東京国立近代美術館 2016年第1回館蔵品名品展(明治・大正)

東京国立近代美術館は、1952(昭和27)年、日本初の国立近代美術館として東京の京橋に開館した。たまたま私の勤務先に近い場所であったため、良く出かけたけれども収蔵品も少なく、ブリジストン美術館と比較すれば、魅力ある存在では無かった。その後、現在の竹橋に移転して、収蔵品を増やし、現在では12,500点に及んでいる。これらの収蔵品を通して、1900年頃から今日に至る、日本とそれを取り巻く世界の美術の流れを展示するのが、この美術館の役割である。一時は展示品が多すぎて、絞り切れない時期が続いたが、今では、年間4回程度に分けて、有名作品、美しい作品を展示して、喜ばせてくれる。今回は、2016年度第1回の館蔵品名品展で、息を飲むような名品に出会うことが出来て、本当に楽しい時間を過ごすことができた。この展示会では、作品が多いため、日本人の絵画で、明治・大正と昭和の2回に分けて連載する。なお作品の選定については、私の好みで、かつ写真が入手できたものに限定した。

重要文化財 湯女(ゆな) 槌田麦僊作 紙本彩色 屏風(2曲1双)大正7年(1918)

img744

土田麦僊は、ヨーロッパ美術に対する強い憧憬を持ちつつ自己の芸術の方向を模索した。「油絵具でなければ自分の心情は表現できない。何度か日本画を呪い、捨てようと思った」という意味のことをのちに書いている。究極的には西洋近代絵画へ開かれた目を日本の古典的絵画に向けて、そこに近代絵画を成り立たたしめる要素を再発見し、この経緯のうちに自己の画風を築くのでだが、「湯女」は後期印象派への強い共鳴を示していた時期の作品である。麦僊が意図したのは、どちらが主でも従でもない風景画と人物画の融合であった。好色本や黒表紙本、さらに鳥居派の作例なども広く学び、江戸風俗画の官能やルノワールの情感、大和絵や桃山障壁画の雄渾な装飾感など、さまざまな要素を渾然と画面の中に取り込んでいる。国画創作協会第1回展に出品し、注目された。

夏  中沢弘光作  油彩・麻布         明治40年(1907)

img745

はじめ大野幸彦や堀江正章から、基礎洪として工部美術学校流のコンテと擦筆による厳格な素描を学び、ことにコバルト先生と称された堀江からは色彩の意味を伝えられた。次いで色彩の開眼は、黒田のもたらした外光描写への接近を容易にし、その手法によって自らの画風を形成した。この作品の特徴は平明な色調である。夏の陽光の激しい輝きは抑制される一方、陰影もほとんど除かれ、ニュアンスはあるが強いコントラストは見られない。未成熟ながら明治市民意識の台頭を背景に、中沢は、均質化された光と色彩によって穏やかなではあるが感覚的な喜びと感情を表現しようとしている。

うつつ 藤島武二作  油彩・麻布      大正12年(1913)

img747

藤島武二の画風は、黒田清輝のもたらした外光派絵画を基礎としながらも、その平明な自然観照をこえ、黒田になかった豊かな叙情性を特色としていた。それは明治30年代の浪漫主義文学の隆盛と新たな世紀末美術の紹介に呼応して描かれた「天平の面影」に代表され、耽美的で情趣と優美な装飾性が強く示されていた。その後4年間にわたるフランス、イタリア留学によって、繊細で優美なものから強直で重厚なものへと一変した。この「うつつ」は、そうした変貌をとげた藤島が帰国後にはじめて日本で描いた作品である。しどけない女性の姿とまどろむような眼差しは甘美でさえあり、それはかっての耽美的な情趣と共通するが、一方で留学中の剛直な筆致はやわらかく平明なものとなり、その後の藤島の作品を特徴づけるものとなっている。記憶すべき逸品である。

重要文化財 道路と土手の切通し岸田劉生作 油彩、麻布 大正4年(1915)

img748

これは、代々木当たりの土手と道路である。彼の代々木時代(1914~1917)に描いた風景画の代表作であり、第2回草土社(1916)に出展した作品である。劉生はこれを「クラッシックの感化」すなわち西洋の古典的絵画の影響を脱し、再び「じかに自然の質量そのものにぶつかってみたい要求が目覚め」として生まれた風景画の一つに挙げている。劉生がその独自の写実様式を確立した作品で、彼の風景画の代表作であり、近代日本洋画の傑作の一つであると思う。

麗子五歳之像  岸田劉生作 油彩、麻布     大正7年(1918)

img749

最初の油絵による麗子像である。1918年の8月下旬に着手され途中中断もあったが、実質20日間ほどかけて10月8日に描き上げている。言うまでもないが5歳は数え年で、萬では4歳である。この絵は、額縁に入った形で描かれている。ここで得た自信こそが、以後麗子像やお松像を描くスプリンターボードとなったのであろう。岸田麗子さんには「父岸田劉生」という本がある。この5歳像について、次のように述べている。「数え年5歳になった私ははじめての油絵のモデルになって、モデル台の上に座った。藍の色の美しいちじみの浴衣を着て、赤まんまの花を手に持った「五歳麗子之像」がそれである。この絵が最初でこれから数多くの油絵、水彩、素描のモデルになり、たくさんの麗子像ができたが、この最初の五歳之像には父の気持ちにやはり何か特別なものがあった気がする。画面の上の方はアーチで飾られ、その下に中心から左右に分けて装飾風に描き込まれた文字を読んでみると、”千九百十八年、十月八日擱筆 画家之娘麗子・五歳・娘の父写す”とある。」

バラと少女 村山槐多作 油絵、麻布      大正6年(1917)

img750

この作品は「奈良美智がえらぶMOMAT」というブースに飾られていた。一番奥に見えたが、最も強く引き付けられ、食い付くように見込んだ絵である。作者は22歳で夭折した村山槐多で、20歳の時の絵であるそうだ。10代の頃からボードレールやランボーに読み耽り、自分でも詩を書いていたという。奈良美知恵さんは「当時の美術学校の優等生には絶対に描けない絵だろう。技量を超える強い力を持った絵なのだ」と評している。これ以上の解説は不要だろう。今回の展示品の中で一番記憶に残る作品である。

三星  関根正二作  油彩・キャンパス    大正8年(1919)

img751

3人人物が並ぶ、不思議な絵である。中央は関根本人、両脇の女性は彼の姉と、失恋した恋人だと伝えられる。(ただし、中央の人物も、赤外線写真で見ると乳房が確認でき、当初は女性として構想されていたようである)。題目の「三星」とはオリオン座の中央の三ツ星のことだというから、関根は闇の中に浮かぶ自身と近しい女性たちを、夜空の星になぞらえることで、神話化しようとしたのであろうか。中央の人物、すなわち関根の頭部に巻かれた包帯も、ファン・ゴッホの「耳を切った自画像」を連想させ、強い時代意識と切迫した想いを感じさせる。(「大原美術館」の「信仰の悲しみ」を参照ねがいたい。)

重要文化財 エロシェンコ氏像  中村彜作 油彩、麻布 大正9年(1920)

img752

モデルは一時新宿中村屋に身を寄せていたエスペランティストで詩人の盲目のロシア青年である。彜(つね)の友人・鶴田吾郎がたまたま目白駅で一人立っているエロシェンコを見かけてモデルを頼み、当時借家住まいで画室のなかった鶴田が彜にこの話をすると、彼も描きたいというので、9月6日から彜の画室で描き出した。8日午前いっぱい描き続け、もう1日やりたいという彜を鶴田はとどめて筆をおかせた。彜は、この絵をごく少なく限り、薄く溶いた絵具を含んだ絵筆をやわらかく使って、モデルを的確に写すと同時に画面に微かなしかし生気ある韻律を与えている。近代日本の肖像画の傑作である。因みに、鶴田の「エロシェンコ氏像」は、新宿中村屋美術館が所蔵している。これも優品である。

 

日本の近代絵画(洋画、日本画)は、西洋の強い影響を受けつつ、日本らしい美しさや貧しさを表現している。私は、西洋絵画よりも、同時代の日本人画家の作品を多く見る機会が多いし、かつ、そこに楽しみを求めている。ここでは3点の重要文化財が含まれるが、私に一番強い印象を与えたのは、村山槐多の「バラと少女」である。

 

(本稿は、図録「東京国立近代美術館 名品選」、図録「近代日本の美術 1984年」、図録「日展100年  2007年、土方定一「日本の近代美術」を参照した)