東大寺   遺跡と池

東大寺の歴史や美術を書いた書籍は枚挙に暇ないほど多数ある。しかし、鎌倉時代や江戸時代の東大寺再建で、再建されなかった遺構も多い。今回は、他の図書があまり取り上げない東大寺遺跡(再建されなかった建物等)と、寺内の池について触れてみた。

東大寺境内の地図             ビジュアル文庫「東大寺」より引用

東大寺境内の全図である。写真は小さくて分かり難いと思うが、まず2つの池を確認して頂きたい。南大門と大仏殿との中程に、鏡池という池がある。また、左奥に大仏池がある。この池が、最初からあったのか、造立に際し掘った池かは不明である。その上で、まず一番手前の南大門を確認してもらいたい。それを真直ぐ進めば、大仏殿である。大仏殿の右側はやや高みになっており、法華堂、二月堂が確認できると思う。大仏殿と法華堂の間に、数多くある御堂が開山堂や、行基堂、鐘楼などである。大仏殿の後ろを見てもらいたい。ここの講堂跡は、平家の戦火で焼失以来、再建されたことは無い。その右の食堂(じきどう)跡も再建されたことが無い、講堂跡の後ろに僧坊跡があるが、これも再建された事が無い。大仏池の後ろに正倉院がある。一番奥の左隅に転害門(てがいもん)がある、大仏殿の左側に戒壇院、勧進所の建物が並ぶ。

鏡池

鏡池の名称については、その由来を知らない。どの本を読んでも、池の由来は語っていない。鏡池の手前をやや右側に進めば、法華堂、二月堂にたどり着く。鏡池に並んだ場所に、東塔跡が残る。

東大寺  東塔跡

東大寺に、東西両塔が聳えていたことは文献でも明らかである。平成22年(2010)に東大寺は東塔再建の意向を打ち出した。西塔は、住宅地になっているため、再建は不可能であり、東塔のみの再建案であった。東大寺と奈良県文化財研究所と共同で東塔跡の探査を実施することになった。文献によれば、塔の高さは23丈(70m)とも30丈(100m)とも伝えられ、わが国で最高の塔であったことになる。因みに、現存する塔の中で最高の高さは、京都の東寺の塔(江戸時代再建)で55mである。東大寺の東西両塔が33丈、もしくは23丈としても、文句なしの日本一の高さである。現在は23丈(70m)の高さということで、議論は進められている。平成22年(2010)の7,8月に、塔跡を含む東西97m、南北110mを対象に、最初の調査をした。その時の結果は、地中レーダー(GRP)による探索であった。その解析の結果、塔の基壇部分の地中の状況と、東塔院(搭の周りを囲む院であった)の位置や規模が明らかになった。(7年後の今日、更に詳しい内容が分かってきたが、やや詳細に亘るので、今回はここまでとする)

講堂跡の遺石

東大寺の講堂は、大仏殿(金堂)の裏に当たり、東西に七重の塔を擁する日本最大の国分寺であったことが判る。講堂跡には遺石が建てられ、1200年前を偲ぶことが出来る。残念ながら、当日その遺跡を見学していたのは、私一人で、通りすがる人もいなかった。恐らく大仏殿を訪れる人の0.1%も。この講堂遺跡を見ないであろう。

講堂跡の礎石                                                           奈良時代(8世紀)

講堂跡の礎石は、まさしく大和国国分寺の礎石であり、整然と並んだ礎石は、全国に広がる元国分寺跡と同じであるが、規模は圧倒的に大きい。私は、機会があれば、全国各地の国分寺跡地を廻っているが、東大寺に勝る講堂跡地は見たことが無い。

東大寺僧坊跡晩秋          入江太吉氏撮影  奈良時代(8世紀)

食堂(じきどう)とは、文字通り僧侶の食堂(しょくどう)の跡である。一段高くなった場所があり、入江泰吉氏が撮影された写真である。講堂跡の右横に当たる。写真は入江泰吉奈良市写真美術館で購入したものである。正に晩秋を表す、素晴らしい一枚である。

大仏池より大仏殿を望む

大仏殿の左奥に、大仏池がある。ここから眺める大仏殿の甍は素晴らしい。大仏殿は正面より観るより、遠く離れた場所や、近く仰ぎ見る方が素晴らしい。

 

東大寺の各寺院を招介したので、順番として遺跡と池を巡ってみたが、やはり正倉院や東塔の開発の最新情報も必要であり、稿を改めることにしたい。

 

(本項は、図録「東大寺大仏 天平の至宝2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺「第12巻 奈良Ⅲ」、入江泰吉「写真 大和路」、青山茂他「大和古寺巡礼」を参照した)