東大寺  二月堂 お水取り

東大寺境内の東側ーかって上院と呼ばれた地区にあり、若草山の麓に経つ国宝二月堂の創建は天平時代までさかのぼる。現存の建物は寛文2年(1669)の再建であり、西正面からは大仏殿の鴟尾(しび)や奈良市街が見下ろせる。本尊は2体の十一面観音菩薩像であるが、秘仏のため、私は拝観したことが無い。二月堂では天平勝宝4年(752)以来1250年以上にわたり守り継がれたきた「修二会」(しゅにえ)の行(ぎょう)が旧暦2月に行われる。お水取り行事は、毎年テレビで放映され、観光書にも書かれて、一般に良く知られている。しかし、お水取りというのは、3月1日(新暦)から14日にかけて行われる修二会(しゅにえ)の一部で、必ずしも東大寺にかぎるわけではない。例えば、笠置の正月堂でも、奈良の秋篠寺でも、その他多くの神社仏閣で、古代からおこなわれてきていた「霊水を汲む」神事なのである。人間にとって、水は欠くことのできない生命の源である。ことに農耕を営む民族には、田畑を耕す水ほど大切なものはない。そこに仏教が渡来するよりはるか以前のことで、縄文・弥生の遺跡を見ても、泉が生活の中心をなしていることがわかる。太陰暦の正月、二月は早春の時期であり、草も木も人間も溌剌とした生命感にあふれる季節である。太古から民衆の間で行われた春の祭りに、仏教が結びついてできたのが、正月に行う修正会(しゅしぉうえ)であり、二月に行う修二会(しゅにえ)である。

国宝  二月堂  寄棟造 本瓦           江戸時代(17世紀)

正面7間、側面10間の寄棟造り(よせむねつくり)で、山の斜面に建ち、寺内では最も高い所にある。舞台造り(懸崖造り)とも言われる建築様式である。修二会の会期中は、独特の大きな円い提灯が飾られる。

国宝  二月堂  上段の様子           江戸時代(17世紀

二月堂の上に上がると、通常、人は少ない。大仏殿を見て帰る観光客が多いせいだろう。しかし、折角東大寺まで来たら、是非、法華堂、二月堂くらいは見学してほしい。この二月堂からの奈良市街の眺めは素晴らしい。東大寺大仏殿の鴟尾(しび)が金色に輝く。修二会を始めたのは東大寺の開山、良弁(ろうべん)僧正の高弟であった実忠(じつちゅう)和尚である、彼はインドから渡来した僧だったとも言われ、東大寺建立にあたっては、さまざまな功績があった人である。

良弁杉   二月堂の舞台造りの下に生える杉の樹

東大寺の開山良弁(689~773)は「良弁さん」の名で親しまれ、文楽や歌舞伎の「二月堂良弁杉由来」の題材となった良弁杉の故事は良く知られている。観音に祈願してやっと子を授かった母は、ある日、愛児を大鷲にさらわれる。母は、その行方を追って30年余り諸国流浪の旅に出る。一方、子はたまたま春日神社に参詣に来た義淵(法相宗を広めた高僧)によって杉の木にぶらさがっているところを助けられ、長じて名僧良弁となった。母は見つからぬ子をあきらめて帰る舟の中で、良弁の話を聞く。「東大寺の良弁法師は、かって鷲に弄ばれているところを助けられた」と。母は早速、東大寺に良弁を訪ねる。名僧の誉れ高い良弁には会えず、寺僧の教えるままに大杉に張り紙をして待った。これが良弁の目にとまって母と子は対面した。良弁は仏の加護に感謝し老母を東大寺に迎え、終生孝養を尽くしたのだった。この故事を伝えて、いまも二月堂の舞台造りの下に「良弁杉」の樹が残る。もとの良弁杉が昭和36年(1961)の台風で倒れ、その枝木を挿し木したものという。なお、私は昭和28年3月13日のお水取りに参列したことがあるが、古い良弁杉が茂っていた。

重要文化財  閼伽井屋(あかいや)若狭井戸  お水取りの井戸

お水取りの井戸を「若狭井」(わさい)と呼ぶ。実忠和尚が修二会をはじめた時、毎日初夜(7時~8時)の終わりに「神明帳」(しんみょうちょう)を読むならわしであった。行法を守護するために、諸国の神々を勧請(かんじょう)した。ところが若狭の遠敷(おにゅう)明神は、釣りがすきだったので、時間に間に合わず、お詫びのしるしに、本尊にささげる閼伽水(あかみず)を献じることを誓った。その時、黒白二羽の鵜が、盤石をうがった地中から飛び立ち、その跡から香水(こうずい)が勢いよく湧出した、よって「若狭井」と名付け、その水を本尊へささげる風習が起こったというのである。今でも若狭では、奈良のお水取りがはじまる前日の3月2日には遠敷川で「お水送り」という祭りを行っており、神主が「これから奈良へ水を送ります」という意味の願文を読み、それを川へ流す儀式がある。12日の夜半過ぎに、この香水を汲んで観音様にお供えするようになった。したがって本来修二会の付加儀礼だが、いまやお水取りは修二会全体を表すまでになっている。

お水取りの階段

3月12日夜半過ぎ、この香水を汲んで修二会全体を表すまでになっている。奏楽の中、一行は二月堂南側の石段を降り、若狭井へ向かう。閼伽井へ入るのは3人だけ。深夜の秘儀で誰も見ることはできない。本来おお水取りのために造られた階段であるが、参詣者は、お水取りの儀式以外の日は、昇降に使っている。

燃えさかる籠松明と過去帳

3月12日、この日は一段と大きな籠松明が焚かれるため、参列者がひときわ多くなる。19時半ごろ、いつものように松明を先導に連行衆(れんぎょうしゅう)が上堂する。そのたびに籠松明は舞台から付き出され、参拝者の間から感嘆の声が大浪のように湧き上がる。修二会には、まるで演劇を見るような行がいくつもある。その一つが走りの行と五体投地(ごたいとうち)である。走りの行は、天界の1日が人間界の400年に当たることに由来する。連行衆は、その大きな時の差を埋めるために、内陣の須弥壇の周りを沓音高く走りながら行を進める。これを「走りの行法」とも呼ぶ。修二会は罪を洗い清める悔過の法会であることを改めて強く印象づける。また5日と12日には、過去帳を読み上げる。聖務天皇以下、光明皇后、良弁僧正など東大寺のゆかりの人々の名を標した過去帳を読み上げる。中々音楽的で、聞いていても面白い。鎌倉時代の中ほどで、「青衣の女人」と、陰にこもった節をつけて読む。承元の頃(1207~11)、東大寺に集慶という僧がいた。この人が「過去帳」を読んだ時、夢と現(うつつ)ともなく、青い衣を着た女人が現れて、「何故私の名を飛んで下さらぬのか」と恨めしそうに呟いたので、驚いた集慶は、思わず「青衣(しょうえ)の女人(にょにん)」と叫んでしまった。以後、名も知れぬ女の幽霊が、「過去帳」に加えられるようになったというわけである。井上靖の初期の短編小説に、同名の本がある。

達陀(だったん) 不思議な火の行法

修二会の最後の3日間、「達陀」(だったん)という不思議な行がある。「だったん」の語源はよくわからないが、タタラを踏む言葉から出た様で(白洲正子氏の説)、燃えさかる松明を持った火天と麗水器をささげた水天が、これまたおそろしい勢いで堂内を駆け巡る。伴奏には、法螺貝と鈴と錫杖でさわがしい音を立て、静かな修二会の道場は、一瞬華やかな祭の場に変わる。「だったん」とか「走りの行法」は、仏教の行法としてみごとに演出されているが、元を正せば地下に眠っている魂を呼び覚ますための、春の祭典であろう。原始的神事が、仏教の中に生かされているのであろう。興奮さめやらぬなか、達陀の行は終わり、萬行へと向かう。連行衆の萬行下堂は14日目の早朝4時30分ころ、二月堂は閉扉され、次の修二会を迎えるまで再び静寂に包まれる。

お水取りお松明   1980年頃             入江泰吉氏撮影

戦後、半世紀近くの間、奈良・大和路を撮り続けた入江泰吉氏(1905~92)の住まいは、東大寺の戒壇院の望まれる場所だった。戦後、アメリカが戦争の代償として日本の古美術を持ち帰るという噂を耳にして、せめて写真に残そうと思い立った。3月に入ると、夜更けにはお水取り(修二会)の行法の鐘の音がかすかに入江邸にも流れてくる。入江氏は鐘の響きに誘われるように昭和21年(1946)から毎年カメラを持って参籠を続けた。1ケ月にもわたるお水取りの行事。お水取りは練行衆と呼ばれる11人の僧によって行われるが、入江氏は「12人目の練行衆」と呼ばれるようになった。入江氏のライフワークの全作品が、「入江泰吉記念奈良写真美術館」に納められている。

二月堂裏参道

二月堂裏参道とは、大仏殿の北方、食堂跡と大湯屋を経て、緩やかな石畳の坂道を指す。瓦屋根を載せて古い古瓦を埋め込んだ、しっとりとした土塀に見入りながら、二月堂の舞台が見えてくる所まで近づいてゆくと、期待感に胸がはずむ。

 

 

お水取りの行事には、何回も訪れているが一番記憶に残るのは最初に訪ねた昭和28年3月12日の記憶である。高校の同級生であったK君(故人)と最初に大和古寺巡礼を始めた時である。まだ食料事情が悪かった時期で、斉藤旅館に米2合を持参して泊まった。お水取りの記憶は鮮明で、「走りの行法」、「だったん」、「五体投地」、「お水取り」最後に「過去帳」で深夜の「青衣の女人」を聞いて満足して宿へ帰った記憶が闡明である。その後、何回かお水取りの行事を拝観したが、最初の記憶が鮮明であり、観客もまだ少ない観光化されない時期であったので、なおさら記憶に残るのであろう。青春の記憶として、未だに懐かしく思い出す。翌日は「西の京」へ行き、「唐招提寺」、「薬師寺」を廻った。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏 天平の至宝 2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺全15巻のうち「第12巻 奈良Ⅲ」、田中英道「日本美術史全史」を参照した)