東京ステーション・ギャラリー  夢 二 繚 乱

明治の末年から大正、昭和初期にかけて、日本中の若い男女の心に夢と憧れの哀切な美しさを教えた詩人画家・竹久夢二(1884~1934)は、岡山県の酒屋の息子に生まれ、神戸で中学を途中まで学んでから上京し、早稲田実業に入学した。この早稲田実業も中途で退学した。早くから絵の才能を示し、新聞のコマ絵や雑誌の挿絵画家として出発した。画風は、一方で鏑木清方の美人画の影響を受けながら、他方藤島武二にあやかって夢二と名乗ったことから明らかなように、江戸時代以来の伝統的な絵草子の世界と西欧の世紀末の耽美主義的雰囲気とともに受け継いで、ハイカラであると同時に郷愁を感じさせる甘美な叙情世界を作り上げた。詩人としても「宵待草」(よいまちくさ)をはじめ、世人に親しまれた多くの感傷的な抒情詩を歌い上げた。また、自伝小説「出帆」を昭和2年(1927)に都新聞に連載した。これは夢二の半生を綴った自伝小説である。挿絵には、彼の愛した女性達や彼女たちと訪れた場所の風景、あるいは抽象的な心理描写などが水墨で描かかれている。本来、この展覧会の企画は、「夢二と出版業界」とも言うべき企画であったが、私の興味で、「夢二の人生と絵画」について、重点的に触れることにする。大正3年(1914)10月、日本橋呉服町(現中央区八重洲一丁目)に「港屋絵草子店」(みなとやえぞうしてん)を開店した。夢二が正式に結婚した唯一の女性・「岸たまき」が主人を勤めた港屋は、夢二がデザインした千代紙、便箋や封筒、半襟などを販売するブランド・ショップであった。また恩地孝四郎や田中京吉ら若い芸術家が集い、作品を発表できるギャラリーでもあった。この時期に「夢二式美人」のスタイルが確立されただけでなく、絵葉書、雑誌の表紙や挿絵、本の装蹄など、多方面にわたって夢二は活動を展開させていった。竹久夢二は優れた画家であると同時に優れたデザイナーでもあった。デザイナーとしての仕事は、主要な仕事はグラフィックデザインと服飾デザインの二つに大別される。夢二が描く女たちが着ている着物は、夢二独自の意匠によるものであり、当時の着物を再現したものでは無いと言われている。つまり、夢二が絵の中で新しい着物の柄を造り出、それれを女性達が現実の着物として作り上げていったということになる。

白目連と乙女 竹久夢二作    大正8年(1919)頃

港屋の商品の一つである。夢二の代名詞とも言える「夢二式美人」は、妻のたまきをモデルとして生まれた瞳の大きな女性像のことである。視線を伏せがちで愁いを帯び、ポーズも何かに寄りかかっていたり、身をよじっていたり儚げな(はかなげな)魅力で目を惹き付ける。このようにして「夢二式」はスタイルとして確立されていった。この「白目連と乙女」は、モデルはお葉こと佐々木かよこと考えられている。お葉は藤島武二など多くの画家たちの創造力を刺激したモデルであった。

秋 竹久夢二作    大正9年(1920)頃

この作品は鏡台に向って髪を梳る(くしけずる)女性を描いている。夢二は女性らしさのイメージとして化粧や身支度をよく描いているが、この作品では儀式のような静かな雰囲気を演出している。夢二は身近な女性を題材に、生涯にわたって理想の女性像を追求した。

港屋絵草子店(みなとや版) 竹久夢二作   大正3年(1914)頃

大正3年(1914)10月1日に港屋絵草紙店を開店した。「いきな木版画、かわいい石飯画、カードや絵本、詩集や絵日傘人形、千代紙、反襟」などを扱う店として開業した。同棲生活を続けていたものの、離婚した最初の妻たまきが自活できるように、夢二がこの店を出したのだと言われる。この木版画は、東京のモダンな男女を描いた「みなと屋」の商品の一つである。

玉椿(みなとや版) 竹久夢二作   大正3~5年(1914~16)

夢二のデザイナーとしての作品の一つで、当時のみなと屋の商品であり、夢二のデザインの港屋のオリジナル商品である。江戸趣味と異国趣味が取り入れられ、独特の雰囲気を醸し出していた。港屋は東京名物の一つに数えられ、とくに若い女性の人気が高かった。店には夢二を慕う若い画学生も集い、ときには彼らの作品を扱う展覧会の会場ともなった。しかし、次第に夢二の興味も薄らいで品数も減っていき、大正5年(1916)に閉店した。

かるた会 新少女 竹久夢二作   口絵原画    大正4年(1915)頃

夢二は多くの雑誌や新聞、書籍などの挿絵を手掛けた。この「かるた会」は「新少女」大正5年(1916)1月号の挿絵の原画である。この時代は、多くの雑誌新聞に夢二は挿絵を描いていた。夢二の影響を受けた画家の一人である中原淳一は、夢二の挿絵は「小説の中の一場面や情景を説明する絵ではなく、その小説の中に出てくる、”女”の、また”人間”の、哀しさと宿命を、場面とは無関係に、一枚の絵として描いている」(昭和45年)と語っている。

「絵日傘」長田幹彦著一の巻 竹久夢二装蹄   大正8年(1919)

夢二は自著の装蹄のほか、他著の装蹄でも300冊近い書籍の装蹄を手掛けた。最も多く担当したのは長田幹彦の著作である。幹彦は夢二の装蹄について「よき援助者であり、伴走者であり、鞭撻者であった」と賛辞を贈っている。勿論、夢二の自著の装蹄も手がけ、全部で57冊に及ぶそうである。この装蹄は、本の表紙であり、本の横も見えることに注目してもらいたい。

舞姫  竹久夢二作  大正7年(1918)頃

夢二の絵は、書籍や雑誌など出版物によって全国に知られ、彼の肉筆画を見られる機会は限られていた。大正元年(1912)、京都府立図書館で開催された最初の個展である「第一回夢二作品展」は、その肉筆画が展示される機会とあって、同時期に催された文展に劣らぬ盛況ぶりであったという。「舞姫」は大正7年に開催された「竹久夢二抒情画展覧会」(京都府)への出品作である。夢二が何度も主題とした舞妓をほぼ投資大に描いた大作で、桜をあしらった装いが春の到来を感じさせる。

コーヒーと女  竹久夢二作  大正4年(1915)頃

唇に艶やかな紅を引いた女性がカフェで寛ぐという、まさに大正ロマン期らしいモダンな姿をさらさらと流れるような筆遣いで描いている。(個展の出展作である)

宵待草 楽譜の表紙 竹久夢二作  大正7年(1918)三版大正10年(1921)

楽譜の発行所、音楽社の「音楽界」編集部にいた妹尾幸次郎(1891~1961)は、大正4年(1915)にいくつかの作品の版権を譲り受けて、セノオ音楽出版社を創業した。大正期は凝った装幀の楽譜が登場したが、中でもセノオ楽譜はその代表格であり、西洋のオペラ、ロシア民謡、童謡、小唄など幅広い内容の楽譜が刊行された。夢二は大正5年から昭和2年(1927)にかけて270枚余りのセノオ楽譜の表紙を手掛けた。表紙は石販印刷で摺られ、内容は夢二らしい和装美人や洋装の少年少女像も数多く見られるが、装飾的なもの、木版画や影絵を思わせる簡略化されたもの等多岐にわたり、タイトル文字も夢二によってあわせて図案化された。セノオ楽譜での夢二の登場は表紙だけでなく、楽曲の作詞も20曲以上に及んだ。この「宵待草」は、代表作であり、良く歌われたそうである。私の自宅(愛知県)にも、セノオの楽譜が沢山残されており、非常に懐かしく思い出された。

五月  「婦人クラブ」大正15年5月号表紙   大正15年(1926)

明治末~大正期には、女子の進学率も上がり「小女界」「少女の友」「少女画報」といった少女雑誌が創刊され、その内容は少女たちにファッションも含めて大きな影響を与えた。夢二はこうした少女向けの雑誌を代表する流行挿絵画家であった。「婦人グラフ」は大正13年(1924)に創刊した婦人グラビア誌で、昭和3年(1928)11月号まで発刊された。表紙や挿絵には、彩色木版画を摺り込むという手間のかかった高級誌であった。この木版画は、職人によって彫られ、最新式の機械で摺ったもので発色がよい。木版画の下絵は、当時の代表的な挿絵画家が手掛けた。知名度の高い人気挿絵画家の夢二も、この雑誌に登場することになったのである。夢二の描く女性像は、洗練されたデザインで完成度が高く、ある種の「婦人クラブ」風ともいった統一感を放っている。この「五月」は、「婦人クラブ」大正15年(1926)5月号の表紙を飾った絵である。夢二らしい絵である。

「遠山に寄す」二曲一双屏風 竹久夢二作 昭和6年(1931)夢二郷土美術館

夢二の寂しげな様子をした自画像でもある。シルクハットをかぶり、コートを着てステッキをつく後姿の男性は、夢二の自画像である。「遠山に寄す」というタイトルは、大正8年(1919)に夢二が出版した「山へよする」を想起させるが、この歌集は夢二が愛した笠井彦乃を歌ったものであり、「山」とは彦乃のことである。交際に反対する彦乃の父親に知られないように二人は、彦乃が「山」、夢二が「川」という符合で手紙をやりとりしていた。夢二にとって「山」とは彦乃のことを指しており、この「遠山に寄す」の山も当然彦乃のことであろう。夢二の傍らに寄り添っていながら、それぞれ別の方向を見ている。その視線を辿ると、夢二が見ているのは遠くの「山」で、彦乃が見ているのは足元を流れる「川」である。ともに相手のことを想っていることが分かる。

 

竹久夢二は、大正ロマンの騎士であり、一度機会があれば、書いてみたいと、かねがね思っていたが、今回の東京ステーション・ギャラリーの企画は、その思いに応えてくれるものだった。しかし、展示されたものは「出版業界と夢二」とも題すべき内容であり、テーマの「夢二繚乱」とは、かなり違う内容であった。しかし、雑誌のグラビアや表紙、セノオの楽譜、挿絵など多分500点近い展示であり、数量的には、ゆっくり見られるものでは無かった。夢二の「人生遍歴」には殆ど触れていないが、絵画の解説に徹した。いずれ、「夢二美術館」等へ行く機会を作り、その時に、夢二の「女性遍歴」にじっくりと触れたい。

 

(本稿は、図録「夢二繚乱」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)