東大寺    大仏開眼供養

大仏造立は大仏の原型となる土の像が天平18年(746)10月に完成、鋳造自体は翌年(747)9月に開始され、天平勝宝元年(749)10月までの3年、8度の鋳継ぎを経て完成した。大仏の鋳造が終わった年の2月、残念ながら勧進の役を担った行基は大仏の完成を見ることなく、82歳の生涯を閉じている。大仏の鋳造が終わると螺髪(らはつ)や脇侍の如意輪観音、虚空蔵菩薩の造像、さらに大仏殿の造営も行われ、天平勝宝3年(751)中には主だった作業が終了した。完成した大仏の開眼供養については「日本書記」に言う仏教の日本への渡来の年、欽明天皇13年(552)から200年という節目の年である天平勝宝4年(752)、釈迦の誕生日に当たる4月8日に執り行われることが決定された。しかし、実際には翌9日に開眼供養が行われている。この日程の変更理由の記述はどの記録、古文書にも触れられておらず、判然としない。雨天のためとかの理由かも知れない。天平勝宝4年(752)4月9日(続日本紀による)、東大寺大仏殿(廬舎那仏)の開眼供養が盛大に行われた。大仏殿の前の中庭には東西に五色の幡と宝樹が立てられ、購読師の座る高座が東西に設けられた。中央には舞台が設けられている。大仏殿の内部には裏に至るまで造花と刺繍の蟠が飾られ、大仏の前には玉壁がしつらえられた。そこには聖務太政天皇、光明皇太后、孝謙天皇が着席した。周りには多くの官人がとり囲んでいる。南門から僧侶千二十六名、東から大仏開眼導師であるインドから渡来した菩提僧正(菩提僊那)が参入。続いて西から「華厳経」を説く講師の隆尊律師が、同じく東からは同経を読む読師の延福法師が入場した。

大仏殿(現在の大仏殿)               江戸時代(17世紀)

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完成した大仏殿は、2度の兵火で焼かれ、復興され、現在の大仏殿は江戸時代の元禄5年(1692)に開眼供養が行われた。寺は創建当時より、かなり縮小している。

天平宝物筆ハチクの仮斑竹 鹿毛・羊毛・狸毛・一枝・奈良時代(8世紀)正倉院  天平宝物墨 一挺               奈良時代(8世紀)  正倉院

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大仏の瞳に墨を入れる開眼の作法は、聖務太政天皇が行うところであったが体調がすぐれないためインドから渡来した菩提僧正が代行することになった。菩提僧正は大階段を登り、大きな筆に墨をつけて大仏の瞳を描き込んだ。この筆と墨は、正倉院に伝わっている。

縹縷(はなだのる)(開眼縷)  絹製、藍染   奈良時代(8世紀)正倉院

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開眼の筆を執ったのは、天平8年(736)5月に請われて来日をしていたインドの僧、菩提僊那(ぼだいせんな)であった。開眼筆に長大な縹(はなだ)色の縷(る)が結び付けられ、それを既に天皇の位を譲っていた聖務太政天皇や光明皇后、娘の孝謙天皇、文武百官、一万人の僧など参列者も持ち、ともに開眼した。開眼に用いた筆、墨、縹縷(はなだる)は、共に正倉院に保管されている。筆は長さが56.6cm、墨は長さが52.5cm、縷の長さが190メートルを超える長大なものである。私は2010年の光明皇后1250年遠忌「東大寺大仏」で拝観している。(写真は2010年に行われた「東大寺大仏」の図録から写した)

伎楽面 獅子児 捨目師作           奈良時代(8世紀)     伎楽面 獅子児 捨目師作           奈良時代(8世紀)

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開眼に続いて「華厳経」の請説や唐楽、高麗楽、林邑(ベトナム周辺)楽など国際色豊かな舞楽が奉納された。この時に用いられた伎楽面は正倉院に伝わっている。作者名の判明した2面の写真を載せたが、他に多数の伎楽面が残されている。この時の様子を「続日本紀」は「仏法東帰してより齋会の儀、未だ寡て此のごとくの盛なることあらず」と記しており、非常に盛大なものであったことがうかがえる。大仏開眼供養会が終わると5月1日には良弁が東大寺の初代別当に任命された。

 

続日本紀の天平勝宝4年(752)夏4月9日の項には、次のように記している。(現代語訳 続日本紀 中巻)「東大寺の縷舎那仏の像が完成して、開眼供養した。この日、天皇は東大寺に行幸し、天皇みずから文武の官人たちを引き連れて、供養の食事を設け、盛大な法会を行った。その儀式はまったく元旦のそれと同じであった。五位以上の官人は礼服を着用し、六位以下の官人は位階に相当した長服を着た。僧一万人を招請した。それまでに雅楽寮(うたりょう)および緒寺のさまざまな楽人が集められた。またすべての皇族・官人・諸氏族による五節(ごせち)の舞・久米舞・竪伏(たてふし)(楯・刀などをもって舞う)踏歌(あられしばり)・袍袴(袍や袴をつけた舞)などの歌舞が行われた。東西にわかれて歌い、庭にはそれぞれ分かれて演奏した。その状況のすばらしさは、一々書き尽くせない程であった。仏法が東法に伝わって以来、斎会(食事を供養する法会)としていまだかってこのような盛大なものはなかった」続日本紀の中でも一番生き生きと描かれた状であった。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」、入江泰吉「大和古寺巡礼」全六巻のうち「第一巻 平城京」、入江泰吉「写真 大和路」、探訪日本の古寺「第三巻 奈良Ⅲ」続日本紀三巻の内「中巻」を参参照した)