東大寺   南大門

東大寺を約10回程度に分けて、歴史と仏像についてまとめたい。歴史の上からは、法華堂(金鐘寺)から語るのが妥当であろうが、まず大仏殿の中の南大門から入りたい。近鉄奈良駅から登大路(のぼりおおじ)を東へ徒歩15分歩くと、東大寺の正門である南大門に至る。途中、鹿の歩く奈良公園を抜け、奈良国立博物館、興福寺を横に見て、参道を歩く。門を通してはるか向こうに中門と大仏殿が望まれる。南大門を仰ぎ見ると、その巨大さに圧倒される。高さ約25.5メートル、日本の寺院の中で最大、最高の南大門である。

国宝  南大門 5間3戸二重門 木造入母屋造 本瓦葺 正治元年(1199)鎌倉時代

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昭和の修理時(1930年完成)の調査によって、天平時代の創建時の門も、位置や平面の大きさは今と変わらないことが判明した。しかし、その構造や意匠は、現在の建物とは大きく違っていた。この門は応和2年(962)の台風で倒壊し、その後再建したか、あるいは治承の兵火(1180)で焼けたのか不明である。現在の門は正冶元年(1199)に上棟し、建仁3年(1203)の東大寺供養には、門内に安置される金剛力士(仁王)像と共に竣工していた。鎌倉時代初期、重源(ちょうげん)が大勧進(だいかんじん)となって進めた東大寺修復事業の一環として再建されたのである。「大仏様」(だいぶつよう)と呼ばれる中国・宋の建築様式を取り入れた技術で造られたこの門は、特別な構造を持っている。

国宝 南大門を横から写す 木造入母屋造 本瓦 正治元年(1199)鎌倉時代

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高く延びる柱を上層まで一本で通し、下の屋根は柱のすぐ内側で止まっていて、中は、上部の化粧屋根裏まで見える。長く突き出した軒を支える挿肘木(さしひじき)の重なり、扇形に配された軒の垂木(たるき)。どこから見ても力強さと量感に満ちており、見る者を圧倒する。

国宝 南大門の内部を写す 木造入母屋造 本瓦 正治元年(1199)鎌倉時代

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両端に板壁を設けるほかは、金剛力士後壁の上方もすべて葺き放しとしているため、はるか上の化粧屋根裏まで構造材を見通すことができる。柱には、貫(ぬき)が何段にも十文字に差し通されている。この建築様式が「大仏様」であり、「天竺様」(てんじくよう)とも称された。

国宝 金剛力士像(阿形)木造 運慶・快慶作 建仁3年(1203)鎌倉時代

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南大門の両側に立つ金剛力士(仁王)像で、むかって左が阿形像、右が吽形像(うんぎょうぞう)である。両者が向き合うのも他に例がない。当寺独得である。建仁3年(1203)、運慶・快慶ら4人の大仏師と多数の小仏師によって69日間という短期間に造られたという。まさに建造物のような組立である。一体当たり3000ケという。大仏の脇侍(きょうじ)(1567年に大仏殿とともに焼失)をはじめ、巨像の制作を行ってきた慶派一門の組織力と技術力の高さがうかがえる。施主は、重源上人である。阿形は金剛杵(こんごうしょう)を右手に持っている。

国宝 金剛力士像(吽形) 木造 運慶・快慶作 建仁3年(1203)鎌倉時代

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吽形は左手を大きく前に突き出す。風になびく天衣(てんね)と裳(も)の曲線、眼光鋭い憤怒(ふんぬ)の表情はいまにも動き出しそうな迫力で、鎌倉彫刻のリアリズムを代表する大作である。昭和63年(1988)から5年がかりで解体修理が行われ、その際、納入品や銘記が発見された。その結果、阿形から運慶・快慶の墨書銘が、吽形から上覚(じょうかく)・湛慶(たんけい)の墨書銘が確認された。吽形は内から湧き上がるような力を感じさせる表現力が見事である。

国宝 金剛力士像内納入品 如来面・菩薩頭部・比丘尼頭部 木造 平安~鎌倉時代(12~13世紀)

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東大寺南大門に立つ像高8メートルを超す阿吽一対の金剛力士像の像内に納められた木造の小仏像である。一部は昭和48年(1973)に取り出されたが、ほかは昭和63年から平成4年(1988~1992)に実施された解体修理の際に発見された。いずれも国宝指定を受けている。(納入品については図録「東大寺大仏展」から引用した。お経についても同じ)

国宝 法筐印陀羅尼経 紙本墨色  平安~鎌倉時代(12~13世紀)

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阿吽の像に各一巻が納められていた。巻末には阿形には建仁3年(1203)8月7日の年紀に続いて、光明真言「勧進東大寺大和和尚南無阿弥陀仏」、阿弥陀仏縁者名が記されている。阿形像は同様の重源の阿弥陀仏号の後に「大仏師運慶・アン阿弥陀仏・小仏師十三人、番匠十人/造東大寺大勧進大和尚/南無阿弥陀仏」と墨書されている。別当次第により、重源上人の指示で大仏師である運慶、湛慶、快慶、定角が造像に当たったことが、この納入品からも分る。

 

南大門に懸けられた額には「大華厳寺」と記されている。今まで何十回と見ているが、注意深く見て来なかったため、多分「東大寺」の額が掛けられていると思い込んでいたが、華厳経の世界を現す、大仏の南大門であるから「大華厳寺」は、当然の額かも知れない。治承3年(1180)、平重衡(しげひら)の兵火によって大仏殿や伽藍の多くを焼かれた東大寺では、その修復と復興に当たって勧進(かんじん)に抜擢(ばってき)された重源(ちょうげん)は、既に61歳を迎えていた。今ならば、総責任者として妥当な年齢であるが、奈良時代の60歳代は、多分現在の90歳代に当たるのではないだろうか。重源は、何回も宋に渡り、寺院造りに深い経験を持ち、まず大仏修理・鋳造を果たした。続いて大仏殿の再建に着手し、巨材は周防(山口県)の山中で得たと伝わる。ここでも、重源は、宋から連れてきた工人を登用し、日本と宋の技術を折衷改善して導入した新技法を採用した。この建築様式が「大仏様」、「天竺様」とも称されるものである。この「大仏様」が一番残っているのが、この南大門であり、今では貴重な遺構であり、兵庫県小野市の浄土寺(国宝)と二例が現存するものである。この直線美を生かした豪放な建築様式も、その斬新な意匠のゆえか、重源の死後は次第にすたれていった。

(本稿は、図録「東大寺大仏殿 天平の至宝  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」を参照した)