東大寺   お堂(2)

東大寺の境内には、多数のお堂が存在する。特に、東大寺の創建や、再建に功績のあった名僧たちを祀るお堂が多いが、それ以外に鐘楼や転害門(てがいもん)などもある。いずれも歴史があり、東大寺を語るには欠かせない重要なお堂や尊像等である。御堂(2)として、(1)以外のお堂について述べたい。

行基堂  木造  1間四方

聖務天皇は、天平15年(743)10月15日に紫香楽宮(しがらきぐう)で、「廬遮那仏建立の詔」を発せられた。造立の詔の中で聖務天皇は「自ら念を存し、廬遮那仏を造るべし」、「人有りて一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんこと情(こころ)に願はば聴(ゆる)せ」と述べ、皆のための大仏として、造立に広く民衆に自主的な協力を求めたのである。大仏建立は詔が発せられた紫香楽宮で始められた。当時、すでに民衆からの厚い信頼を得ていた行基が聖務天皇の思いに賛同し、勧進の役を担った。すぐに行基は弟子たちを伴って諸国の勧進に出発した。天平17年(745)5月に平城京に遷都すると8月には大仏建立が大和国金光明寺の地域で再開されることになった。天平17年(745)、勧進の功により行基は大僧正に任じられ、天平21年(749)には聖務上皇らに菩薩戒を授け、行基は大菩薩号を贈られた。大仏の建立が近づいた天平勝宝元年(749)2月、残念ながら勧進の大役を担った行基は大仏の完成をみることなく、82歳の生涯を菅原寺で亡くなった。行基堂は、その行基を祀るために創建された建物である。鐘楼と同じ岡の地区に建ち、質素な方1間の小堂である。如何にも行基らしい粗末なお堂である。

重要文化財 行基画  (四聖御影より 部分)   南北朝時代

行基は、大仏建立の功により、聖務天皇などと共に、「東大寺四聖」の一人に数えられている。聖務天皇、菩提僊那、良弁、行基を「四聖」と呼んで、この「四聖」を描いた「四聖御影」(ししょうみえ)永和本(えいわほん)が伝わっている。その一部である。行基は文殊菩薩の化身とされている。

俊乗堂  入母屋造 本瓦葺           江戸時代(18世紀)

俊乗堂は、鐘楼のある広部に南面して建つ方3間の建物である。江戸中期、公慶上人が重源上人を安置する御影堂として、宝永元年(1704)に建立し、この時、重源像の厨子や位牌なども造られた。落慶御、重源のために法華八幡講が営まれ、現在も続けられている。

国宝  重源商人坐像  木造 像高82.5cm   鎌倉時代

等身大の檜の寄木造りである。俊乗堂に安置されている。やや前かがみに背を丸め、両手で数珠をつまぐる写実的な像である。重源が自寂した直後に造られたものである。作者は、重源を信仰の師として仰いだ快慶とする説もあるが、作風から運慶説もある。毎年7月5日に特別公開される。

国宝 鐘楼  入母屋造り  本瓦葺き        鎌倉時代(13世紀)

大仏殿東方の台地上に建つ。古代伽藍の一般的な鐘楼の位置とは異なるが、梵鐘にも焼損の跡がなく、当初からここに建てられたと考えられる。この鐘楼は、重源に次いで第2代東大寺勧進となった栄西(えいさい)によって、承元年間(13世紀初め)に再建された。基壇上に方1間、四方を吹き放して入母屋造りの屋根を載せている。日本禅宗の祖、栄西が宗で学んだ禅宗様と大仏様の様式が加わった、豪快な建物である。

国宝  梵鐘  銅造  総高 385.5cm  奈良時代(8世紀)

東大寺創建当初に鋳造されたものである。大法要前に集会(しゅうえ)をうながす際や、毎夜8時に撞かれた。大晦日には,NHKの「行くとし、来るとし」で、全国に除夜の鐘として流されたこともある。

勧進所入口(阿弥陀堂、八幡堂、公慶堂など)    江戸時代(17世紀)

勧進所は、大仏殿の西方、戒壇院と大仏殿の間の地にある区域をさす。貞享3年(1686)公慶上人は露座のままだった大仏の修理と、大仏殿の再建のため勧進所(龍松院)を創建し、ここを復興の本拠地として、京都・江戸など全国へ行脚し、勧進に勤めた。勧進所(非公開)には五劫思惟阿弥陀像(ごこうしゆいあみだぞう)を安置する阿弥陀堂や、僧形八幡神を祀る八幡殿、公慶上人を祀る公慶堂なども建っている。

国宝  僧形八幡神坐像  木造 像高87.1cm  鎌倉時代(13世紀)

建仁元年(1201)に快慶により造作された像で、勧進所八幡宮の御神体として制作された。東大寺の鎮守八幡宮の御神体として制作された。京都の神護寺から鳥羽天皇に献上され、鳥羽勝光明宝蔵に収められていた弘法大師由来と伝える八幡神画像に基づき造立されたものである。重源が快慶に写させて制作したという。檜の寄木造り、彫眼、彩色の像で、右手に錫杖、左手に数珠を持つ。秘仏のため、美しい色彩がそのまま残されている。毎年10月5日に転害会(てがいえ)の折に開扉され、拝観できる。重源上人像と同じ日であるので、覚えておくと同日に2つの秘仏に拝することが出来る。勧進所内の八幡殿に祀るが、明治以前は手向山八幡宮に安置されていた。

重要文化財 五劫思惟阿弥陀如来坐像  木造 像高106.ocm 中国宋時代

阿弥陀如来は、西方に極楽浄土を構える以前、五劫の間、思惟(しゆい)されたという。それに因んで作られたもので、頭髪は手入れせず山姥のようになっている、手の印は定印と合掌の二つがあるが、本像は月松印である。東大寺に伝わるこの像は、重源上人が、宋より将来された新様式である。珍しい様式である。私は奈良、京都で5仏を知っているが、数は多くないと思う。勧進所の阿弥陀堂に安置され、10月5日の転害会(てがいえ)の日のみ拝観できる。私は、「東大寺大仏展 2010年」で拝観している。

重要文化財 公慶上人坐像  木造 像高69.7cm  江戸時代(18世紀)

江戸時代前期の東大寺の僧・公慶(1648~1705)は、大仏殿の再興者である。宮津の人で、13歳で東大寺の大喜院に入り、英慶を師として出家し、主に三論を、学んだ。また、修二会にも練行衆として18回余り参籠している。当時大仏殿は三好三人衆と松永久秀の合戦で消亡し、大仏も露座のままであった。公慶は復興の志を固め、貞享元年(1684)大仏再建の勧進を始めた。公慶は、幕府より勧進の許可を得ると、鎌倉時代の勧進聖で東大寺再興の立役者・重源がかって住んだ地に勧進所(龍松院)を設けて、勧進活動を本格的に始めた。全国各地を巡ったが、その誠と熱意の姿に感動して,多数の人々が、多くの布施を施した。元禄5年(1692)には、大仏の補修を完成、開眼供養を行った。さらに元禄7年(1694)江戸に行き、幕府から諸国勧進の便宜を与えられ、諸大名の寄進などもあって宝永2年(1705)に大仏殿の上棟式を挙げたが、落慶を見ることなく、同年江戸で没した。公慶はまさに「俊乗坊重源の再来」と言える人である。この坐像は、勧進所内の公慶堂に安置されている。私は、2010年の「東大寺大仏展」で、拝観している。

国宝  転害門(てがいもん) 切妻造 本瓦葺 八脚門 奈良時代(8世紀)

東大寺西面大垣の北端に位置し、一条大路(通称 佐保通り)に向かって開かれた堂々たる門である。天平宝宇6年(762)頃の造営と考えられる。創建当初の伽藍建築を想像できる唯一の建物である。東大寺の鎮守・手向山八幡宮での転害会(てがいえ)がここを御旅所としたことから、その名がある。昭和20年代は、ここは外部と閉鎖されて、佐保通りへ出られなかったが、現在は通用門が出来て、外部と往来できるようになった。

 

 

御堂は、総じて言えば、東大寺創建、再建に功労のあった人々を顕彰するようなお堂が多いが、鐘楼、転害門等、創建時、再建時の建物もあり、古い時代の東大寺を偲ぶこともできる。大仏殿だけが、東大寺ではない。様々な御堂、建造物もしっかり見てもらいたい。

 

(本稿は、ビジュアル文庫「東大寺」、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、「第9巻 中世寺院と鎌倉彫刻」、探訪日本の古寺「第12巻 奈良Ⅲ」を参照した)