東大寺  東塔(七重塔)の再建計画

東大寺の東塔の跡を遺跡として紹介したが、実は東大寺では、東塔(場合によっては西塔も)の再建の意図の下、発掘調査をしていたのである。東大寺第220世管長の北河原公慶師は、ビジュアル文庫「東大寺」の中で、次のように述べている。「私は別当就任(2010年5月)に際し、在任中に行うべきいくつかの計画を立てました。ひとつは、進行中の「東大寺総合文化センター」に関連することです。(これは東大寺ミュージアムで完成した)もうひとつが東大寺東塔の再建です。これは私が以前から考えていたことです。かって東大寺には、東西の七重塔が建っていました。ともに基壇跡は残っていますが、西塔の近くには民家が立ち並んでいますので、再建可能なのは東の塔です。これから地中探査などを行い、実際にどのような塔が建つていたのかなどをまず検討しなければなりません、七重塔という記録こそありますが、高さは何メートルなのか、伝えられているように、本当に100メートルもあったのか。搭の形も、中国の影響を受けた六角形、もしくは八角形かもしれません。分からないことばかりですので、私の在任中に完成することはないでしぉう。けれど、私の発案が再建の第一歩になればそれでいいのです。」

奈良時代の東大寺の復元された模型  1/50    東大寺蔵

奈良時代、聖務天皇によって創建された総国分寺の東大寺には、東塔と西塔という七重塔が並び立つていた。東大寺の記録によれば、東西両塔の高さは33丈(約100メートル)と23丈(約70メートル)とする2種類の記述が存在している。現在の大仏殿の高さは46.1mだから、そのほぼ2倍の高さの塔が、2基も建っていたことになる。この模型でも、東西両塔の高さが窺い知れる。

国宝  俊乗坊重源像               鎌倉時代(13世紀)

東塔院(搭の周りは四角形の壁で囲まれ、東塔院、西塔院と称されていた)は、天平宝字8歳(764)ごろに西塔院と併せて建設されたが、平重衡の南都焼打ちで大仏殿や南大門などと共に焼失した。時の朝廷には再興する力はなく、資金や材料の調達、造営事業の差配のほとんどが俊乗坊重源(1121~1206)上人に任された。重源は宋に三度渡ったといい、建築技術に詳しく、経営能力も優れていたようである。西日本各地に勧進の拠点を設け、広く寄付を募ると共に、鎌倉幕府を開いた源頼朝の支援を得た。大仏の鋳造には中国の工人陳那郷(ちんなけい)らの協力を仰ぎ、大仏殿、南大門には大仏様と呼ばれる新しい建築様式を採用するなど中国留学の経験えお生かした。大仏、大仏殿、南大門、東西両塔をはじめ多くの堂と仏像を復興した功績は驚異的である。文治元年(1185)には大仏の開眼供養に漕ぎ着けた。重源は大仏殿の再建に取り掛かり、源頼朝が最大の支援者となって再建が進められた。建久6年(1195)の落慶供養には、源頼朝と北条政子も臨席している。元久元年(1204)に最後に着手したのが東塔院だった。その2年後の建永元年(1206)、重源は86歳で入滅した。東塔院は、栄西(ようさい)、行勇(ぎょうゆう)という勧進職に引き渡され、重源の死後20年以上たった嘉禄3年(1227)頃に完成したと見られる。しかし、康安2年(1362)、落雷で再び焼失してしまった。東塔院には現在、土の基壇が残って、礎石は近年すべて持ち去られた。

東塔院の発掘調査(GRPの図面)

平成22年(2010)4月に、東塔の再建を打ち出した東大寺と、奈良文化財研究所と奈良県立橿原考古学研究所は東塔跡の探査を実施することになった。塔跡を含む東西97m、南北110mを対象に、最初の作業を実施した。この試みは地中レーダー(GRP)による探査であった。解析の結果、塔の基壇部分の地中の状況と、東塔院の位置や規模が明らかになった。GRP平面図によれば、東塔院には東西南北の4門があったことが明らかになった。

東大寺東塔院跡(平成27年度発掘による)

 

2015年(平成27年)の発掘調査では、調査地が三か所設定された。中央区は、東塔の中心から基壇及び周辺を含む北東部分で、塔の規模と構造、および基壇周辺施設の確認を目的としている。塔基壇の北側に延長した北区は、東塔院北門の位置や規模の確認を目的として設定された。南区は、推定された東塔院の東南隅部分にL字形に設定し、東塔院の南面回廊及び東面回廊の位置や規模を推定するためのものであった。

中央区での出土遺構図

中央区の調査は基壇全体ではなく基壇の北東部に偏っていたため、心柱を支えた基礎(心礎)とその周囲の柱穴9個を確認した。心礎や礎石は、近代になってからすべて抜き取られていた。その抜き取り穴の並び方の状況から、塔の配置は3間四方で、全体で4×4=16本の柱があったことが確認できた。柱間寸法は中央間20尺(約6m)、両脇間18尺(約5.4m)であったと想定できる。これらの柱の柱間寸法は、鎌倉時代に再建された東大寺南大門の柱間寸法と一致することが分かった。一般的に五重塔は3×3=9本の心柱が最高階まで貫いているが、七重塔は16本の心柱で支えたことが彰になった。

東大寺中寺外惣絵図並山林(部分)                江戸時代(17世紀)

東大寺蔵の江戸初期に描かれた「東大寺中寺惣絵図並山林図(部分)」という絵図がある。大仏殿は柱穴の位置だけ描かれ、大仏は野ざらしになっている。現存する大仏殿の再建が完成したのは元禄4年(1709)であるから、この絵図はそれ以前に作成されたものであろう。東大寺東塔と西塔も柱穴の位置だけが描かれるのみで、焼けた状態になっていたのであろうと推定される。東塔と西塔では柱の並び方が異なっている。この絵図には、失われた西塔の跡を柱間5間、東塔の跡を柱間3間で描いている。今回の調査で、創建時は5間だった両塔のうち、鎌倉時代に再建された東塔は柱間3間に変更され、より大規模になったことが、この絵図から理解できる。

 

東塔跡は、単なる遺跡ではなく、再建の意志の基に、発掘調査がなされていたのである。再建の予定は、平成33年(2021年)から基壇の整備に入るようである。また承平4年(934)に雷で失われた西塔の跡については、平成29年(2017年)に調査を始める予定だそうだ。もし、東西両塔が並び建つ時がくれば、奈良の魅力は一段と増すだろう。梅原猛氏は「塔」の最後のページに次のような言葉を残している。「東大寺の塔は、七重の塔であったという。それは、奈良に存在したいかなるい寺の塔よりも高い塔であった。それは、かの巨大な興福寺の塔よりもなお高い塔であった。そして塔が権力の象徴である限り、この塔は、今まで以上の権力の強さを象徴すべきであった。」七重の塔を権力の象徴と見る意見は珍しい。

(本稿は、図録「東大寺大仏殿  天平の至宝」、ビジュアル文庫「東大寺」、NHK歴史秘話ヒストリア2017年1月3日「古代ミステリー東大寺”七重塔”の謎」、HP「東大寺の再建東塔院発掘調査が明らかにした事実」を参照した)