智積院  等伯一門の障壁画と名庭園

 京都で3時間程度余裕が出来ると、私は必ず市バスの三十三間堂前で降りて、智積院、妙法寺、養源院、三十三間堂、更に京都国立博物館を周ることにしている。
わずか、3時間程度で700年前の仏像や、寺院を幾つも拝観することが出来、かつ京博も見物できれば、極めて効率的に京のお寺や文化財を見る機会となる。
振り返ると、何十回と拝観したような気がする。中でも智積院(ちしゃくいん)には、私の好きな長谷川等伯(1538~1610)と弟子たちによる国宝障壁画が常時拝観できる。長谷川等伯は、能登出身の田舎絵師であり、かつ桃山時代を代表する画家である。
この時代の絵画の世界の頂点であった狩野永徳(1543~1590)と鋭く対立し、その模様は安倍竜太郎氏の描く「等伯」(2巻)に詳しい。
空海が密教を日本へ伝えてからおよそ300年後、空海の開いた高野山は次第に活力を失いつつあった。その頃、高野山に登った興教大師(こうきょうだいし)覚鑁(かくばんー1095~1143)は、教学振興のため尽力して、高野山は活気を取り戻した。
覚鑁は自らは紀州(和歌山県)根来寺(ねごろじ)に移り、教学の振興を図り、後に「新義」といわれる真言教学を確立し、真言宗智山派はこの「新義」に属する。
やがて天正13年(1585)巨大な伽藍と力を持っていた根来寺(ねごろじ)は、その力を恐れた豊臣秀吉によって攻められ、全山灰燼に帰した。その時の学頭の一人、玄宥(げんゆう)は京都地積院に逃れ、智山派(ちざんは)の基礎を築いた。
慶長3年(1598)に豊臣秀吉が亡くなると、玄宥が申し入れていた寺領下賜の許しが徳川家康により出て、豊国神社の土地と建物の一部が与えられ、遂に「根来寺智積院」(ねごろじちしゃくいん)が再興されたのである。元和元年(1615)、大阪城落城とともに、豊臣時代が終り、3歳で亡くなった息子鶴丸(つるまる)の菩提を弔うため、秀吉が建立した祥雲禅寺(しょうんぜんじ)が智積院に与えられ、その寺にあった等伯一門の障壁画が智積院に移ったのである。
智積院朱印所を入ると、拝観受付と収蔵庫が見える。

国宝 松に立葵図     長谷川等伯作           桃山時代(16世紀)
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 斜めに伸びる実物大以上の松樹のかたわらに芙蓉(ふよう)、すすき、菊などの秋草が配されるが、とりわけ芙蓉は闊達な筆致で描かれ、やや様式化された松に対して新鮮な表現となっている。錯綜する諸題材を明快にさばく筆力は画技の高さを予想させ、動きのある均整のとれた構図もすぐれている。表現や画格の高さから、私は等伯の手になるものと思う。

 国宝  楓図(かえでず)  四面の内   長谷川等伯作            桃山時代(16世紀)
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 狩野永徳は天正15年(1691)9月に突然死亡し、狩野派が動揺している時に、祥雲寺障壁画制作の機会を長谷川等伯が握ったことは、桃山時代の日本絵画の大きなチャンスであった。
 楓(かえで)の大木は永徳様式の「檜図屏風」を彷彿とさせるダイナミックな形態であるが、本作品の空間には永徳風の吹く抜けていくような風のイメージはなく、静かに立ち込める空気を感じさせる繊細さがある。木犀(もくせい)と楓のカラフルな色の対比はナイーブで、いかにも幼児の死を悼むような胸が詰まる思いを抱かせる。当時の狩野派の画にはない豊かな情感を湛えた名品である。

 国宝  松に秋草図  四曲一双  長谷川等伯作    桃山時代(16世紀)
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巨大な松を画面の対角線に沿って大胆に描き、その下に白い花をつけた立葵を配している。雄大な松の生き生きとした姿もさることながら、驚くべき均整を無視して大きく描いた立葵である。この思い切った筆力は画技の高さを予想させ、動きのある均整のとれた構図もすぐれている。表現技巧や画格の高さから、私はまぎれもなく等伯の手になるものと断じたい。

 国宝  桜図  四面  長谷川久蔵作         桃山時代(16世紀)
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  楓図に隣接する桜図はまた春爛漫の風情をたたえている。
  桜樹は二株あり、背後の一つはしだれ桜となっていて、あたかも二重映像の如く、満開の桜表現に深さと変化を与えている。桜花は一つ一つ丹念に胡粉の盛上げを行って、やまと絵風の花文に仕立て上げ、それらが繊細な枝ぶりや若葉の素直な描写と釣合いをみせている。桜花の背地をなす金雲は、下辺においてわずかに水辺をふくめた大地のひろがりをのぞかせる。
 作者については、長谷川久蔵とする意向が定説化されつつある。

名勝庭園   大書院の奥(築山部分)           桃山時代(16~17世紀)
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 大書院の東に高い築山を配した名勝庭園がある。庭には利休好みの庭園と言われ、中国の廬山(ろざん)を形どって造られたと伝えられている。この築山は、当初は池を掘り上げた土で、小山を築いただけであったが、桃山から江戸時代にかけて築山技術が発達し、築山自体の美を楽しむようになったようである。

 名勝庭園  大書院の奥(庭園全体)           桃山時代(16~17世紀)
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 庭園全体の写真である。土地の高低を利用して築山を造り、庭木を刈り込み、その前面に池を掘って、山の中服や山裾に石組を配し石塔・鉢・垣などを組み合わせて変化をつけている。李休好みの庭園と言われる。
 この庭は築山・泉水庭の先駆をなしたものとして、貴重な遺産となっている。

 長谷川等伯と言えば、東京国立博物館の所蔵する「松林図屏風」を代表作とするのが定説であり、これにいささかの異論もない。しかし、私の好みからすれば、長谷川等伯及び一門の絵画は、ここ智積院の松、桜、秋草などの障壁画を頂点とする。
 理由は、等伯の美しさに接した最初の絵画であること、何時でも見られること、一番回数多く見ている事、そして如何にも桃山時代を表現する大胆な障壁画であるからである。
 美しさ、剛毅さ、繊細さを見事に表現している、智積院の障壁画は私が最も愛する長谷川等伯の絵画の頂点であると思う。 比較的観光客の少ない智積院の収蔵庫の中で、時には1時間も2時間もかけてゆったりと桃山時代を代表する長谷川一門の名画と接することが出来るのは、私にとって至福の時間であり、場合によっては床に腰を下ろし、対面する歓び、酔う時間は
最高の時間であり、何物にも替えがたい贅沢である。 

(本稿は図録「総本山智積院」、新潮日本美術文庫「長谷川等伯」、原色日本の美術「第13巻障壁画」、安倍竜太郎「等伯上下」、図録「長谷川等伯 2010年」、探訪日本の古寺「第7巻 洛東」を参照した。