれとも結論を着けにくく、箸墓古墳を「卑弥呼の墳墓」とすることはやや難しい気がする。本稿(4)では引き続き、古墳時代の遺物を説明したい。

埴輪 靫(ゆぎ)富山古墳出土(奈良県)古墳時代(5世紀)橿原考古学研究所

表面に黒斑のついた野焼きの埴輪である。靫(ゆぎ)とは鏃(やじり)を上に向けて矢を納める入れ物で、徒歩で背負って使用する。本品は古墳の後円部頂に立てられた位置が確認できており、出土位置が明確かつ全体状態を知ることのできる稀少例である。

埴輪 兜・盾(かぶと・たて)富山古墳出土品 古墳時代(5世紀)橿原考古学研究所

表面に黒斑の付いた野焼き焼成の埴輪である。兜の内側に支え台として付けられた円筒部を、盾の背面に付いた円筒部を上方から差し入れ、盾の上方に兜が載った形状に合わせている。古墳の発掘調査時に、この盾が後円部墳頂に立てられていた位置が確認されている。

準構造船部材 須山古墳出土 木製 高 190.0cm 古墳時代(5世紀)奈良・広瀬町

須山古墳は、奈良県北葛城郡広陵町に所在する墳丘長220メートルの前方後円墳であり、古墳時代前期末(4世紀後半)に馬見古墳群中央で築造された。後円部中央には埋葬施設である竪穴式石室が二基構築されている。準構造船の部材であるクスノキ製の縦板とスギ製の舷板が宗壕北東部が二基構築されている。準構造船の部材であるクスノキ製の縦板とスギ製の舷側板が周壕北東部かた出土した。竪板は長さ約1.9メートル、幅約78センチで側面に突起があり、表面は上下二段に区画され、区画内にはともに同心円状の文様を中心に直弧文が描かれている。船の大きさを復元すると全長8メートルを超えると推定できる。

重文 新沢千塚墳出土品 ガラス帵  古墳時代(5世紀) 東京国立博物館

奈良県橿原市と武市郡高島町との境界にある貝吹山から延びる丘陵上に約六百基から成る新沢千塚古墳群は立地する。4世紀から7世紀初頭頃まで古墳が作り続けられ、その殆どが直径10から20メートルの円墳だが、前方後円墳、方墳も見られる。昭和51年(1976)には国史跡に指定された。新沢千塚古墳群のなかでも際立つのは5世紀後半に造られた126号墳であり、縦約22メートル、横約16メートルの長方形墳である。この埋葬施設からは、西アジアや中国東北部、朝鮮半島といった日本列島外からもたらされた舶載品が多々見つかり、5世紀の国際交流や対外交流を知る上で大変注目されている。このガラス帵は、やや黄色みがかった切子ガラス帵であり、被葬者の頭部右脇から出土した。アルカリガラス製であり、厚さ1.0~1.5ミリと薄手である。胴部から底にかけてはカットした円文があり、磨いた部分と粗削りのままの部分とが一段おきに巡っている。後縁橋部は波うっており、きれいな仕上がりではない。ササン朝ペリシャ系ガラスの制作技法に通じるので、おそらくシルクロードを経て遠く日本列島まで伝来したのであろう。

重分 ガラス皿 1個 ガラス製  古墳時代(5世紀) 東京国立博物館

このガラス製の皿は、被葬者の頭部右脇に添えられて置かれていた。ガラス皿とガラス帵はセットで出土しているので、あたかもコーヒーカップの受け皿のような使われ方をしていたのではないかと考えられる。皿には高台がつき、濃い紺色をしているが光をかざすと神秘的な色合いを放つ。表面にはうっすらと白濁色を見ることができるが、これは金箔を置くための接着剤であり、内面の底には鳥が、周囲には樹木、花弁、馬、人物などが描かれている。この絵はササン朝ペルシャに由来すると考えられ、近年の分析ではガラス皿の組成が、ローマ帝国領内で見つかったローマガラスと一致することが明らかになった。このガラス皿は、遠く西アジアから中国東北部や朝鮮半島を経て、約8千キロも離れた日本列島まで運ばれてきたものであり、古墳時代ではほかに現存する類例がない貴重な品である。

重文 蒙古鉢形眉庇付兜 奈良県五條市 五條猫塚古墳出土 古墳時代(5世紀)

五條塚古墳は、奈良県五條市西河内町に所在する一辺32メートルの方墳である。朝鮮半島さらには中国大陸との結びつきの深い遺物が出土することから、5世紀に置ける対外交渉に活躍した葛城氏や紀氏との関係性も指摘される。五條猫塚古墳からは三個の眉庇付兜が出土しているが、その内の一個が蒙古鉢形眉庇付兜である。本品は中国大陸や朝鮮半島で見られる蒙古鉢形兜に形が似ているものの、野球帽のような庇が付く日本列島特有の眉庇付兜であり、国内外の影響を受けた折衷品と言える。金色に輝く格の高い兜である。高度な金工技術を使っており、5世紀に置ける技術の最高水準を示す。

重文 金製方形板 金製 長 8.4cm 東京国立博物館

被葬者の頭部付近から出土した1辺約8センチの金製方形版は、四隅にある三孔で綴付けて冠帽を飾っていたと考えられる。厚さは1ミリ以下で非常に薄く、重量は22.6グラムである。板の縁には半球状の円座が巡り、歩揺で飾っている。同様の金属方形板は日本列島に類例がなく、中国遼寧省の防身二号墓で確認できることから、中国東北部から伝来したものと考えられている。日本列島で普及していなかったこのような冠飾を被葬者は身に着けたことから、被葬者は渡来人であった可能性も充分に考えられる。

重文 金製垂飾耳飾  二個 金製 最長 21.7cm 東京国立博物館

被葬者の耳に相当する位置から出土した対となる耳飾である。二種三条からなり、歩揺の付いたコイル状部品を七つ連ね、先端には球形飾と三叉状の飾りを連結させた一条と、コイル状部品を二つ介して球形飾を兵庫鎖で連結した二条からなる。日本列島で出土する垂飾付耳飾のなかでも、これほど精緻な作りのものは他に例がない。本品は日本列島では少ない新羅系垂飾付耳飾の中でも古いものであり、垂飾付耳飾製作が始まって間もない頃の製品である。本品のような耳飾を付けた被葬者は、非常に格の高い人物であったと想像できる。

玉(たま) 金製、銀製、石製、ガラス製 「勾玉」最長2.3センチ 東京国立博物館

新沢千塚126号墳の埋葬施設内から、数多くの種類と量の玉が出土している。勾玉は5個、雁木玉2個、緊迫入丸玉1個、ガラス丸玉657個、ガラス小玉321個、金製玉2個、銀製空玉40個以上である。その中でも勾玉は硬玉製が4個、滑石製が1個あり、古墳時代の首長が好んで用い、遠く朝鮮半島の新羅の王も冠の装飾に利用した。鴈木玉は黄色のガラスを地にして青色ガラスを配することで縞模様にあしらっている。鴈木玉のルーツは西アジアにあり、朝鮮半島を経由して日本列島に入ってきた。その他の玉も朝鮮半島を経由してもたらされたものであろう。

国宝 七士刀 鉄製・金象嵌 長さ 74.9cm 古墳時代(4世紀)石上神社

古くから石上神宮の神宝として伝えられており、早く平安時代の終わり頃から人々の関心が寄せられていた。鉄製の一種の剣である。しかし剣身の両側に左右にかわるがわる三つずつの小枝を派出させて、支刀の形成をつくっている。身の長さは約75センチ、茎(こみ)の長さは、約9センチ、身の幅は下の方で約2.1センチ。身と板とに、金象嵌によって細い条線がほどこされている。ことに身の裏表には状線がほどこされている。ことに身の裏表には状線の間に同じく金象嵌による文字が見られる。一応次のように理解される。「表」「泰和四年六月十一日丙午の日の正陽、鍛えに鍛えた鉄でこの七支刀をつくりました。敵の兵力をことごとく破ることのできる霊刀であります。侯王に差し上げたいと思います。(以後4字不明)作」「裏」「百済王ならびに世子の奇生観音(後の貴須王)は、倭王のおんために昔からまだ見たことのないこの刀を、つくりました。願わくば、後世まで伝えられんことを」(意訳)銘文の文意からは百済王から倭王に贈られたものと解され、高句麗の南下にともなう朝鮮半島情勢の緊張が背景にあるのだろう。日本書記の神功皇后52年9月の条にみえる、百済から献上された「七枝刀」(ななつのさやのたち)を本作と見る考えも根強い。当時の東アジア情勢を知る上で一級の資料で4ある。

古墳から出土した数々の銘品を参考にして、古墳時代(4~6世紀)の、わが国の情勢と国際情勢を知る上で貴重な品々であった。いずれも日本史の古代を飾る銘品であるが、写真ではなく、実物を目にすることは稀な体験である。是非、この特別展を拝観して頂きたい。

 

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和 2020」、図録「古事記1300年 特別展 出雲ー聖地の至宝  2012」、井上光貞「神話から歴史へ」、原色日本の美術「第1巻 原始美術」を参照した)