東大寺  法華堂(1)

和銅3年(710)に藤原京から遷された都・平城京は聖務天皇が即位した神亀元年(724)ころには、「青丹よし寧楽の京師は咲く花の勲ふがごとく今盛りなり」(小野老 萬葉集巻三 三一八)と詠まれたように、大陸より遣唐使によってもたらされたさまざまな文物を取り入れた若々しい息吹が感じられる国際的な都市となっていた。そのような社会状況の中、神亀5年(728)、前年に誕生した聖務天皇待望の皇太子・基親王が夭折した。聖務天皇は親王の菩提を弔うために平城宮の東の山中に山房を建て、9名の僧を住ませた。その中に、後に東大寺の初代別当になる良弁(ろうべん)が含まれていたとされる。この山房が後に金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれるようになった。東大寺にはこの山房(寺院)にその源流を求めているのである。山房が建てられた場所は、大仏殿の東側の一段と高くなった二月堂や法華堂がある上院と呼ばれる地区内のさまざまな場所が研究者の推定されてきたが、最近、二月堂北側の山中にある人工的に造られた平坦地から創建時の東大寺で多数使用されている型式より先行する興福寺型の瓦片など遺物が多数発見され(丸山遺跡)、金鐘寺の堂宇がこの場所にあった蓋然性が大きくなった。ところで、上院地区にはもう一つの寺院があったとされる。光明皇后と関係の深い福寿寺と呼ばれる寺院である。福寿寺はその後、天平13年(741)頃までには寺観も整えられていたようである。また平安時代に成立した東大寺の寺誌「東大寺要録」には東大寺に先行する寺院として天地院の名も見られる。和銅元年(708)大仏建立の際に勧進の役を担った行基によって造営されたものとされる。さて、この頃の政治社会情勢は天然痘が各地で流行し、政治の中枢にいた光明皇后の兄弟である藤原四兄弟が相次いで病死、九州・大宰府では藤原広嗣が反乱を起こすなど、華やかで色鮮やかな情景を謳った萬葉集とは違い、政治的社会的に不安定な状態が続いていた。聖務天皇はこの状況を打破するために平城京を出て、伊賀、伊勢、美濃、近江の国々を次々と廻り、山城国恭仁(京都府木津川市)に都を遷すことにした。天平13年(741)、新都・恭仁京(くにきょう)において国家の災害、困難などを消去することを説く「金光明最勝王経」を具現化した国分寺の建立の詔を発した。各国に国分寺が建てられることになり、大和国では金鐘寺を中心とした上院に存在していた寺々が一つの寺院として統合されて国分寺となり、金光明寺となった。

国宝  法華堂  寄棟造(正堂)、入母屋造(礼堂)   奈良時代、鎌倉時代

平安後期に編纂された「東大寺要録」には、東大寺の前身である金鐘寺(金鐘山房)は天平5年(733)に聖務天皇が良弁のために羂索院(法華堂)を創建したとある。しかし、これまでは、この「東大寺要録」の記述は疑問視されてきた。しかし、平成8年(1996)から11年度(1999)にかけての法華堂諸像の剥落止め修理の際、年輪年代法を用いて八角二重基壇の構成部材を測定したところ、西暦729年と言う値を得た。神亀6年(天平元年)で基親王の亡くなった翌年である。さらに法華堂須弥壇上方の用材から731年、須弥壇後方の用材から730年、あるいは731年の伐採年を得た。天平3年に当たり、「東大寺要録」の記述に近く、その信憑性がにわかに高まったのである。これまでは法華堂は、屋根瓦の文様や本尊光背に関するとされる天平19年(747)正月付の文書が存在することから、天平18,19年頃の創建とする見方が強かった。年輪年代法という科学的な手法が20年近く年代を遡らせたことは、大きな衝撃であった。「東大寺要録」に法華堂建立年次として見える天平5年(733)は、かなり近い年次であることを示すと思われる。法華堂が始めから不空羂索観音菩薩像を本尊として安置することを目的として建立されたものではないらしい。観音像が法華堂(羂索堂と呼ばれたこともある)の本尊となるのは建物完成後しばらく間をおいての時期と考えられ、天平14年(742)より後と考えるのが自然であろう。法華堂は、向って左側が天平時代の建物(正室)、右側が鎌倉時代の建物(礼堂)である。旨くマッチしている。

国宝  法華堂内の仏像群             奈良時代(8世紀)

法華堂の仏像群は、2013年の修理により、展示仏ががらりと変わった。脱乾漆像の巨像のみが残り、美しい塑像類の展示が無くなった。昔を知る私に取っては、非常に寂しい展示であるが、東大寺としては法華堂の建設当初の仏像に統一した積りであろう。仏像展示は、ある意味ですっきりとし、何も知らなければ、これが法華堂建立時の姿と思うだろう。確かに、ここは、天平彫刻の宝庫である。しかし、和辻哲郎「古寺巡礼」や亀井勝一郎「大和古寺風物詩」を読んで、大和古寺巡りを始めた人には、違和感が大きいだろう。日本で最も美しい日光、月光像が無い法華堂には魅力を感じないのではないだろうか。そんな風に考えると、堂内の人数が減ったようにも思う。

国宝 不空羂索観音立像 脱活乾漆造 像高362.0cm 奈良時代(8世紀)

法華堂の本尊として、須弥壇中央に安置されている。額には縦に三眼(天眼)があり、合掌した手以外に6本の太い腕を持つ。中心の合掌する両手に注目すると、その掌の間に小さな水晶玉がみえる。水晶玉は如意宝珠を意味する。如意宝珠とは、すべてを意の如く自由に成し遂げる魔法の玉である。その神呪を唱えると一切の災いや諸悪は忽ち消え去るという。不空羂索観音菩薩像の表現には、この観音の呪的な救済力が現動することが意図されている。羂索は、古代インドの狩猟具でひもを縒(よ)って索(網)にしたもので、これで獲物を捕るように、衆生の悩みを救済するという意である。

国宝 不空羂索観音立像の宝冠 銀製鍍金 総高88.2cm奈良時代(8世紀)

中心に銀製鍍金の阿弥陀如来の化仏を配し、翡翠(ひすい)・琥珀(こはく)・真珠・瑠璃(るり)などの珠玉をちりばめ、周囲を銀製透かし彫りの宝相華で飾って荘厳する。天平時代の工芸技術の最高峰を示す作品である。

国宝 梵天・帝釈天立像 脱活乾漆造          奈良時代(8世紀)

梵天・帝釈天は、もともと古代インド神話中の代表的な神格で、梵天は創造神とされるプラフマー、帝釈天はインドラという最強の武勇神であった。仏教に早く取り入れられ、仏法を守護する神として一対で表されるようになった。両像は、いずれも4Mを超える堂内最大の尊像で、本尊不空羂索観音の左右に侍立する。衣の下に甲(よろい)を着けた武装形の方(向って右)は梵天としている。ゆったりと唐風の衣をまとい、すっくと立つ姿は、内省的なその表情とと相まって威厳が感じられる。手の指は長くしなやかに造形されている。

国宝 金剛力士立像 阿形脱活乾漆造 総高326.0cm 奈良時代(8世紀)

法華堂の須弥壇前面左右に安置され、梵天・帝釈天・四天王像とともに一具をなし、ほぼ同時期に同じ工房で制作されたものと推定されている。通例の金剛力士(仁王)像と違って、向って左に阿形(あぎょう)、右に吽形(うんぎょう)を安置している。また、一般的には上半身を裸形とするのに対し、これは甲冑姿に表されているのが特徴である。像の表面には、金箔地に朱・緑青・群青などの彩色が施され、甲(よろい)の縁に乾漆を盛り上げて菱に十字繋ぎ文や花文を配するなど、華やかに装飾されている。阿形は、髪を逆立て、表情も怒りをきわめて露わに表現している。

国宝  四天王立像 自国天立像 脱活乾漆造     奈良時代(8世紀)

四天王はもともと古代インド神話中の神々で、仏教に取り入れられ、仏法を守護する尊格として四方を守る。法華堂でも、高さ約3Mの脱活乾漆の大きな像が須弥壇の四隅に安置されている。怒りの直截(ちょくさい)な表現は抑え、ゆったりとした相貌に造られている。侍国天・増長天・広目天・多聞天のそれぞれの肉親を、白緑(びゃくろく)・朱・肉色・白群(びやくぐん)の4色に塗り、各々文様も変化をつけて描かれている。東南にある自国天像は、眉を吊り上げ、両目を大きく見開き、腰をわずかにひねっている。甲兜の背面には宝相華と鳳凰文がえがかれている。

 

東大寺は、この法華堂を中心として作られたお寺である。古くは金鐘寺(きんしょうじ)と呼ばれ、また光明皇后と関係の深い福寿寺とも関係があった。聖務天皇が天平14年(742)8月に紫香楽宮で大仏建立の詔を発し、「自ら念を有し、廬遮那仏を造るべし」、「人有て一枝の草、一把の土を持ちて像を助け造らんと情(こころ)に願はば、恣に(ほしいままに)聴せ(ゆるせ)」と述べ、皆のための大仏として、造立に広く民衆の協力を求めたのである。聖務天皇は天平13年(741)に、新都・恭仁宮(くにきょう)において国分寺建立の詔を発して、各国に国分寺が建てられることとなり、大和国では金鐘寺を中心として上院に存在していた寺々が一つの寺院として統合されて国分寺となり、金光明寺(金光明四天王護国之寺)となったのである。現在の法華堂こそ、東大寺の始まりであった。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏  天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「東大寺」、探訪日本の古寺 第12巻「奈良Ⅲ」、和辻哲郎「古寺巡礼」、亀井勝一郎「大和古寺風物詩」、日経新聞2012年2月22日、3月4日、3月11日「東大寺法華堂の秘密」を参照した)