東京国立博物館  特別展  茶の湯(1)

東京国立博物館でが、昭和55年(1980)秋、特別展「茶の美術」が開催された。東博の長い歴史の中で、茶の湯と正面から向き合う大規模な展覧会は、初めてであったそうである。この展覧会の図録の中で林家晴三氏は次のように書いている。「喫茶の歴史的な流れのなかで、いつしか固有の文化事業まで高められた「茶の湯」の世界で賞玩されてきたさまざまな美術を唐数寄物(からすきもの)、詫数寄(わびすき)、数寄(すき)の展開と三区分して展示した」。そこでは室町時代から江戸時代にかけて茶の湯を「唐物数寄」から「侘数寄」へ、そして「数寄の展開」という大きな展開としてとらえ、伝世の名品をそれぞれのなかに位置付け、茶の湯の歴史を見ようとするものであった。今回の展覧会では、これおを5つに区分して、茶の湯の全体像を、もう一度通観しようとする試みである。5章に分けて、唐物荘厳から唐物数寄、侘び茶の誕生からその大成へ、さらには江戸期における古典復興と現代の茶の湯の基礎となった近代数寄者の茶の湯を見るところまでである。まず、第一章の「足利将軍家の茶湯」から見てみよう。喫茶の習慣は、本格的に日本で浸透しはじめるのはおよそ12世紀の頃と言われる。僧侶を主とした中国との往来によって、当時宋王朝で主流であった抹茶の新しい喫茶法がもたらされ、次第に禅宗寺院や、武家、公家といった上流階級の間まで広まったと考えられる。室町時代になると、最高権力者である足利将軍には最高級の「唐物」が集められ、それらはコレクションの管理や鑑定を担当した同朋衆(どうぼうしゅう)によって系統立てて評価、分類された。茶の湯にまで及んだこの価値観は、のちの「茶の湯」に大きな影響を及ぼした。

国宝 曜変天目 稲葉天目 中国・建窯 南宋時代(12~13世紀)静嘉堂文庫美術館

「曜変」(ようへん)とは窯変の意味で、内面の黒釉上に斑文がうかび、その周囲に、青から藍に輝く光彩があらわれたものを言う。中国宋時代の建窯(福建省)で焼成された黒釉茶椀(天目)のうち、わが国で最も格付け高く、貴重なものとして伝えられてきた。今日現存するのは世界で三碗のみである。大徳寺龍光院、藤田美術館、静嘉堂所蔵の各一口で、いずれも国宝に指定されている。近年、中国で初めて南宋の都・臨安府(杭州)の官衙(迎賓館)跡地から曜変天目の陶片が出土し、注目を集めている。本碗は「稲葉天目」との別称があるように江戸時代に入って長く淀藩主稲葉家に伝えられた。昭和9年(1934)より岩崎家の所蔵となる。中国陶磁の至宝とされる名碗である。

国宝 油滴天目中国・建窯 南宋時代(12~13世紀)大阪市立東洋陶器美術館

油のしずくを敷きつめたような美しさから、中国では「滴珠」(てきしゅ)とも呼ぶ。黒釉のなかに含まれる鉄の微粒子が偶然に定着してあらわれる現象で、いわゆる窯変(ようへん)である。建窯産の天目茶碗は鎌倉・室町時代から日本に多く請来されたが、なかでも曜変天目と油滴天目は特に珍重された。この茶碗は古来、油滴天目中最高のものとされ、関白秀次が所持していたと伝えられる。その後、西本願寺、三井家、若狭酒井家に伝来したものである。

国宝 出山釈迦図 梁楷筆 三幅の一 南宋時代(13世紀) 東京国立博物館

梁楷(りょうかい)は南宋時代の宮廷画家で、人物・山水・道釈・鬼神を巧みに描いた。南宋初めの宮廷画家である。その精妙な筆は宮廷で敬服された。出山釈迦図は、永い苦行が正しい悟りへの道でないことを知って深山を出る釈迦の姿を描いたものであるが、「御前図画梁楷」の落款から宮中で描かれたことが明らかな作品である。雪景山水2巻と併せ、三幅対として、日本に伝わった。この三幅には、足利義満の「天山」印があることから、日本に舶来後、おそらく義満の時代に三幅対として鑑賞されるようになったと思われる。足利将軍家の蔵品目録である「御物御画目録」に記録され、唐絵の最上の品格を持つ東山御物として重んじられてきた。その後、三井家、本願寺などに別れて伝世したが、平成16年に三巻すべて東博の所蔵となった。

国宝紅白芙蓉図李廸筆絹本着色 南宋時代(慶元3年ー1197)東京国立博物館

李廸(生没年不詳)は南宋の宮廷画家で花鳥画の名手といわれた。本図は李廸の代表作の一つであり、画中に」「慶元丁己歳李廸筆」の落款があり、制作年の明らかな南宋画として貴重な作例である。図は紅白の芙蓉を描いたものだが、これは早朝に白い花を開き、時とともに少しずつ紅くなり、最後は真紅の花になる種類のもので、まるで、酒に酔うようであることから酔芙蓉と言われる。白芙蓉図は酔芙蓉の朝の姿、紅芙蓉は図は酔芙蓉の昼に向かう頃の姿を描いたものと思われる。李廸は時とともに変化する酔芙蓉図を、鮮麗な色彩と細微な筆描を用いて極めて写実的に描いている。本来はそれぞれ画冊形式の作品であったが、日本舶来後、茶室の掛物として対幅の掛軸に仕立てられたものと思われる。

重文 猿図 伝・毛松筆  絹本着色 南宋時代(13世紀) 東京国立博物館

単なる写実を超えて猿の心までとらえて表現していると言われる宋画の名品である。この幽庵とした空間の中に大きく描かれた猿は日本猿であると言われる。狩野探幽は本図に付属している外題で、筆者を南宋宮廷画家である毛松と鑑定している。毛松は南宋の乾道年間(1165~73)に宮廷画家となった子の毛益とともに花鳥走獣画をよくしたと伝えられている。本図の作者の確定は出来ないが、南宋時代の宮廷画家の名手の筆である可能性は高い。武田信玄の添状が付属しているが、それによると、本図は、元亀元年(570)に曼殊院の覚如が天台座主に任ぜられたことを祝って、信玄が覚如に寄進したもので、久しく曼殊院に伝来した。

国宝 青磁下蕪花入  南宋時代(13世紀) アルカシェール美術財団

粉青色の青磁釉がたっぷりと掛った甁は、腰が大きく張り丸く膨らんだ胴に筒状の頸がつき、口縁は平に作られている。大きめの高台が、総体を引き締めて調和の取れた姿にしている。この甁は南宋官窯の作と分類されたこともあったが、現在では龍泉窯の優れた作行きの青磁とされている。伝来は黒漆塗りの内箱の蓋裏に「節斎岡氏什物」と朱書きされているので、江戸時代後期の幕府の医官であった岡節斎の所持していたものと考えられている。節斎はのちに将軍家斉の侍医となり、松平不昧を茶友とした。

重文青磁 鳳凰耳花生龍泉窯南宋時代(13~14世紀)大阪市立東洋陶磁美術館

砧型の器形に、鳳凰をかたどった耳がつく青磁で、俗に鳳凰耳の花生と呼ばれるている。室町時代以降、中国陶磁は日本にさかんに運び込まれ、伝世している例が多い。この甁も何時のころからか丹波青山家に伝えられたものという。鳳凰耳には、「満声」(ばんせい)「千声」という名高いものがあるが、この甁はその比類ない釉色の美しさから、これらの花生に勝るとも劣らない。浙江省龍泉窯の最盛期の制作になるものと思われる。

重文青磁茶碗銘馬蝗絆」ばこうはん)龍泉窯南宋時代(13世紀)東洋陶器美術館

日本に伝えられた青磁茶碗のなかでも、姿、釉色が特に美しいばかりでなく、その伝来にまつわる逸話によって広く知られている作品である。この茶碗は安元初年(1175頃)に平重盛が浙江省杭州の育王山に黄金を喜捨した返礼として仏照禅師から贈られたものであり、その後室町時代に将軍足利義正(在位1449~73)が所持するところとなった。このとき、底にひび割れがあったため、これを中国に送ってこれに代わる茶碗を求めたところ、当時の中国にはこのような優れた青磁茶碗はすでになく、ひび割れを鎹(かすがい)で止めて日本に送り返してきた。あたかも大きな蝗(いなご)のように見える鎹が打たれたことによって、この茶碗の評価は一層高まり、馬蝗絆(ばこうはん)と名付けられた。

重文木葉天目このはてんもく)吉州窯南宋時代(12~13世紀)東洋陶磁美術館

建窯で作られた天目茶碗とは違い、吉州窯の天目茶碗は胎土が白く、土が緻密であるため、薄作りで、碗形も直線的に広がっている。高台が小さいのも特徴の一つである。吉州窯で黄褐色と黒釉の二重かけで、べつこうに似た釉調(ゆうちょう)のものを作っているが、この木葉天目も、その手法を使用して、その葉脈まで焼き上げる技法については、まだ定見を見ない。加賀藩前田家に伝来したものである。

 

通常、「茶の湯」の展覧会と言うと、年配のご婦人方が多数集まることが多いが、今回は若い女性(20~30代)が特に多かった。何故、茶の湯に若い女性だろうか?やはり、一種の教養として、「茶の湯」の道具も見て、知って、話題の一つに加えようとする気持ちが感じられた。だからお茶碗の前は、すごい人出で、釜や掛物は素通りで、殆ど見学する人もいない状態であった。入館する時に、切符を購入したら、「混んでますよ」と言われた。例えば畠山記念館では、未だかって「混雑していますよ」と言われたことは無かった。まさかと思い入って見たら、若い女性の大行列であった。茶道具に興味を持って戴くことは、この上も無く嬉しい。是非、お抹茶も楽しんで頂きたい。この項(1)は室町時代の将軍家の唐物(からもの)が多かったが、次項(2,3)以後は、桃山時代、江戸時代、近代数寄者(すきしゃ)の世界となる予定である。あまり面白い話ではないが、我慢して読んで戴きたい。

 

(本稿は、図録、「特別展 茶の湯  2017年」、図録「美の伝統 三井家 伝世の名宝」、図録「南宋の美  2010年」、図録「東洋陶滋の展開 1990年」、千宗屋「茶ー利休と今をつなぐ」を参照した)