東寺   お堂と塔

私は、昭和55年(1980)から2年半京都に住んだ経験がある。東寺の五重塔を新幹線から見ると、京都に帰ってきたという思いが何時もする。京都と言えば東寺である。毎日曜日には,東寺の講堂を拝みに毎日のように行っていた。京都で一番懐かしいお寺が東寺である。この五重塔が最初に竣工したのは元慶7年(883)で、現在の塔は五代目で江戸時代の再建である。京都のシンボルである五重塔は、もともと平安京の都市計画の一環として建てられた官寺であった。延暦13年(794)に桓武天皇により平城京遷都。その2年後から東寺と西寺の造営が始まった。平城京の表玄関は、都の南・九条大路に建つ羅城門である。そこをくぐると道幅84メートルの朱雀(すざく)大路が北へ延び、その右手に東寺、左手に西寺が建っていた。東寺はこの平城京の寺域をそのまま引き継いでいる。京都は、その後多くの戦乱や災害に遭い、京都御所ですら何度も動いたが、東寺は全く寺域を動かなかった。東寺の正面は九条通りの南大門である。五重塔が東に、西に灌頂院(かんじょういん)が並ぶ。南大門を入ると正面に金堂、その中心線上に講堂、食堂(じきどう)が並んでいる。これらの建物はすべて後世の再建によるものであるが、位置や規模は創建時とほとんど変わらない。東寺は平城京の威風を伝える唯一の空間である。だからこそ、世界文化遺産に登録されているのである。

重要文化財  南大門  九条通りから南大門を望む  桃山時代(16世紀)

IMG_3080_1_2

正面の門であり、創建時の位置のままである。この門は蓮華王院から移築された桃山時代の建物である。この門から望む東寺の景観は、平安初期の雰囲気を唯一残すものであり、私は好きである。

国宝  五重塔    寛永2年(1644)再建    江戸時代(17世紀)

img436

五重塔は、境内の東南偶にあり、伽藍配置から見ると、東塔の位置に聳え建つ。西塔の位置には塔ではなく、灌頂院(かんじょういん)が建っている。塔の高さは約55メートル、木造の塔としてはわが国最高の塔である。空海は天長3年(826)に塔の造立を願い出るが、創建は平安初期の原慶7年(883)ころとみられる。その後、落雷などにより何回も焼失と復興を繰り返し、現在の塔は寛永21年(1644)に徳川家光の寄進により再建された五代目の塔である。京都は、50年前には高い建物が無く、市中は元より、遠く洛南の農村地帯から、この五重塔を望むことができた。桃山時代から江戸時代にかけて、しばしば描かれた「洛中洛外図」は、この東寺五重塔からの眺めと言われる。

国宝  金堂   慶長8年(1603)再建    江戸時代(17世紀)

IMG_3070_1_2

金堂は、空海が東寺を勅賜されたときには、すでに完成していた。現在の金堂は、大きさは5間×3間の母屋(もや)に裳階(もこし)をめぐらせた堂々とした大建築である。講堂とともに文明の土一揆(どいっき)(1486)で炎上し、創建当初のものは失われた。講堂は室町時代に再建されたが、金堂は工事が進まず、豊臣家の援助により慶長8年(1603)に復興された。薬師三尊が広い金堂の内部に安置されている。

重要文化財  講堂  延徳3年(1491)再建    室町時代(15世紀)

IMG_3071_1_2

金堂の北に位置する講堂は、文明18年(1486)の土一揆で焼失し、延徳3年(1491)に再建される。入母屋造り、創建当初の基壇、礎石の上に建てられた。東寺は、はじめ鎮護国家を祈る諸宗兼学の官寺であった。東寺を勅賜され、造東寺別当(べっとう)に就任した空海は真言密教の根本道場にしたい旨、嵯峨天皇に要請して、50人の定額僧(じょうがくそう)を置いて真言密教専修の寺とした。空海は密教の曼荼羅世界を講堂に実現しようとしたのである。

国宝  御影堂(みえどう) 康暦2年(1380)再建 室町時代(14世紀)

IMG_3076_1_2

御影堂は域内の西北偶に建ち、屋根は入母屋造り桧皮葺(ひはだふき)と、諸堂の中でも和風で優美である。桁行7間、梁間8間、前堂、後堂、中門からなり、極めて洗練された建物である。御影堂のある西院は、東寺造営にあたって空海が住んだ建物であり、はじめ空海の念持仏の不動明王が安置され、ついで鎌倉期に、仏師康正(こうしょう)の彫った空海の木造が祀られるようになり、以後、御影堂あるいは大師堂と呼ばれている。現在の建物は、室町幕府3代将軍足利義満と公家の援助により,康暦2年(1380)に再建されたもので、さらに明徳元年(1390)に一部改造して、北面に前堂と中門を付加している。

重要文化財  灌頂院  寛永11年(1634)江戸時代(17世紀)

IMG_3077_1_2

南大門を入って左手にある灌頂院(かんじょういん)は、密教の修法や伝法灌頂の儀式が行われる、真言密教において、もっとも重要とされる堂舎である。建物は瓦葺きの正堂(しょうどう)と板敷の礼堂(らいどう)からなり、その間を1間の相の間で繋いでいる。正面の身舎(もや)の板壁には両界曼荼羅(りょうかいまんだら)を掛けるようになっている。また三方の壁には真言八祖像が描かれている。他の仏堂には無い独特の雰囲気を持つお堂である。また毎年、正月の八日から一四日にかけての七日間後七日御修法(ごしちにちみしほ)が行われる。これは、出仕する一五人の僧と承仕(じょうじ)以外,堂内に入ることが許されない秘法である。御修法(みしほ)の目的は、国家安穏、五穀豊穣、玉体(天皇)安穏などを祈ることにあり、現在でも皇室から勅使が派遣されている。「冬の京都」の催しとして、三月八日まで、灌頂院が公開されている。

重要文化財  北総門   鎌倉時代(14世紀)

IMG_3067_1_2

平城京条坊の八条大路の南側に建ち、外郭築地塀(ついじべい)に開く唯一の四脚門である。板扉は平安時代、鎌倉時代初期のものを転用しており、修理にあたって再利用された。

 

東寺は、京都のお寺の中で一番平安の趣を備えたお寺であり、常に歴史の中で、大きな役割を果たしてきた。私は、長年慣れ親しんだ天平仏からあまりかけ離れた東寺の仏像類に強い違和感を持ち、京都在住の2年半(昭和55年から昭和57年9月まで)の間、毎日曜日に、この東寺にお参りにきた。講堂の立体曼荼羅には、なかなか馴染めなかったが、2年半も通うと、その異様な仏像にも慣れ親しむようになった。仏像類については,次回以降に丁寧に説明したいが、天平仏とはまるで違う密教仏である。今でも違和感は残るが、密教の底の深い教理には興味も湧く。いずれにしても,兎に角、東寺を拝観しないと多分理解出来ないと思う。

 

 

(本稿は小学館「古寺をゆく 3巻 東寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、図録「弘法大師と密教美術  1983年」、図録「高野山の名宝 2014年」司馬遼太郎「空海の風景上下」を参照した)