東京国立博物館  特別展   茶の湯(3)

江戸時代、大平の世においては茶の湯は変化の時代を迎えた。小堀遠州(1579~1647)を中心として、足利将軍家以来の武家の茶を復興しようとする徳川将軍家や、それを取り巻く大名家における動きがあり、公家の雅な世界を取り入れて新しい茶風を創ろうとする動きが生まれた。それが相互に影響を及ぼしあつていたのである。この章では、復古精神に基づきながら「きれいさび」と称される新たな茶風を確立し、武家の茶を再興した小堀遠州にまつわる道具を中心に、江戸時代前半の茶の湯を展観する。更に、松江藩主松平不昧(1751~1818)にまつわる道具や、江戸時代の豪商が所蔵した名品を招介する。なお、第5章として「近代数寄者の眼」があるが、ここでは畠山即応(1881~1971)の残した畠山記念館の名品を2点紹介する。

重文 志野矢筈口水指  銘 古岸 安土桃山時代(16世紀) 畠山記念館

桃山時代の志野水指の中でも、器形・釉調・衣文様において、優れた作行きを示す名品である。肩と胴下部に段をつけて箆で整えており、力強く堂々とした姿の水指で、腰のゆったりとした膨らみに対して頸のしばるは強く、外側に開き気味の厚い口縁と矢筈口を強調している。胴の周囲には鉄釉で葦と桧垣文が下絵付けられており、まるで水墨画のようなその風情が、冬枯れの岸辺を思わせることから「古岸」の銘が与えられた。

国宝  志野茶碗  銘 卯花墻(うのはなかき)安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀) 三井紀念美術館

日本で焼かれた茶碗で国宝に指定されているのは、本阿弥光悦作の白楽茶碗(銘富士山)と、この卯花墻の2碗のみである。美濃の牟田ケ洞(むたがほら)釜で焼かれたもので、歪んだ器形、奔放な箆削り・釉下の鉄絵などは織部好みに通じる作行きと言える。もと江戸冬樹家にあり、明治20年代中頃に室町三井家の高安の有に帰した。

黄瀬戸根太香合 美濃安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)三井紀念美術館

上手の黄瀬戸に見られる油揚げのような釉色に、胆盤(たんばん)の深い緑色と鉄顔料のかすれた褐色が味わい深い。陶器の香合としてはごく初期のものである。

志野重餅香合 美濃 安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)三井紀念美術館

志野裕の白に、釉下の鬼板(鉄顔料)の発色や赤い火色は絶妙で、志野香合の優品として知られている。

重文 奥高麗茶碗 銘三法 唐津 安土桃山時代~江戸時代(16~17世紀)久保惣記念美術館

褐色のざらざらとした胎で、口がやや端反りの自然な碗形を描く。両手に余るほど大きく、腰をわずかに折り、裾まで釉を掛けている。見込みには目跡が五つ残り、底は低めに緩く削り出し、兜巾が立つ。「奥高麗」とは、16世紀後半に焼かれた高麗茶碗の初期的な唐津焼と考えられる。

重文 禅院額字「潮音堂」 無準師範筆 南宋時代(13世紀) 致道博物館

無準師範(1177~1249)は臨済宗の高僧で、経山第34世となった。(1232)弟子には円覚寺の開山となった無学祖元や建長寺第二世となった兀庵普寧(1197~1276)、あるいは日本から入宋した円爾(1202~80)等がおり、日本の禅宗にも多大な影響を与えている。これは無準が円爾に贈った法堂の額字である。円爾は宋より帰国した直後、博多に承天寺を創建し、仁治3年(1242)に開山となった。無準はこれを祝して諸堂に懸ける額や牌(看板)のための書を贈った。本幅の紙面には、「普門院」朱文長方印がみられ、円爾が開創した東福寺に長らく伝えられたが、やがて小堀遠州が入手するに至った。茶会の席でたびたび床に掛けている。

重文 菊花天目茶碗 瀬戸、美濃 室町時代(16世紀) 藤田美術館

瀬戸または美濃で焼かれた和製の天目茶碗。中国の天目に倣った姿であるが、色や模様は日本特有のもので、鉄釉に黄色い釉の流れた様子を菊の花に見立てている。茶人小堀遠州が愛蔵したものの一つである。

重文 色絵鱗波文茶碗 仁清作  江戸時代(17世紀) 北村美術館

野々村仁清は色絵を大成し、江戸初期における京焼に大きな影響を与えた陶工である。本作品のように胴をゆるく撓めた茶碗は高麗茶碗に影響を受けたものと言われる。京都の雅な趣きを写した仁清の茶陶は、加賀藩や丸亀藩など、地方の有力大名に好まれ、注文制作が行われたことが記録に残る。本作品も加賀前田家の家老、本田家に伝わったもので、その後三井家に渡った、

重文 粉引茶碗 三芳粉引  朝鮮時代(16世紀)  三井紀念美術館

戦国の梟雄三好長慶が所持したところから三好粉引と呼ばれている。素地に白化粧を施し、上に透明釉を掛けた白茶碗で、その色調から粉引または粉吹と呼んでいる。胴に見られる笹葉状の火間(ひま)は釉の掛け残しによるもので、粉引茶碗独特の見所である。長慶のあと豊臣秀吉の手に渡ったという。

重文 井戸茶碗  銘細川  李朝時代(15~16世紀) 畠山記念館

かって細川三斎の所持によりその銘を冠する「細川」は、「喜左衛門」「加賀」と共に天下三井戸として茶人松平不昧に格を与えられ、大井戸茶碗の代表作に挙げられる。轆轤目が廻ったゆるやかな碗形の姿、ほんのりと赤味をたたえた明るい琵琶色の有、やや小振りであるが、くっきりと削り出された竹節台は高く、腰下高台脇から高台内にかけて梅花皮(かいらぎ)の鮮やかさなど見所を備え、とりわけ品格高く優美な作振りとなっている。本作は、畠山即応の取集品で、畠山記念館に収まっている。私は、畠山記念館は年間に何回も訪れるが、何時行っても目新しい茶器が展示されている。他館から借りず、すべて自館のみの所蔵品で、年間4回の展示替えをする、素晴らしい美術館である。多分、最後の「数寄者」であろう。

 

東京国立博物館の「茶の湯」と題する展覧会は、昭和55年(1980年)以来の出来事であり、約40年ぶりの開催である。ところが、「茶の湯」は上野だけではない。東京国立近代美術館では「茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術」を3月14日から5月21日まで開催中である。その図録によれば、1997年のイタリア展から2015年のロシア(モスクワ)展まで6回の海外展覧会を終えて、最後に日本で、「茶の湯」と、ほぼ同時期に開催している。それだけではない。出光美術館では4月15日より6月4日まで「茶の湯のうつわ」展を開催している。日本を代表する美術館が同じ時期に、かくも大々的な「茶の湯」展を開催する理由は何だろうか?日常的に、さほど興味を示さない人々が、ある時、偶然に、爆発的に「茶の湯」に興味を示すのは何故だろうか。常々、畠山記念館を愛好する私が、あれだけ素晴らしいお茶の美術品を展示する美術展には、お茶愛好家のご婦人としか思えない方々が、十数名程度しか観覧していないのに、何故、爆発的に、観覧者が増えたのであろうか。勿論、美術館側の作戦もあるだろう。例えば、東京国立博物館と近代美術館の間では、直行バスが運行されていた。美術館も独立行政法人となり、自立採算が求められる時代である。相互に顧客を送迎することにより、客数を増やそうとする商業主義も垣間見える。しかし、問題は主催者側だけでは無いだろう。観客側に大きな理由があったのであろう。日本人の生活は、この50年間ですっかり変わってしまった。50年前には、何処の家でも、床の間があり、違い棚があり、室町時代以降の日本の家の基礎が続いていた。それが、戦後、マンション住まいが普通になり、今や床の間や、違い棚が有る家が少数派になった。そんな生活の中で、「お茶を喫する習慣」がすっかり日本人から消えてしまった。「お茶の教室」に通う人すら、お茶を飲むのは「お稽古の日だけ」と答える人が多いそうである。(千 宗屋 「茶」)日常と切り離された「お茶」は今や、憧れの文化であり、文化人としての最低の教養として「茶の湯」を愉しんだのであろう。中には、勿論熱心な「お茶」を好む人がいたことは間違いないが。

 

(本稿は、図録「茶の湯  2017年」、図録「美の伝統  三井家 伝世の名宝  2010年」、図録「茶椀の中の宇宙  楽家一子相伝の芸術  2017年」、千宗屋「茶ー利休と今をつなぐ」を参照した)