日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(5)

1948年(昭和23年)の5月と言えば、戦火の跡がまだ生々しく残っていたが、敗戦までの抑圧から解放された自由な学問的活動が澎湃として渦巻いていた時代であった。北方アジアの考古学にくわしい江上哲夫氏が、大和朝廷の起源について破天荒な説を発表した。江上氏の着想の根底に横たわっているのは、四世紀から五世紀にかけて東アジアに著しい歴史現象、すなわち、北方系の騎馬民族が続々と南下して農耕地帯に定着し建国して、支配階級を構成したという事実である。これが北シナにおいては、五胡における十六国の建国となり、朝鮮においては、高句麗や百済の並立を促した。高句麗は、ツングース系の騎馬民族の王国であるが、五十六国からなる馬韓を統一した百済王朝もまた、韓国人ではなくてツングース系の扶余族であった可能性が強いのである。したがって、このような当時の大勢からみて、その一派がさらに海を渡って日本に渡来し、その騎馬の卓越した軍事力で倭人を征服し、日本の覇者となったとしても、いささかも不思議ではない。では、日本の支配者の交代とは誰を指すのか?江上氏はハツクニシラススメラミコト、即ち崇神天皇の御真木入日子という名こそ、その有力な証拠であると述べた。なぜなら、南鮮の弁韓の地は、後に任那(みまな)といったが、任那の語幹はミマ、ナは土地であり、一方、ミマキのキは城の意味である。従ってミマキイリヒコは「任那の王」という意味であったとした。この騎馬民族説は精神的な開放期の波に乗る奔放にして自由な思考力の産物であった。旧制中学3年生であった私は、正に晴天の霹靂であり、たちまち「騎馬民族国家説」のとりことなった。昭和50年代には「騎馬民族説」の展覧会が東京で開催され、江上波夫氏の「騎馬民族国家」は中公新書に納められており、私は時々本箱から取り出して今でも懐かしく読むことがある。なお江上説は、その後の日本歴史の研究の進展につれて、その矛盾が露呈し、現在「騎馬民族説」をまともに取り上げる学者は、殆どいない。しかし、私の日本古代史観として未だに生きている。中学3年生の受けたショックは永久に消えないものである。本稿を書く気になったのも、五世期頃の古墳から出土した多数の馬具を見て、どうしてもこの項で取り上げて見たかったのである。笑い飛ばしてもらって結構である。

重文 鉄盾(てつたて) 二個 古墳時代(5世紀) 奈良・石上神宮

「日の御盾」と称して、石上神宮の神庫に長年収蔵されてきた鉄盾である。二面あり、いずれも鉄を鉄鋲で留めており、五世紀後半の鋲式短甲と近しい作りである。こんも鉄盾の主たる文様は、直線文と鉤文であり、とりわけ鉤手文は弥生時代の弧帯文を祖型とし、外敵から守る辟邪の意味合いを持ち、革盾や木盾、家形埴輪などの古墳時代に日本列島でよく使われる文様である。国産品と見られる。二面の鉄盾は良く似ているが詳細に観察すると、全体の高さ、鉄板の重ね方、鉄鋲の大きさや数が異なる。全体の高さがやや小さな鉄盾が、鉄板の重ね方が不均一であり、鉄鋲の数が少なく、鋲頭が大きいため、やや後に作られたのであろう

国宝 金銅装鞍金具(前輪) 藤ノ木古墳出土 奈良県斑鳩町 古墳時代(5世紀)文化庁

藤ノ木古墳は、奈良県生駒市斑鳩町に所在する直径50メートルの円墳である。古墳時代後期後半(6世紀後半)に築造され、未盗掘の横穴式石室,刳抜式家形石棺内からは東南アジアでも類を見ないほど豪華で精巧な金銅製の馬具と一万個を超えるガラス玉、金属製品からなる装身具や武器、武具など、おびただしい数の副葬品が出土した。石棺内には二人の被葬者が埋葬されていたことが遺存していた人骨や埋葬品から判明した。本品は、藤ノ木古墳から出土した馬具のうち最も豪華な金銅装の一組である。

国宝 金銅装鞍金具(後輪) 藤ノ木古墳出土 奈良県斑鳩町 古墳時代(6世紀)文化庁

後輪は、基本的な構造や施文方法は前輪と同じであるが、文様の数や意匠に違いが認められる。前輪、後輪ともに東アジアの中でも例を見ないほどの技巧と装飾を凝らした優品であり、藤ノ木古墳を代表する出土品である。この前輪、後輪を見れば、思わず江上波夫氏の「騎馬民族国家」を思い出さずにはおれなかった。

国宝 金銅装棘葉形杏葉 四個 鉄地金銅張 最長13.7cm 文化庁

(上部)周縁の五か所に棘葉状の突起を持つ同形のものが17個出土しているが、各個体の法量を見ると高さで8ミリ、最大幅で7ミリの差がある。杏葉上部には立聞(たちぎき)があり、棘花弁形の金銅製鉤金具が付けられている。      下の鏡付き轡は、構成する部位の内、片側の鏡板と引手の銜(はみ)の一部のみが残存している。鏡板は心葉形を呈し、厚さ約2ミリの鉄地を地板にして金銅板と厚さ約2.5ミリの金銅製の透板を重ね、周囲を鋲で鋲打ちしている。心葉形の鏡坂上部には立聞があり,面繋(おもがい)の革紐と連結する棘花弁形の釣金具が取り付けられている。

国宝 金銅装龍文飾金具 四個 鉄地金銅張 布 最長 15.6ミリ 文化庁

平面が楕円形を呈し、周縁に棘部を有する飾金具である。同大のものが八個出土している。各個体の法量は、全長15.3~15.8センチ、中央幅約8センチ、厚さ三ミリである。厚さ1ミリの地板の鉄板に金銅板を重ね、その上に龍とパルメット文を透彫した厚さ約1.5ミリの金銅版を十三個の鋲によって留めている。これは胸繋(むながい)かあるいは障泥(あおり)に取り付けられた飾りの可能性がある。下部は正円形の飾金具であり、中心は筒状に突出する。全体の直径9.3センチ、筒部の直径3.4センチである。厚さ1.5ミリの鉄板上に金銅板を重ね、その上に心葉形とパルメット文を透彫した透彫した地板と同一形状の金銅板を置き、筒部の周囲に四個、外縁部に八個の鋲を打ち込み固定している。円形飾金具はたてがみの前部分を束ねるのに用いられたと考えられる。

国宝      銀製鍍金空玉 一括 銀製、鍍金 最大径 2.1センチ 文化庁

石棺内の二人の被葬者のうち、北側被葬者の首飾を構成していた銀製鍍金空玉である。梔子型空玉は球形の側面に稜をつくりだしている。稜が八つと九つの二種類があり、それぞれ30個と24個が出土した。丸玉は球に近い形状で、24個出土した。藤ノ木古墳の玉類は金属製品とガラス製品で構成されている。梔子型と丸玉は他の出土類と比べても大型品であり、有段空玉は類例が少ない。金属製玉類は朝鮮半島から製作技術が伝わり、六世紀にはそれまでの装身具の主体であった石製玉類と入れ替わるように普及した。

重分 埴輪飾り馬 一個 古墳時代(5~6世紀) 島根県松江市出土

平所遺跡から出土した埴輪には、馬四個、鹿一個、猪一個、家一個、人物三個、円筒埴輪一個などがある。馬形埴輪は三個が復元されているが、このうち二個はおおむね同形で、大きさもほぼ同じである。鞍・鐙・轡などの馬具を装着した飾り馬で、頭頂部のたてがみを球形になるように結い上げた結び飾りが見られ、尻尾も革紐で螺旋状に結い上げたように表現されている。

重分 埴輪 見返りの鹿 一個 土製 高93.5cm 島根県教育委員会

立派な角を生やした鹿が左後方を振り向いた瞬間を写実的に表現した埴輪である。頭部から首、背中、尻を経て左足の一部まで復元されているが前足などは判明していない。角は別作りになっていて、ソケットにして頭頂部に差し込まれており、取り外すことも可能になっている。特に頭部の表現は精巧で、鼻の位置が左右に傾き、顎の上下をわずかにずらしているのは、草を食んでいる様子を表しているいるか。切れ長のかわいらしい目をしているが、ぴんと立てた耳は、あたかも人の気配に慌てて振り返ったかのような緊張感がみなぎる。

 

古墳時代の出土品を中心に紹介したが、やはり一番気に掛かったのは、馬具類である。この馬具類を見て、思わず戦後の日本史の一環として江上波夫氏の「騎馬民族国家」を、思い出し、出来れば「騎馬民族国家」をもう一度読み直してみようかと思って、本編は閉じたい。

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和  2020年」、図録「古事記1300年 特別展 出雲  2012年」、井上光貞「神話から歴史へ」を参照した)