東大寺   大仏殿

東大寺建立に先立ち、金鐘寺(きんしょうじ)、金光明寺(こんこうみょうじ)等の建立があるが、それは他日法華堂の項で触れることにして、まずは東大寺大仏殿の建立から述べたい。天平15年(743)10月15日、聖務天皇は盧舎那仏造立の詔を発している(続日本紀)。近江国紫香楽(しがらき)の離宮においてであった。盧舎那仏は紫香楽宮近くの甲賀寺で造像が始められた。この大仏建立事業は民間僧(私度僧)であった行基が率いる集団が中心となって進められた。その功績により行基は大僧正(だいそうじょう)となった。しかし、大仏建立は中座し、天平17年(744)5月11日に紫香楽宮から平城京に都が戻るとともに、都の東の春日山麓の現在の地に造立の場を変えられた。その造営は大和国の国分寺に位置付けられた金光明寺で行われ、天平19年(746)9月に鋳造は始まった。銅は山口県の長登鉱山からもたらされたものである。天平20年(747)には造東大寺司が設けられ、金光明寺は東大寺と改称された。大仏の場所は甲賀寺から東大寺に変更となったが、盧舎那仏造立の詔にみられる聖務天皇の国家的理想はそのまま引き継がれた。東大寺の寺域は、丸山、若草山、春日奥山から南の山に至る広範囲を占めている。その中心となるのが天平勝宝4年(752)に開眼供養された大仏を本尊とする大仏殿(金堂)である。東大寺は二度の兵火により伽藍の大半が焼失した。治承4年(1180)、源平抗争のさなか12月には平重衡(しげひら)の軍勢が奈良を攻め、東大寺の大半の伽藍を焼失させた。この時の様子を「平家物語」は「御頭は焼落ちて大地に有り。御身は溶合いて山の如し」と書いている。また九条兼実は、その日記「玉葉」(ぎょくよう)に「仏法王法滅尽し了るか。凡そ言葉の及ぶところにあらず。筆端の記すべきにあらず。余このことを聞き、心身厝く(さく)がごとし」と綴って嘆き悲しんでいる。現在の仏像と大仏殿は公慶による勧進によって元禄4年(1691)、大仏の修復が完了、翌5年(1692)に盛大に改元供養が行われた。公慶の願いを聞き入れ幕府と諸大名からそれぞれ金五万両が拠出され、大仏殿も再興された。大仏殿の規模は七間四方に縮小された。大仏殿は宝永5年(1708)6月に完成し、翌6年3月に落慶供養が行われた。現在の大仏殿が完成した。

重要文化財 中門  木造  本瓦葺き   江戸時代(18世紀)

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大仏殿が完成したのは宝永5年(1708)であるが、それ以後、中門や廻廊が次々と建てられ、元文2年(1737)6月に現在の大仏殿が完成した。(現在修理中である)

国宝 大仏殿 一重裳階付き 寄棟造 本瓦葺 江戸時代(18世紀)

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宝永5年(1708)に大仏殿は寛政したが、明治維新の廃仏稀釈の流れは、巨大な堂舎があるが、一方で檀徒を持たない東大寺にとって、その維持管理に深刻な影響を与えた。大仏殿は江戸時代の再建から百数十年が経過しており、大規模な修理が必要であったが、明治政府には援助する余裕がなく、東大寺も大分会(だいぶつかい)という勧進組織を結成し勧進に勤めたが思うに任せなかった。この時期の本格的修理の着手は明治36年(1903)まで待たなくてはならなかった。明治の大修理は屋根の重さで湾曲してしまった虹梁の下にイギリスから輸入した鋼材を用いて支え、屋根の一部をセメント補強するなど当時の最新技術の導入によって成し遂げられた。大正4年(1915)5月に大仏殿落慶供養が行われた。また昭和49年(1974)から55年(1980)にわたって国の補助と有縁者の寄付によって修理が行われ、これも昭和55年に落慶供養が行われた。私は、この昭和の落慶供養には、たまたま明治乳業京都支店長に赴任した時であったので、出席して、当日の盛儀を拝観した。

国宝 大仏殿と八角灯籠(但し、灯籠は現代のものである)江戸時代(18世紀)

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現在の大仏殿は、奈良一番の人気スポットであり、観光客であふれている。奈良市内で一番観光客が多いのは、間違いなく大仏殿である。逆に、奈良時代建立の法華堂、正倉院、転外門(てがいもん)等を訪ねる観光客は、殆どいない。無知と言えばそれまでであるが、大仏殿だけが、東大寺で無いことは、この後、ゆっくり解説したい。

国宝 八角灯籠  銅製鍍金              奈良時代(8世紀)

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東大寺大仏殿(金堂)の正面に立つ巨大な金堂製(銅製、鍍金)の燈籠で、総高は実に464.4cm、総重量は3327.5キログラムをはかる。昭和20年代は、この国宝が大仏殿の前に立っていたが、風化の恐れがあり、現在は昭和製に置き換えられている。大まかな構成としては上から宝珠・笠・火袋・中台・竿・基台の組み合わせである。各部材は銅鋳造で、現在は緑青のため緑色を呈しているが、多くの材料に鍍金の跡が認められて、金銅であることがわかる。制作当初は全体が金色に輝いていたのである。八角形の火袋の四面には、斜め格子の透かしをバックに、天衣をなびかせながら楽器を奏する、あでやかな姿態の音声菩薩(おんじょうぼさつ)がレリーフ状に鋳出された羽目板が嵌匠されている。その作風からしばしば天平彫刻の代表的イメージともなってきた。根津美術館の中庭に、模造の八角灯籠が置かれている。

国宝 大廬舎那仏(所謂大仏さん) 金堂製・鍍金   江戸時代(17世紀)

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廬舎那仏(るしゃなぶつ)は智慧と慈悲の光明をあまねく照らし出す大仏である。天平15年(743)、聖務天皇の詔によって造像が発願され、天平勝宝4年(752)に完成し、開眼供養が行われたのである。使われた銅は500トンに及ぶという。聖務天皇の「国中の銅を使い果たしてでも」という言葉通りの大事業であった。現在われわれが見る大仏は元禄年間(1688~1704)になって公慶上人の勧進によって再興されたもの。当初の姿は腹部から台座の蓮弁にかけて、わずかにとどめている。観光客の大半は、この大仏さんを見学して満足して帰る。

国宝 廬舎那仏台座連弁(大仏周囲を取り囲む連弁)の一部 奈良時代(8世紀)

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大仏の台座連弁には、蓮華蔵世界が描かれている。蓮華蔵世界は、とてつもなく広大無辺な世界で、蓮華の上に無数の世界が様々な形で積み重なっている。「華厳経」には、廬舎那仏がこの蓮華蔵世界にあって、大光明を放って世界をあまねく照らし、無数の毛穴から化身の雲を出して一切の衆生(しゅうじょう)に説法しているところが説かれている。

廬舎那仏台座連弁の復元模写図

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台座連弁は度重なる被災ににも関わらず、幸い天平の連弁がかなり現存し、各仰蓮には線刻で蓮華世界が表現されている。この模写図は、その連弁から写し取った図である。まず、上段には蓮肉に座る説法相の如来像が中央に大きく、その周囲に22体の菩薩坐像が描かれている。図で興味深いのは右胸の乳首からも光線が放たれていることで、これは如来の全身から光が輝き出ることの象徴的な表現である。中段は26本の横線が真をおいて水平に引かれ、25段の区画を作る。この区画には頭光を付けた菩薩の頭部と楼閣などを描いているが、上の3段には何もなく空白である。下段には7つの大きな連弁からなる蓮華座があり、その左右に海が広がって、さらに山脈が蓮華座を囲むように聳えている。七つの仰蓮にはそれぞれの須弥山の世界が表現されている。

本尊右脇仏  虚空蔵菩薩像  木造         江戸時代(18世紀)

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虚空蔵とは広大無辺の功徳が虚空のように大きくてまた請われることがないという意味である。この菩薩は念じれば記憶が増すと考えられ、特に智慧を授ける仏として信仰されるようになった。ここの造像されたものが日本で最初の虚空蔵菩薩の作例となった。(現在のものは後作)大仏と反対に右手院、左手に施無為印を結ぶ。(この仏像について触れている本は一冊もない)

東北偶  多聞天像   木造          江戸時代(18世紀)

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本尊の脇侍と言うより、東北偶を守る四天王の一像と見られる。(但し、他の3天王像は見られない)古代インドより信仰された護世神、四天王像のうちの一つ。北方を、守り、左手に鉾を取って地に支え、右手は仏塔を捧げると言われる。毘沙門天とも呼ばれる。

重要文化財 東大寺回廊  木造           江戸時代(18世紀)

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東大寺大仏殿を取り囲む回廊であり、現在の建物は元文2年(1737)完成である。その中門と同じ時期に完成している。

東大寺遠景   二月堂より写す

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東大寺大仏殿の鴟尾が輝いている。東大寺はまじかに見るより、遠方から眺めたほうが美しい。これは二月堂から眺めた大仏殿の写真である。

晩秋大仏殿遠望                入江泰吉氏撮影

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入江泰吉氏は、戦後大和路をカメラを持って数十年に亘り歩き続けた、懐かしい人である。大阪で、終戦の年に戦災にあい、ふるさとの奈良へ引き上げた経緯がある。入江氏は、戦後の厳しい生活の中で、大和路を訪ね廻る人であった。「ちょうど、そのころ、意外な噂が街に流れた。わが国の古美術品を賠償の一部として、国外に持ち去られる、というのである。京都や奈良を爆撃しなかったのも、そのためだったのだ、と聞かされると、噂とはいえ、あるいは事実なのかもしれないと、思われるのであった。そうだとすれば、大変なことである。せっかく恵まれた、私にとって一番大切な、心の糧を奪い去られてしまうのである。私は暗然とした。あきらめきれないことだが、せめて写真に、のこそうと、考えついた。とにかくまがりなりにも機械のそろいしだい、撮影に着手した。」(かっこ内は入江泰吉「写真大和路」の「大和とともに」から引用)。私の大和古寺巡礼は、常に入江氏の写真に導かれて、始まった。この「晩秋大仏殿」は、入江泰吉 奈良写真美術館で購入した写真である。私が撮った写真とは比較にならない美しい写真である。

東大寺 萬灯会(まんとぅえ)の大仏殿         入江泰吉氏撮影

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「大晦日の夜、大仏殿内に燈がともり、殿前正面の八角灯籠(国宝)には火が入り、松明が焚かれる。情緒ある古都の新年である。」(かっこ内は入江泰吉氏の文承である)この景色は、大仏殿の新年の姿でもある。

 

東大寺大仏殿は、奈良観光の目玉であり、何時行っても満員の盛況である。最近は特に外国人(欧米系は昔から多かったが、ここ数年、アジア系外人が特に増えた。東京ー京都ー奈良はゴールデンルートなのだろう。しかし、観光客は、大仏さんを見るだけで満足し、東大寺のその他の社殿や仏像には興味を示さない。私は、今年は、まず東大寺全体をご招介したいと思う。古い歴史や、行事を通して東大寺全体を示せるような記事にしたい。

(本稿は、図録「東大寺大仏  2010年」、小学館ビジュアル文庫「東大寺」、入江泰吉「大和古寺巡礼全六巻の内「第1巻 平城京」、入江泰吉「写真 大和路」、探訪日本の古寺全15巻の内「第3巻 奈良 Ⅲ」、続日本紀全3巻の内「中」を参照した)