東大寺(終)   正倉院

 

「正倉院」の名称は、現在では東大寺大仏殿の背後に位置する宝庫の呼び名として広く知られている。しかし「正倉」とは、本来、田祖として国家に収めた正税(正稲)を保管するとともに、絹製品、鉄製品その他財物をもあわせて収納した主要(=正)な創庫=倉)のことをいい、この正倉院が軒を並べる一区画が正倉院と称するものであった。したがって、正倉院は、奈良時代には多くの大寺を含め、中央の政庁や、地方の国・郡衙にも設置されていたいわば普通名詞であった。しかし長い歴史の間に、東大寺の正倉院を除くすべてがなくなり、正倉院といえば、東大寺のそれを指すようになり、更に明治8年(1875)に東大寺から離れて国に管理が行われるに及んで、全く独立した固有名詞として用いられるようになった。

正倉院建物                奈良時代(8世紀)宮内庁

宝庫は間口33m、奥行9.3m、総高14m、床下の高さ2.4mで、檜材による寄棟造本瓦葺の高床建築で、南北に長く、一棟を3区分して、北倉、中倉、南倉と称している。北倉と南倉は、三角杉の校木(あぜき)を組み上げた校倉造(あぜくらつくり)、中倉は板倉造であるが、現状の3倉は、後世に改造を受けた形とも言われている。北倉の宝物は、天平勝宝8歳(756)6月の聖務太政天皇の七七忌に際し、光明皇太后が天皇のご冥福を祈って東大寺廬遮那仏に献納された天皇遺愛品である。中倉及び南倉は造東大寺司や東大寺の諸行事に関連した品々に分類される。東大寺開眼供養の品々は、ここに収められている。収蔵された宝物類の数は1万点とも言われるが、数え方によっては数万点にも及ぶ。正倉院は長い間「帝室の秘宝として、一部の人を除いては、一般人の伺い知ることの出来なかった正倉院御物の最初の公開は、敗戦直後の虚脱した人々の心に初めて一抹の光りらしいものが差し込んだ感じで、国家の事業としても時宜を得た催しであった」と井上靖は初期短編小説「漆胡樽」(しっこそん)の冒頭で述べている。

鳥毛立女屏風(第4扇)           奈良時代(8世紀) 宮内庁

6扇のうちの第4扇である。各扇は五枚継の本紙に白土を塗り、その上に墨で女性と樹木、岩などを描き、肉身に彩色を施している。当初は、頭髪、着衣、飛鳥、などに鳥の羽毛を貼り付けた六扇一畳の屏風であったが、いまは鳥毛は殆ど剥落し、各扇は分離した状態である。本作品は「東大寺謙物帳」に記載されており、聖務天皇の遺愛品であった。(1990年「日本美術名品展」より)

楽毅論(がっきろん)部分 光明皇后筆天平16年(744)奈良時代(8世紀)宮内庁

「楽毅論」は三国時代の魏の夏候玄(かこうげん)の作で、戦国時代の燕(えん)の武将であった楽毅の人物について論じた文章である。舶載された東晋(とうしん)の王羲之(おうぎし)を模写したもので、筆力の充実した格調の高い書風である。最後の「藤三女」(とうさんじょ)は、藤原不比等の第三女の意味で、この一巻は皇后44歳の筆と知ることができる。(1990年「日本美術名品展」より)

螺鈿紫檀阮咸(らでんしたんげんかん)      唐時代(8世紀)

「東大寺献物帳」に記載がある。阮咸(げんかん)は中国晋時代(3~4世紀)の頃、漢式の琵琶から生まれた弦楽器で、円盤形の胴と長い棹、竿灯の三部からなっている。弦は四本で、棹から胴の上部ぬいかけて十四の柱(じ)を設け、棹頭には絃を巻く天手をつける。表面に貼ってある腹板以外はすべて紫檀製である。なお、阮咸(げんかん)という名称の由来は必ずしも明らかではないが、中国の故事にある竹林の7賢の一人がこれを愛奏したことからその名をとったと言われる。(1990年「日本美術展」より)

十二稜鏡(じゅうにりょうきょう)         奈良時代(8世紀)宮内庁

正倉院には北倉に十八面、南倉に三十八面の鏡鑑が収蔵されており、南倉に伝わったこの十二稜鏡の背面を七宝で飾った注目の一品である。鏡背は盛唐(8世紀)に流行する、連弁系を三重に組み合わせて一つの華やかな花房を構成する典型的な意匠法を採用している。(1990年「日本美術名品展」より)

漆金箔絵磐(うるしきんぱくえのばん)         奈良時代(8世紀)

岩座の上に各段八枚の蓮華弁を交互の御鱗葺(ぎょりんぶ)きに四段を巡し、中心に半球形の蓮肉をすえた蓮華座である。岩座、連弁、蓮肉はいずれも木製で、岩座の裏に「香院座」(こういんざ)の墨書銘があって、仏に備えて香を炊く炉磐(ろばん)の台座であったことがわかる。平成5年(1993)に展示されたものである。(「平成5年(1993)正倉院展」より)

紫檀金鈿柄香合炉(したんきんでんえこうごうろ)   奈良時代(8世紀)

柄香炉(えこうろ)は、僧侶が法会の際などに手に持って仏前で焼香をするのに用いる。炉の口縁に獅子形の鈕を取り付けている。二十四花形にかたどった炉座に金銀珠玉で花文・朱文を表している。柄つきの香炉である。(「平成6年(1994)正倉院展」より)

 

正倉院は、本来宮内庁の管轄であり、東大寺の項目に加えることは問題かも知れないが、元々東大寺の正倉院であり、明治8年(1875)に宮内省管轄、明治17年(1884)に宮内庁管轄となり、宮中管轄はせいぜい130年程度の話であり、それ以前の1200年間は、東大寺の管轄であり、しかも宝物は聖務天皇あるいは光明皇后の遺物であり、本来東大寺に伝わったものであるから、東大寺の締めとして正倉院を述べた次第である。戦前は、天皇家もしくは政府高官(例えば伊藤博文)のみの拝観であったが、日本の敗戦後の昭和21年(1946)十月に初めて、一般国民に公開したのである。当時、新聞記者であった井上靖氏が初期の短編小説「漆胡樽」(しっこそん)の最初の部分に「敗戦後の虚脱した人々の心に初めて一抹の光りらしいものが射し込んだ感じ」と、当時の心境を語っている、正に「開かれた皇室」の第一歩であったのであろう。私は何度も10月20日ごろから11月初めにかけて行われる正倉院展の見学に出かけたが、非常に混雑し、そのために奈良国立博物館では、新館を設立して、国民の期待に応えようとしたが、益々観客は増え、相変わらず、混雑が今日まで続いている。この正倉院の一般開放や、入江泰吉氏が「日本の古美術品が戦後賠償の一部として、国外に持ち出される」というウワサを書いているが、どうも、そういった事実があったようである。詳しいことは、今となっては分からないが、是非その噂を検証してみて、はっきりすれば、この「美」の記事に書いておきたいと思う。「東大寺」というシリーズを書き始めて、この「正倉院」が11回目となり、これを以って終了とする。今後も、日本美術の美しさに気付かされた奈良の記事を引き続き書きますので、是非ご覧頂きた。

 

(本稿は、図録「日本美術名品展   1990年」(天皇陛下の御即位の御大典紀念)、図録「平成5年(1993年)正倉院展」、図録「平成6年(1994年)正倉院展」を参照した)