日本書記成立1300特別展 出雲と大和(2)

和辻哲郎氏は「日本古代文化」という本の改訂稿版から「山陰を大陸の門戸とすると近畿地方中心の銅鐸文化と筑紫中心の銅矛銅剣の文化」といういわゆる二大青銅器文化圏説が登場し、事実私も「銅鐸は近畿中心」「銅剣は九州が中心」という二大青銅文化圏を高校の日本史で習った記憶がある。ところが、昭和59年(1984)島根県出雲市の静かな谷間に位置する荒神谷遺跡から銅剣358本が出土したというニュースが新聞を賑わした。その翌年には銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器が発見された。銅剣はそれまで知られていた数をはるかに上回り、銅鐸と銅矛はこの銅剣群から7メートルほど奥まった地点(一つの埋納坑)からまとまって初見された。出土地の神場サイダニという地名はカミマツリとかかわりがある。神庭はカミマツリの庭(場所)である。さらに平成8年(1996)10月には島根県加茂町(現雲南市)の加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が見つかった。加茂岩倉以前の最多となる遺跡は滋賀県野洲市の24個であった。日本では銅鐸が大型化しマツリの宝器となるが、そのルーツは朝鮮式小銅鐸、さらには中国の小銅鐸へさかのぼるのであろう。加茂岩倉遺跡の銅鐸39個のなかで14個に×印があり、7個に絵画があった。銅鐸と銅矛が一緒に発見されたのも初めてのことであった。この発見によって和辻哲郎氏によって提唱された「銅矛銅剣文化圏」と「銅鐸文化圏」の対立図式の崩壊を意味していた。日本古代文化に関する一大ニュースであった。

銅鐸発見時の加茂岩倉遺跡

埋納坑に残っていた銅鐸と銅剣が埋められていた痕跡の矢印部分に注目して頂きたい。

荒神谷遺跡  銅剣出土状況

荒神谷  銅矛・銅鐸出土状況

荒神谷  銅剣の取り上げ作業

荒神谷遺跡出土品の銅剣

358本という未曽有の一括出土で知られる銅剣である。いずれも中細形銅剣c類に分類され、全長約50cm,重量約500gである。中細銅剣c類は中細形銅剣b類を元に発達した銅剣と考えられ、荒神谷をはじめその多くが山陰地域域で出土していることから、この地域固有の武器形式青銅器として知られている。    荒神谷銅剣は全長やT値に相当なバラつきが存在するが、その変異は暫時的であって、型式や細分化したり、グルーピング化することが出来ない。つまり、荒神谷銅剣は制作者や製作地などが異なる複数グループの銅剣が寄せ集められたものではなく、358本が一括して生産された、斎一性の強い銅剣群と評価できる。また、荒神谷銅剣の多くは茎(なかご)部に×の刻印がタガネで打ち込まれており、他の中細銅剣C類にこれがみられない点からも、荒神谷銅剣が斎一性の強い銅剣群であることが理解できる。荒神谷銅剣はその鋳型が発見されていないため、製作地を知る直接的な証拠はない。しかし、同時期に平形銅剣などの地域型青銅器が西日本各地で制作されている点や、その圧倒的な出土量を考量すると、一括して出雲地域で制作された蓋然性が高いと考えられる。

加茂岩倉遺跡出土銅鐸(島根県雲南市の谷間) 国宝

あの興奮から12年後の平成8年(1996)、今度は島根県雲南市の谷間に位置する加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見された。これは過去最高の発掘例であり、またしても出雲は全国から注目を浴びる結果となった。これらの銅鐸はすべて国宝の指定を受けた。今回の展覧会では国宝銅剣、国宝銅矛、国宝銅鐸がすべて1個づつ並べて鑑賞出来るということになっている。

 

出雲でまとめて発見された銅剣、銅矛、銅鐸は、すべて国宝に指定され、会場ですべての銅剣、銅矛、銅鐸を見ることが出来る。このような機会は、多分、今後何年も見られないと思うので、是非会場に足を運んで、御覧頂きたい。日本古代史に対しる目が変わるであろう。

 

(本稿は、図録「日本書記成立1300年特別展 出雲と大和   2020」 古事記1300年出雲大社遷宮 特別展「出雲 聖地の至宝    2012年」日本の歴史第1巻 井上光貞著「神話から歴史へ」を参照した)