日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(6)

古墳時代の発掘宝物は、大和地方に限定して示してきたが、勿論出雲地方にも優品が出土している。この稿では、出雲地方の古墳時代の出土品の優品を紹介し、最後に古代における出雲と大和の関係を解明する上で、重要な切り口となる出雲国造神賀誌(かんよごと)奏上儀礼に触れ、大和と出雲の関係の特殊な関係について、述べたい。まずは、出雲地方から出土した古墳時代の優品の紹介から始めよう。

重分 双龍環頭太刀 島根県安来市出土 古墳時代(7世紀) 島根県教育委員会

本作は、かわらけ谷横穴墳墓群の出土品である。出土横穴などは特定されていない。しかし、出土当時に鞘から刀身を抜くことができるほど保存状態は良いものであったことが記録されている。刀身は昭和33年(1958)に重用文化財指定以前に研ぎ出され、本来の金属光沢を取り戻した経緯を有する。柄頭は金銅製で「おむすび形」の冠体に二本の龍が向かい合って玉をくわえる姿がモチーフとなる透板が嵌め込まれている。装飾太刀を副葬した本作の被葬者が、出雲東部における上位首長層の下で、倭王権と密接な関係にあった可能性が考えられる。7世紀初めから中頃に位置付けられている。この双竜環頭太刀から見ても、出雲の豪族は、天王家と近い関係にあったことが理解できるだろう。

重分 金銀装馬具 島根県出雲市出土 古墳時代(6世紀) 島根県・出雲市

上塩治築山古墳は明治26年(1887)に石室が開口し、精微な横穴式石室や大小2基の家形石棺、九本もの鉄鉾や馬具をはじめとする多くの副葬品が出土した。この古墳から出土した馬具は2セットある。その正確な位置はわからないが、当時の聞き取りの記録などから、銀装馬具は奥壁沿いに設置された小石棺の蓋石上にあったとされる。透かし十字文心葉形鏡板付轡と金銀装鞍金具(前輪、後輪)、同じく金銀装の雲珠(うず)、辻金具、透かし心葉形杏葉で構成される。馬具をはじめとする上塩治築山古墳出土の金属製品は、その依存状態の痕跡も残るなど、当時の飾り馬の馬具の装着状況を具体的に復元できる貴重な資料である。

重文 金銅製冠 一個 金銅製 長23.5cm 島根県出雲市

 

上塩治台築山古墳では、金銅製の冠の破片が出土しており、近年になって新たな破片が確認されている。形状や製作技法も特徴的で、中国や朝鮮半島の冠とはかなり変容していることから、国産の可能性が高い。類例のない極めて特徴的な一品である。この金銅製冠は金銀装捩環頭太刀や玉類などとともに小石棺に納められていたと考えられ、さらに棺上に置かれたとされる金銀装馬具も小石棺の被葬者に供えられたものであろう。小石棺の被葬者については、大和に舎人として上番し、金銅製冠や金銀装馬具などを携えて帰郷した人物という説もある。

重文 金銀装円頭太刀一本 刀身 鉄製、鞘・外装 木製金銀張、金銅製 出雲市

この金銀装円頭太刀は、この古墳の主である大石棺の被葬者に埋葬されたものと考えられる。柄頭は,打ち出しによって匙面を作った銀板で両側から挟み、合わせ目を綾杉文の入った銀製の細帯で両側から挟み、合わせ目を菱型文の入った銀製の細帯で留める。刀側が大きくへこんだ柄間は銀線で渦巻にし、鍔は大型の八層鍔。金銅製の責金具が残る。鞘木が良好に残存しており、鞘口と鞘間に銀線が巻かれ、全体に黒漆が塗られる。茎には目釘穴が三つ空けられる。刀身は全体に内返りし、切先はフクラ切先。街近くに連弧輪状文の象嵌がある。

重文銀象嵌円筒太刀一本 松江市鉄地銀象嵌 長52.0cm古墳時代(6世紀)

鉄地に亀甲文・鳳凰・花弁の象嵌がなされた柄頭を有する、いわゆる銀象嵌円頭文を有する、いわゆる銀象嵌円頭太刀である。刀身に銀象嵌で「各田部臣」他十二文字などが記されている。「各田部臣」は漢字の一部を省略した字体で、額田部臣を意味する。額田部臣とは、倭王権が地方に設置した隷属民の一つである額田部を現地(出雲)で管理した地方豪族で、太刀の納められた古墳の被葬者にあたる。このような部民は、六、七世紀の倭王権の地方支配において重要な役割を果たしたが、本作品は、部民に名を記した最古の実物同時代資料である。

重文 勾玉・菅玉 四十個 古墳時代(4世期)島根県松江市上野1号墳島根教委

上野1号墳は、北に宍道湖を見下ろす丘陵上に造られた長径40メートルの楕円形墳。全長約七メートルもある長大な割竹形木簡の内部には、水銀朱が撒かれ、斜縁神獣鏡一面、刀子四個とともに、この玉類が出土した。勾玉は三個あり、それぞれメノウ、ガラス、ヒスイ製。このうち、メノウ製勾玉は長さ約4センチもの大型品で、橙色を呈した透明度の高い石材を使用している。のちに全国に大量供給されることになる花仙山勾玉の中でも、最初期の一群に含まれる。管玉には、やや軟質の緑色凝灰岩製と、鮮やかな緑色の碧玉製がある。いずれも花仙山産と見られる。古墳時代中~後期の出雲産菅玉は、片側から穴を穿った片面穿孔が一般化するが、上野一号墳出土の菅玉は両面穿孔によるもので、片面穿孔開始以前の出雲菅玉である。

国宝 延喜式(九条家本)巻八 平安時代(11世紀) 東京国立博物館

「延喜式」は、律令制における施行細目を記したもの。平安時代の日本では、中国・唐の法制にならって律令の施工とともに格式を発布した。「延喜式」は、延喜5年(905)の醍醐天皇の勅命により、弘仁、貞観の式を集大成して編纂され、延長5年(927)に完成し、康保4年(967)より施行された。本書は、九条家に伝わった写本で、紙背文書の検討により書写年代はいくつかのグループに分かれるが、巻八~十は平安時代・十一世紀の書写と考えられる。巻一から巻十は平安時代・十一世紀の書写と考えられる。巻一から巻十までが神話の部であり、巻八は「祝詞」巻九、巻十は「神明帳」である。ここでは巻八「祝詞」からは「出雲国造神賀帳」の部分である。古代における出雲と大和の関係を解明していく際に,重要な切り口となるのが出雲国造神賀奏上儀礼(いずもこくそうかんよごとそうじょうぎれい)である。それは出雲国造が都にのぼり、天皇に対する長寿と国家の安寧を祈った祝詞を奏上し、神宝を献上される場合が多いが、天皇の即位、都が移った時など国家にとってめでたいときにも奏上される。それは、まさに出雲国造の祖先神であるアメノホヒがオオナムチを説得して国譲りをさせ、その結果を高天原の神々に復命した神話に対応する。出雲国神賀詞奏上儀礼は分析することで、出雲国造は、単なる出雲一国の国造ではない。ましてやかって列島の地域社会に存在したヤマト王権の国造の代表でもない。出雲国造は天皇の聖性を補完する存在だqったのである。神話と歴史の接点とも言うべき儀礼であった。

本稿では、出雲の古墳出土品に触れながら、「天皇の前で語らえた神話」こそ「出雲国造神賀奏上儀礼」を語ったわけで、まさに神話と歴史の接点として出雲を考えると理解がしやすい。ここで、古墳時代とは別れを告げ、「仏と政(まつりほと)」の世界へ移ることとなる。

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和  2020年」図録「古事記1300年 出雲―聖地の至宝  2012年」、井上光貞「神話から歴史へ」、江上波夫「騎馬民族国家」を参照した)