東大寺  法華堂(2)

法華堂の仏像配置は、不空羂索観音の両脇に日光・月光菩薩が立つという配置が、私が見慣れた法華堂の景色であった。平成8年(1996)から平成11年度(1999)にかけての法華堂諸像の剥落修理の際、仏像を移動、調査して意外な事実が明らかにしたのは、文化庁の主任文化財調査官、奥健夫氏であった。2009年9月の「仏教美術」に寄せた「東大寺法華堂八角二重基壇小考」と題する論文である。この論文は、「小考」どころか、学会に大きな反響を巻き起こした。

八角二重基壇の写真         日経新聞2012年3月4日記事より引用

真中の一番小さい八角形は本尊の台座跡である。その左右が修理前の日光、月光菩薩の立ち位置である。その下の、下段の上に残る、円に近いぼんやりとした痕跡が、かっての日光、月光と四天王像(戒壇院)の置かれていた跡だというのである。奥論文は「ここで注意されるのは、これらの八角台座の痕跡が日光月光像並びに現戒壇院四天王像の台座底辺輪郭と一致することである」と記している。「これらの台座は一辺長さが34cmほど、向かい合う二辺の距離がおよそ82~84cm前後で、須弥壇下段の床面には内外にそれぞれ3~5cmを残して納まる」という。「6体の保存状態の良好さは、安置されていた堂が火災に遭ったり倒れたりした場合にあり得ず、それが安置される堂宇とともに相当長い間伝えられてきたことによると見るのが自然である。東大寺で奈良時代の建立になる唯一の仏堂である法華堂の八角二重基壇の下段に、大きさと形が一致する台座痕跡がある以上、塑像6体はかってここに安置されていた可能性を積極的に考えてよいのではないか」と述べている。台座の痕跡という「事実」が、1200年余ぶりに「史実」に一撃を与えたのである。

台座上の配列図

これはある新聞の記事から引用したものであるが、創建時の仏像の配列と、2010年の配列を示したものである。この配列記事は奥論文を基にして作成したものであろうが、私は、現在やや異論を持っている。2010年の「東大寺大仏 天平の至宝」という展覧会の図録で、(当時慶応大学教授の)金子啓明氏が「東大寺大仏と天平彫刻」と題する論文を寄せている。その中で、金子氏は「創建時の仏像」として、「七体の塑像群は九体の脱活乾漆像とは制作工房が異なり、作風と文様が脱活乾漆像群より塑像群が先行するとする説を肯定し、本尊を執金剛神とする考えである。造像の発願者はもちろん良弁」である。上段に設けられた宝殿部に執金剛神が安置されたと考えれば、像高が170cmの等身像であっても違和感はない。八角二重基壇の大きさに較べれば執金剛神はやや小ぶりであることは確かだが、むしろゆったりとした空間に、本尊としての違和感は際立つ筈である。伝日光、月光菩薩像は像高が2mをやや超えて本尊より高いが、当初は八角二重基壇の下段か、そこから外れた須弥壇上に安置されたと見れば、像の高さの相違は特に問題ない。」このように法華堂の最初期の本尊は執金剛神であったことを積極的に肯定している。私は、現時点では、金子説が一番あり得る配置であると考えている。

国宝 執金剛神立像  塑像 彩色 像高 170.4cm 奈良時代(8世紀)

 

現在は法華堂本尊の不空羂索観音像の背後の厨子内に北面して立つ。「日本霊異記」(822年頃成立)に記述があり、既に北向きであったと言う。慶応大学の金子教授の意見によれば、最初は、法華堂の本尊であり、現在不空羂索観音立像の立つ位置に立っていたことになる。後に不空羂索観音菩薩像が法華堂に本尊として新たに安置されることになるが、執金剛神像は、厨子に入って八角基壇下段に移されたことになるだろう。執金剛神の名は手にした金剛杵から付けられた。長く秘仏とされたため、彩色が良く残る。平将門の乱(939)に際し、この像の髪の元結紐の端が蜂となり、平将門を刺殺したという説話が残るように、古来、霊像として良く知られていた。開扉は毎年12月16日で、良弁僧正像と同日である。

国宝 日光菩薩立像 塑像、彩色、載金、像高206.3cm奈良時代(8世紀)日光菩薩立像          月光菩薩立像

 

法華堂本尊の左右に立っていた。須弥壇中央の八角二重基壇の上段に安置されていた。当初は極彩色だったという。日光、月光菩薩の呼び方は江戸以前の文献には出て来ず、仏教の守護神として採り入れられたインドの梵天・帝釈天の像ではないかとされる。後世に他の堂から法華堂に移された「客仏」と考えられてきたが、最近の調査では、もともと不空羂索観音の眷属として立っていた可能性が強まった。しかし、東大寺では、この説を取らず、現在は新設された「東大寺ミュージアム」に常時展示されている。この研究によって日光・月光両菩薩像に投げかけられてきた「客仏」というレッテルが、理由の無いものになった。(「客仏」とは後世になって、他の堂から持ち込まれた仏像のことである)日本美術史家のみならず、「「古寺巡礼」の和辻哲郎も、日光・月光菩薩像など法華堂の塑像をさして、「しかしこれらは本来この堂に属じたものではあるまい」と記している。町田甲一は、日光・月光は「客仏」と前置きをして、「この像は、もともと本尊に随侍する脇物だと主張したもいるが、多くの人はこの考えに否定的で、材も本尊の乾漆とは異なる塑であり、像高もはるかに小さい。それよりも作風が全く異なり、表出する感情が完全に異質である。後世、同じ東大寺の他の堂より伊座されたものであろう」(大和古寺巡礼)と言い切っている。

国宝 四天王像 増長天像 塑像彩色 像高163.6cm 奈良時代(8世紀)

西南隅の増長天は、右手に鉾をつき、左手を腰にあて、大喝しながら激しく相手に迫ろうととする姿で、このように侍国天と増長天には、仏敵破摧(ぶってきはさい)の積極的なはたらきが示されている。

重要文化財  法華堂経蔵              鎌倉時代(?)

重要文化財であることは確かであるが、何時建設されたものかを示すものは、私の持っている図書では明確にできなかった。法華堂の正面から、手向山八幡宮に寄った所に建つ経蔵である。良弁時代の経蔵は、平氏の戦火で焼けたのであろうか。重源によって再建された鎌倉時代ではないかと思う。HPで確認のため「法華堂 経蔵」で羂索したところ、次のような文章が見つかった。「もとは東大寺油倉の上司倉でした。東大寺食堂跡の北東に位置する油倉の地に並んで建っていました。正徳4年(1714)現在地に移したと伝えられ、天平時代の創建と見られます。」かつ、この経蔵は「手向山神社宝庫」としている。また一方、東大寺法華堂経蔵とも書いている。ネットの記事なので、あまり信用できないが、一つの意見としてお知らせする。

 

2010年に開催された「東大寺大仏  天平の至宝 2010年」展の図録で、慶応大学教授の金子啓明氏が「東大寺大仏と天平彫刻」という論文を発表している。それによれば、初期の法華堂の本尊は、執金剛神であり、その下段を6体の塑像が取り巻いていたとしている。金子論文は、次のように締めくくっている。「今、法華堂、三月堂と呼ばれる羂索堂は等初は不空羂索観音像の堂ではなく、堂の名称も異なっていた。それ以前のこの堂では、良弁が大切にしていた執金剛神を当初の本尊とし、伝日光、月光菩薩像と現戒壇院の四天王像の7体の塑像による群像構成であった可能性のあることを指摘しておきたい。」東大寺は、これらの指摘とは反対の意見のようで、新設した東大寺ミュージアムに伝日光、月光菩薩像を常に安置している。どちらが史実かは、いずれ歴史が証明するであろう。

 

(本稿は、図録「東大寺大仏 天平の至宝  2010年」、ビジュアル文庫「第5巻 東大寺」、田中英道「日本美術全史」、原色日本の美術「第3巻 奈良の寺院と天平彫刻」、日経新聞2012年2月26日、3月4日、3月11日「美の美」「東大寺法華堂の秘密」を参照した)