東京国立近代美術館  MOMATコレクション展

東京国立近代美術館では、シーズンに合わせて、年間4回の所蔵名品展(MOMAT展)を開催する。これは4月12日に東京国立近代美術館のMOMAT展を見学した際の展示品の中で、特に優れているか、問題視されたことがある近代絵画(日本画含む)をピックアップして、簡単な解説を加える。なお、中には重要文化財が含まれているが、近代絵画の中で、重要文化財に指定されている絵画は20点に過ぎない。名品中の名品であると考えて間違いないと思う。なお、過去に同じものを取り上げたことがあるが、それについては、解説を新しくしている。

重要文化財 騎龍観音像 原田直次郎作  明治23年(1890)

明治になり、日本の画家たちは、西洋画に倣って遠近法や陰影描写を取り入れ始めた。本作はそうした受容の初期の重要な作例である。明治23年(1890)上野公演で開かれた第3回内国勧業博覧会の出品作である。当時は「サーカスの綱渡りのようだ」との酷評もあったが、それを擁護したのが親友の森鴎外であった。原田直次郎は、保守的なミュンヘンアカデミーで2年半、西洋の伝統的アカデミズムを学び、明治20年7月、鴎外より一足先に帰国した。この作品は、手に楊柳(やなぎ)の一枝をさげ、白衣観音が緑青色の背をした龍に乗って暗雲たちこめる火焔を渡るところを描いた宗教画であると思う。鴎外は、反論し、擁護した。夭折した原田直次郎に対し、画壇の重鎮、黒田清輝は次のような追討の言葉を贈っている。「画についてはいかにも思想の高い人で、又思想ということを技術よりも余程重く見ている人である。若し、この人が短命でなかったならば、この想と言い必ず面白い作品が沢山出来て、我が国に一種の理想画が発達したことであろう」(原田線先生記念帳)流石に、重要文化財に指定されるだけのことは有ると思った。

重要文化財 賢首菩薩  菱田春草作 絹本着色  明治40年(1907)

華厳宗の第三祖、中国唐時代の名僧である宝蔵大師は「賢首菩薩」と呼ばれた。側天武功の直問に答えるために、庭先にあった黄金の獅子をかりて華厳経の教えを諭した場面を描いている。それまでは、輪郭線を描かず絵具を空刷毛でぼかす朦朧体で描いていたが、初めての点描を試みた作品で、第一回文展で二等賞を受賞した。一等賞は該当なしであったため、首位の作品である。これに疑問の声もあったが、それを聞いて春草は「来年はもっと程度を下げて、審査員に解る絵を描いてやろう」と言ったという。菱田春草(1874~1911)は長野県に生まれ、結城正明に学び、東京美術学校へ入学する。日本美術院の創立時から横山大観と共に朦朧体等の実験を重ねる。日本美術院が五浦(いずら)へ移転し、そこでの研鑽の成果が本作品である。以後、写実と琳派の装飾性を兼ねた作品を発表した。

南風 和田三蔵作            明治40年(1907)

第一回文展で、最高賞に該当する二等賞を受賞した作品である。海上を帆走する船に、勇壮四人の漁師が描かれている。堂々とした体躯の中央に立つ男は、上着で暑い陽射しを避け、その上着は南風を受けてはためく。男が腰に巻いた赤い布と青々とした海の鮮烈な対比、帆影の描写によって、夏の陽射しや風の強さが伝わってくるようである。この作品は当時の浪漫主義外光派の代表作とされ、「人物の各自の表情も善く、兎に角第一等の作」で「強い覇気のある作品」として好評を博した。作家は兵庫県に生まれ(1883~1967)、上京して白馬会洋画研究所、東京美術学校西洋画科で学んだ。1905年の白馬会十周年記念展で白馬会賞を受賞。第一回文展でに出品したこの作品も二等賞を連続受賞し、1909年から15年まで文部省留学生として渡欧。帰国後は、工芸、図案の方面で活躍し、東京美術学校で図案化主任などを勤めた。

小雨降る吉野(左隻)二曲一双 菊池訪文作      大正3年(1914)

吉野山に題を得たこの作品で、作家は、桜の名手といわれた名人芸を発揮すると同時に、その高度な芸をも感傷的に眺めるような観照の世界を、無理のない画面の構成のうちに展開させる。名手の技巧を示す左隻の満開の桜に目を向け、その美しさからおのずと遠い桜に目を転ずる観照の世界へといざなう。古くから吉野の桜が開く観照のコチーフとなっており、法文はこのモチーフを小雨に煙る吉野山に着想した。風景の観照には、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」と詠われた悲劇の舞台への歴史的感傷が漂う様である。法文にとって吉野山の風景は、その桜ゆえに、華麗な花鳥画の舞台となる一方、その歴史ゆえに、しめやかな観照の舞台でもあったのだろう。静かな歴史的観照のうちに漂い出る消えゆくものの美しさに、四条派の最後を飾ると言われた訪文らしさがうかがえる。

重要文化財 行く春 六曲一双屏風 川合玉堂作     大正5年(1916)

京都と東京で日本画を学んだ玉堂は、水墨技法を色彩表現と融合させた、独自の温和な風景描写を確立した。彼の作品では、四季折々の日本の風景とそこに暮らす人々の日常を、何の衒いもなく平明に描くのを特徴とするが、そうした平明さを実現させるために、玉堂は西洋的な遠近法の表現を積極的に取り入れた。本作は、埼玉県の長瀞(ながとろ)の光景を描いたものである。六曲一双の大画面である。そこで働く人の姿を描く。多くの日本人が「風景」の中に見出す情緒を、玉堂は近代的な視覚から見ても不自然さの無い広がりの中に描き表した。近代の日本画における新機軸を示した、この作品は1971年に重要文化財に指定された。

麗子像(五歳の像) 岸田劉生作     大正7年(1918)

娘麗子を描いた最初の油絵である。画面上部のアーチの下には「千九百十八年十月八日擱筆」「画家之娘麗子・五歳・娘の父写す」と記されている。5歳というのは数え年で、このとき麗子は4歳6ケ月であった。右手に赤まんまの花を持つポーズや克明な描写は、この頃心酔していたデューラーからの影響を思わせるが、この作品で手ごたえを感じた劉生は、次第に独自の「内なる美」の探究へと向かっていく。

京の家・奈良の家  速水御舟作      昭和2年(1927)

右に京都の町家、左に奈良で良く見られた大和棟の家屋が描かれる。「京の家」の黄色い家を見ると、下の方では遠近の法則から離れて、横方向の線がことごとく平行に引かれている。正確な建物の描写や奥行きを表現するよりも、平面上の造形要素を整理することが優先されているのである。「奈良の家」では整理した結果、特に中庭に空間の歪が顕著となっている。「構成」が絵画の主要な関心事となった時代に、御舟の知的な反応をうかがわせる代表作の一点である。

シンガポール最後の日 藤田嗣治作     昭和17年(1942)

この頃は、日本軍は破竹の勢いであった。小学校2年生であったわたしにも、日本軍の強さが頼もしい存在であった。戦後、画家仲間から「藤田は戦犯である」とされ、フランスへの渡航は出来ないとされたが、占領軍に問い合わせた処、「戦犯では無い」とのお墨付きを得て、藤田が非常に喜んだことが日記に記されている。しかし、何故かフランスでは無く、昭和24年にまずアメリカへ一人で渡航し、そこで1年ほど過ごしてから、昭和25年(1950)にフランスに移り、奥さんも呼び寄せた。最後は、フランス国籍を得て、カトリックに改宗し、1955年(69歳)にカトリックの洗礼を受け、洗礼名の「レオナール」をとって、「レオナール・フジタ」と名乗った。同年、フランス政府よりレジョン・ドヌール勲章を受章した。1966年(昭和43)、静養先のスイス、チューリッヒで死去した。享年81歳。日本政府は勲一等瑞宝章を贈った。戦犯として日本画壇から追放同様の仕打ちを受けた藤田の死に際し、日本政府は最高の勲章で報いた。日本画壇では、何の反応も無かったように思う。最近、藤田の展覧会が多いが、今改めて藤田の業績が、一般社会から、高く評価されているのであろう。

 

東京国立近代美術館には、流石に名品が揃っていると思う。ここに取り上げた、明治、大正、昭和の名品8点のうち、重要文化財が3点も含まれている。この時代には、絵画の世界に作家が口をはさみ、その影響力が結構大きいことを異常に思う。しかし、当時としては、桜谷の「寒月」に、漱石がもの言いを付け、「写真屋の風景画として張れば良い」とか、原田直次郎の「騎龍観音像」に対する世間の批判に対し、鴎外が応援を送るなど、今では考えられない判断が、画壇を支配する傾向があり、世人も、この判断に頷き、納得する傾向があったようである。これら作家は、帝大を出て、イギリス、ドイツに留学し、世上最高のエリートとして認められ、何事にも口を出し、それを良しとする傾向が、日本にあったのであろう。日本人の美術・芸術に対する判断力が、いまだに生長していなかったのであろう。

 

(本稿は、図録「東京国立近代美術館  名品選」、図録「近代日本の美術 東京国立近代美術館名品選」、図録「日展100年 2007年」、現色日本の美術「第26巻 近代の日本画」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」を参照した)