日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和(8・終)

出雲は「神々のふるさと」と呼ばれる。これは、耶摩台国の時代より約30年早い2世紀期半ばの出雲に、神政国家と呼ぶにふさわしい、一国規模のまとまりが出来たことによる。その時の出雲の集団は、今日の神信仰の原形になった大国主命信仰が生み出した。そしてそれは、大和朝廷が生まれる三世紀半ばより前に、日本の各地で広まったのである。(光俊誠「真実の古代出雲王国」より)このような見解は、日本史の上では、かなり変わった見解と見られるが、やはり出雲は、大和とは異なった国家的集団が生まれる要素に満ちている。銅剣、銅矛の出土など、出雲地方は倭王権とは別の歴史を持った時代が長く、大和王権が確立された3世紀以降も、出雲の国の首長は臣(おみ)の姓を持ち、他国の首長の直(あたい)よりも格式が高かった。また律令制下にあっても朝廷は、出雲大社の神事を重んじていた。出雲氏は宮廷に出向き、「出雲国造(みやつこ)神賀詞」を述べねならなかった。出雲にも、大和と比べて劣らない佛像群、神像群がある。

重文 観音菩薩立像 飛鳥時代(7~8世紀)一躯 銅造、鍍金 島根・鰐淵寺

寺伝によると、鰐淵寺は推古天皇の眼病を平癒させた智春聖人が創建したとする。鰐淵の名は平安時代末期に成立した「梁塵秘抄」に登場し、平安時代の人びとに修験の場として知られている。像の頭頂から台座まで、水瓶も含めて一鋳で造る。頭上に短髪(たんけい)を結い、二条の冠帯に三面頭飾をつける。正面の頭飾に如来坐像を表す。顔の輪郭は丸く、目鼻口が中央に集まり、童子を思わせる。左手は垂加させ水瓶を持ち、右手は手のひらを前へ向け胸の高さに掲げる。ほぼ直立するが、わずかに左肘を前に出す。台座は格狭間を透かした八角形の二重框座上に蓮肉と返花を重ねる。その台座の上框部の正面と右側面に銘文が刻まれる。     (正面)壬辰年五月出雲国若倭部 (右側面)臣徳太理為父母作奉菩薩     壬申年は像の様式から持統六年(692)をあてるのが適当である。同銘文には出雲国とあり、「出雲」の最も古い金石文として重要である。若倭部臣は、天平五年(733)に完成した「出雲国風土記」にも登場し、当地の豪族であったと考えられる。いずれにせよ、飛鳥時代の出雲を考えるうえで、貴重な作例である。

重文 観音菩薩立像 一躯 銅造、鍍金 飛鳥時代(7~8世紀)島根・鰐淵寺

像は頭頂から天衣や瓔珞を含めて足先まで一鋳で造る。頭上に短髪を結い、冠帯に三面頭飾を付ける。短髪の正面に如来坐像をつける。右手は手先を失っているが、曲げて胸の高さに掲げ、左手も屈して腰の高さで瓔珞を取る。台座は失われている。顔は肉付きよく丸顔の童顔である。両肩に垂らした垂髪は先端を巻き上げるいわゆる蕨手型垂髪とする。丸みを帯びた肉付き豊かな顔から制作期を奈良時代初頭まで下る意見もあるが、法徳寺観音菩薩立像(奈良)同様に瓔珞を手に取る形式や蕨手垂髪などから飛鳥時代末(白鵬時代)とする見解が多い。山陰地方を代表する金銅仏である。

重文 四天王像 四駆 木造、彩色 平安時代(9世紀) 島根・万福寺    持国天立像・増長天立像・広目天立像・多聞天立像(左より)

現在の所有者は浄土宗万福寺であるが、寺伝では鰐淵寺と同じ智春上人によって創建された大寺薬師の諸像であるとされる。また、万福寺西隣の大寺谷(おおてらだに)遺跡からは、八世紀後半の軒丸瓦が出土しており、その寺院が大寺薬師の前身である可能性が高い。像は四駆とも内刳りのない一木造りで、当初は彩色が施されていたようで、白土がところどころに残る。各像ともに両手先、両足先、持物、台座が後補で、各像のポーズにやや不自然な点もあり、現在の尊名が正しいかどうか不明であるが、ここは寺伝に従った。各像とも下半身は幅も奥行きもたっぷりととり、大地に根を張るかのように両足を踏ん張り立つ。承和六年(839)に完成した東寺講堂の四天王像に見られるような派手な動きは全くなく、あえて動きを抑制した表現として、むしろ奈良時代の四天王像に通じる古様な印象を受ける。

重文 本殿板壁画 板絵着色 室町時代(16世紀)島根・八重垣神社           伝素戔嗚命・稲田姫 一面  縦174.0cm               伝脚摩乳命(あしなづちのみこと)・手摩乳命(てなづちのみこと)一面縦173.5cm

もとは本田内の板壁に描かれていたもので、現在三面残る内の二面である。伝素戔男命・稲田姫を描く面は西壁である。この女子の顔は見事に残っている。その美しさには、はっとするものがある。伝脚摩乳命・手摩乳命を描く面は、本殿南壁のものである。西壁面は、画面左側に冠をかぶり、手に笏を持つ束帯姿の男神、右側に折り本を手にした女房装束の女神を描く。画面中央に衣冠束帯像の男神、画面左側に冊子を手にする討ち袿姿(うちきすがた)の女神を描く。現在の壁画の作風からすると天文か天正期の作であると思われる。

重文 牛頭天王(ごずてんのう)坐像 二躯 平安時代(12世紀)木造・彩色  島根・鰐淵寺

二躯とも内繰りのない一木造。前者は身体のところどころに彩色が残る。多臂像であったようで両肩の背面に腕を剥いでいた跡が残る。両臂は欠失。頭上に牛頭を載せ、顔は三面である。後者は身体のところどころに白土が残る。両肘は欠失。左手は握り、膝の上に置く。膝は右足を上にして結跏跋座するが、神像によく見られるように狭く表現されている。頭上の牛頭は欠失し、枘の内のみ残る。顔は三面。鰐淵寺に現在蔵王権現とスサノオを同一視していたので、牛頭天を蔵王権現とみなしたのかも知れない。

重文 蔵王権現懸仏 二面 銅造鍍金 平安時代(12世紀) 島根・法王寺

二面ともに縁部を1センチほど折り返した鋳銅製の円板の表面に、反肉鋳造製の像を鋲で留める。独鈷杵(とっこしょ)像は、右手を顔の高さに掲げ、独鈷杵を執り、左手を腰に当て、左足を踏み上げて、岩座に立つ。三鈷杵像はそれとは左右対称で、左手で三鈷杵を執り、右手を腰に当て、左足を踏み上げ、右足で岩座に立つ。両像は図像的に似通っているが、独鈷杵像は衣文が線的で数が多く、三鈷杵の衣文は浅く、数が少ない。制作は三鈷杵像の方が先行するだろう。法王寺にはこの二面とと一具であると思われる観音菩薩の懸仏(重文)も残るが、この像の衣文表現は三鈷杵像に近い。法王寺は蔵王信仰が盛んな鰐淵寺の末寺で、その影響から本掛佛が安置された可能性がある。中世において一時期、杵築大社(出雲大社)の祭神がスサノオとされた。杵築大社と深いつながりを持っていた鰐淵寺も、杵築大社と鰐淵寺が建つ島根半島はスサノオによる国引きによって生まれたとしており、鰐淵寺にとってスサノオは特別な存在であった。出雲において荒ぶる神のスサノオは、憤怒の蔵王権現と同体とみなされていたのである。

 

6世紀半ば頃に日本に伝来した仏教は、約1世紀後の7世紀後半には、列島に広く浸透していった。さらに約半世紀を経た奈良時代の8世紀半ば、日本在来の信仰と外来の仏教が融合する神仏習合という現象が初見する。在地の神々が、自分の神の身であることを嘆いて、仏法に救いを求めるようになるのである。解脱を求める神のために、神域に神宮寺が建立されるようになり、神前で読経されるようになった。神宮寺建立の担い手は、神を祀ることで地域を束ねてきた伝統的な地域首長、すなわち地方を統括する軍司層が想定されている。奈良時代後期、富を蓄積する階層が出現したため、地域社会の秩序が動揺し、共同体の核であった神の威信も揺らぐことになった。在地の神祇(じんぎ)信仰のほころびを、郡司層が仏教の威力を借りて打開しようとしたことの表れが、神仏習合だったと指摘されている。出雲のような古い仏教信仰の強い地域にも、神仏習合の流れがあった印として最後の三つの事例を紹介した。神仏習合と神仏分離令、廃物希釈については、改めてそれぞれについて所論を展開したい。

(本稿は、図録「日本書記成立1300年 特別展 出雲と大和 2020」、図録「古事記成立1300年 特別展 出雲ー聖地の至宝 2013年」、直樹孝次郎「古代国家の成立」武光誠「真実の古代出雲王国」を参照した)