東寺   講堂と立体曼荼羅(2)

彫像・塑像などの立体物で構成する曼荼羅は、普通、羯磨曼荼羅(かつままんだら)と呼ばれる。密教では、そこに真理が存在する以上、それはかならず形をとって表現されなければならない、というのを基本理念としている。空海の代表的な営みが講堂内に密教彫像をもって形成した立体曼荼羅である。中でも特異な仏像類は、一番奥(向かって左側)の五大明王(ごだいみょうおう)像で、これらは密教伝来による新しい仏像類である。天平物仏に慣れ親しんだ私にとって、特に違和感を強く感じたのは、この五大明王像であり、中々理解できず、何回もお詣りし、少しでも近づけるように努力したものだが、未だに、その意義が十分理解出来ていない。五大明王はすべて平安仏であり、国宝指定を受けている。

国宝  不動明王坐像  木造  承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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五大明王の中心に位置し、保存状態は一番良い。両眼をかっと開け、上下歯牙(しが)で下唇(したくちびる)を噛みしめた表情はいかにも力強い。「大師様」(だいしよう)とも呼ばれる不動明王のスタイルであり、その後の規範となっている。頭髪を総髪に、左耳の辦髪を垂らすのは、初期不動明王の特徴である。躍動的な行動の群像のなにあって、静かな憤怒(ふんぬ)の表情を浮かべて座すその姿は、主尊としての威厳に満ちている。不動明王像の特徴は「高雄曼荼羅」(たかおまんだら)(神護寺蔵)の胎蔵界の不動と一致している。「高雄曼荼羅」は、空海が師の恵果(けいか)から与えられた両界曼荼羅(現図曼荼羅)を在世中に映させたもの。原図曼荼羅は失われてしまったが、それを立体的に表現したこの像によって、後世まで不動明王の手本とされた。

国宝 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)木造承和6年(839)平安時代(9世紀)

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明王は密教固有の尊像で、密教の教えを聞こうとしないものを教化するために、その妨げとなる煩悩や欲望などを力づくで調伏する憤怒の仏である。五大明王のひとつで、東北方に配される北方尊である。三面六臂と、密教特有の多面多臂仏である。しかも、中央の面は眼が5つ、左右の面は3つと、顔が異様である。六臂にはそれぞれ独鈷(とっこ)や矢など法具・武器を持っており、今にも飛び掛かってきそうな躍動感が感じられる。これらの明王像はみな針葉樹の一木(いちぼく)造りで、衣の一部や臂釧(ひせん)・腕釧(わんせん)などの装身具は、乾漆(かんしつ)を盛り上げて成形されている。奈良時代の伝統的技法である乾漆を用いて、新来の密教尊像の特異な姿を表したものである。

国宝 大威徳明王騎像(きぞう)木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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大威徳明王は、頭上の3つを含め6つの面、六本の腕、六本の足を有する異形の姿である。六本足から六足尊とも呼ばれる。六面とも額にも目がある。左右の第一手は胸前で両手の指を組み各第三指を立てる。やはり密教独特の複雑な形である。他の手には剣や法棒などの武器を執る。水牛を座とするが、その水牛はヒンドュー教の死の神のヤマを表し、その上に大威徳明王が座るということは調伏を意味する。

国宝 降三世明王立像(ごうさんせいみょうおうりつぞう)木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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降三世明王は、正・左・右・背面のそれぞれ顔がある。眼は四面とも、目頭部弧状の縁のある瞋目(しんもく)と呼ばれる形式が採用され、見開いて吊り上り、上の歯列と牙を剥き出しにする憤怒の相である。焔髪(えんぱつ)と呼ばれる逆立つ髪も怒りを表している。腕は八本で、胸前で左右手の小指を組む参世印は、この尊像を強く印象付ける。他の指には三鼓杵(さんこしょ)や弓、矢などの武器を執る。ヒンドゥー教の神の姿を取りいれたものである。

国宝  梵天(ぼんてん)坐像 木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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須弥壇に向かって右端に梵天、左端に帝釈天が安置される。梵天は左右にも面があり、四本の腕という異形で、上半身には条帛(じょうはく)という帯状の衣しか着けない。胸部は広く、厚く表され、腹部に向かって細く括られる。たくましく、また肉感的な体型である。脚は崩して蓮華上に座る。これらの表現は、高雄曼荼羅の身体表現に近似している。蓮華座は、四羽のガチョウに支えられる。

国宝 帝釈天(たいしゃくてん)半跏像 木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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帝釈天は、上半身を甲で被い、その上に丈帛を着ける。下半身には裙(くん)を着け、象の上に左脚を垂加して座る。頭部は後世に造り直されているが、端正な顔立ちである。2011年の密教美術展で、東寺の立体曼荼羅が多数並んだ時に、「一番のイケメン像」として、女性の人気N0.1であった。45度前の角度から朝10時頃の太陽光で見ると、一番美しいそうである。梵天と帝釈天は奈良時代以来の尊像であるが、奈良時代のものは立像で、鳥獣を台座にするものはない。伝統的な尊像でありながら、姿や表現は新しいものに変わっている。その姿の原型は空海が将来したと言われる京都・醍醐寺の「十天形像」中の梵天と帝釈天と酷似すると言われる。

国宝  四天王 持国天立像  木造 承和6年(839)平安時代(9世紀)

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持国天は右手を振り上げ、右足を上げて邪鬼を踏み付ける。顔は斜めに下方に向け、目を見開く。その、目は瞋目で、口は大きく開けて威嚇する。面部は怒りで筋が隆起する。法隆寺の日本最古の四天王像は直立して、顔に怒りを表さないが、奈良時代を通じて四天王の怒りの度合いは増していき、この像でそれが頂点に達した感がある。本像は日本でも最も恐ろしい四天王と言って良いだろう。

国宝 四天王 増長天立像  木造 承和6年(839) 平安時代(9世紀)

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増長天は頭部を左方に向け、面部の筋はやはり怒りで隆起している。目は瞋目(しんもく)で持国天よりも大きく見開き、開口はしないが上歯列をむき出しにする。右手はあげて戟(げき)、左手は腰の辺りで剣を執る。右手は挙げ面部を左方に向ける姿勢は、それまでに造られてきた姿勢である。本像のように、台座に正対すると頭部はほぼ右側面をみせる大胆な表現には、目を見張るものがある。瞋目という形式は、奈良時代には四体のうち最も強い怒りを示す1体、もしくはそれに準じるものも含め二体に採用されているが、この時期以降、全像に瞋目を採用するのが一般的となった。

 

空海がもたらした新着の密教の神髄は、この東寺の講堂に収まっている。私は、空海の密教を少しでも理解したいと思い、昭和55年から57年(1980~82)まで毎日曜日に、この講堂に通った。結論から言えば、密教は満足に理解できていない。その中で、不思議な体験をした。昭和56年(1981)秋(9月頃か)に、東寺講堂で、この仏像群に詣でた時に、一番奥の五大明王の後ろ(その当時は、仏像の裏側まで公開していたが、現在は、管理の都合であろうが、前面のみを公開している。仏像はすべて前面を向いているので、この状態でも特別に不都合なことはない)で、若い女性(27歳位の美人)が、涙を流し、さめざめと泣いていた。幼い子供を失ったのか、恋する男性との別れがあったのか、理由は分からないが、長い時間涙していた。何とも言えない不思議な体験である。仏像の前で、涙を流す人はいる。確かに感激して、私自身も涙を流したことはある。しかし、あの憤怒の五大明王の後ろで、涙を流すだろうか?理解は出来なかったが、よくよくの深い事情があったのであろう。以来、東寺の講堂の仏像群は、私に取っては、その思い出と共に甦る。

 

(本稿は、小学館「古寺を行く 第3巻東寺」、図録「空海と密教美術 2011年」、図録「弘法大師と密教美術 1983年」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国のかたち1,2巻」を参照した)