東寺  講堂の立体曼荼羅(1)

空海は御請来目録の中で「密教は奥深く、文章で表すことは困難である。かわりに図画をかりて悟らない者に開き示す」と述べている。密教における造形の重要性を説くもので、東寺講堂の立体曼荼羅は、このような考えに基づいて造られたものである。講堂はおよそ幅34メートル、奥行15メートルの堂で、中央に幅24メートル、奥行6.8メートル、高0.9メートルの壇が築かれている。壇上には中央に大日如来を中心に五体の如来グループ(5仏)、その向かって右に金剛波羅密(こんごうはらみ)を中心に5体の菩薩グループ、その向かって左に不動を中心に5体の明王グループ(五大明王)、壇の右側左縁右縁にそれぞれ梵天と帝釈天、そして壇四隅に四天王の合計21体が安置される。各グループの尊像の間には密切な関係がある。その様子はまさに立体で表された曼荼羅で、堂内に入ると他では経験できない雰囲気に包まれる。

東寺講堂内部の諸尊像の配置

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中央に五智如来(5体)、右側(東側)に五菩薩(5体)、左側(西側)に五大明王が並び、東西の両端に梵天(ぼんてん)、帝釈天(たいしゃくてん)、四隅に四天王が配されている。文明の土一揆(1486)で、講堂は焼失し、尊像は、僧侶達の必死の運びだしで助かったが、扉が東西(右、左)二方向にしかなかったため、中央の五智如来の5仏と五菩薩の中応仏である金剛波羅密菩薩は焼失し、後世の補作である。

重要文化財  五智如来像(ごちにょらいぞう)  室町時代、江戸時代

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中央に位置する五智如来とは、密教の中心仏である大日如来の智(総徳)を5つに分け、それぞれの智を「金剛頂経」(こんごうちょうきょう)に説かれる大日、阿閦(あしゅく)、宝生(ほうしょう)、阿弥陀、不空成就(ふくうじょうじゅ)の五如来、すなわち金剛界(こんごうかい)の5仏を配したものを言う、大日如来を中心とする最重要の尊像である。五智如来は後世のものである。阿弥陀如来だけは、平安末頃の制作になるもので、その他の諸像も、この寺が京都の市中にあるため火災や地震などにより損傷を受け、補修の部分も極めて多い。にも拘わらずこれらの諸尊像中には、制作当初の様式を持ち続けたものが何体かあることはまことに貴重である。

国宝  五菩薩像   承和6年(839)   平安時代(9世紀)

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五菩薩(五大菩薩)は、これを一組として説く経典はないが、教化(きょうけ)を重視した空海の密教的解釈から工夫された一群の仏とされる。仏法そのものを備える五智如来の示す正法(しょうぼう)を衆生に説く菩薩のことで、実際に衆生を教え導く姿を取る。東寺では、五菩薩の名を金剛波羅密多(こんごうはらみた)・金剛薩埵(さった)・金剛宝(ほう)・金剛業(ごう)と伝えている。補作の中尊・金剛波羅密多を除く4体が国宝に指定されている。

国宝五大明王像(ごだいみょうおうぞう)承和6年(839)平安時代(9世紀)

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不動明王と、それを中心に東西南北に配された四明王を指す。四明王は多面多臂(ためんたひ)。加持祈祷(かじきとう)に験力(げんりき)を発揮すべく、それまでの仏像に較べ著しく怪奇な容貌と姿をしている。私が、馴染めない仏像と言うのは、主としてこの明王像である。五仏ともすべて国宝である。

重要文化財  大日如来坐像    室町時代

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大日如来は「大日経」「金剛頂経」の本尊となり、十方諸仏を包括し、仏法そのものを示す「法身仏」(ほっしんぶつ)の地位を得た仏で、太陽にもたとえられ、万物を慈悲と知恵の光であまねく照らすとされる。像容は、如来であるが、宝冠・瓔珞など各種装身具で身を飾り、一種の王者の姿を取る。金剛界の大日如来は、左手の人差し指を右手で包む智拳印(ちけんいん)を結ぶ。

国宝  金剛法菩薩坐像  承和6年(839)  平安時代(9世紀)

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創建当時からの4体は、一木造り、漆箔(しっぱく)仕上げの像で、天平彫刻の均整のとれた作風を示している。金剛法菩薩を除いて、坐像にも関わらず、膝前から台座の蓮肉(れんにく)まで共木(ともき)で彫りだし、頭髪や碗釧(わんせん)などの細かい部分は、木心乾漆の技法で補足している。全体として女性的なやさしい顔貌(がんぼう)としなやかな体つきが強調されている。この印象は五菩薩すべてに共通しており、仏の慈悲を示そうとする構想に相応しい。天平彫刻の伸びやかで官能的な姿態表現を追求したものであろう。

国宝  金剛業菩薩坐像  承和6年(839)  平安時代(9世紀)

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金剛業菩薩は、左手は全指を伸ばして掌を上に向け、右手は全指を伸ばして掌を前に向ける、天平時代までの尊像にはない密教独特の印である。髻(けい)を高く結い、髪筋が丁寧に表される。面長で、頬が締まって精悍な顔立ちである。蓮華座に座るが、脚は左右に大きく張って、膝が台座から飛び出す。以上の表現は、空海が将来した図像の表現を取り入れたものと考えられる。この筋肉質の身体表現の起源はインドの仏像に求められる。

 

 

 

司馬遼太郎は「この国のかたち」第二巻で、次のように述べている。「空海が展開した真言密教は、紀元5,6世紀ごろにインドで成立したもので、教主を釈尊ではな大日如来という非実在者としている点でいえば、仏教とはいいにくい。が、密教もまた空の思想をもち、解脱を目的としている点からみると、濃密に仏教といえる。」言い得て妙であると思った。「続日本後紀」承和6年(839)6月15日条に「公卿が皆東寺に集まった。天皇発願の諸仏の開眼のためである」という記述があり、それが講堂諸像の開眼のことと考えられている。空海は承和2年(835)に高野山で入定するので完成を見ることは無かった。なお5体の如来と金剛波羅密菩薩は、文明18年(1486)にあった土一揆で堂とともに焼失し、その後に造像されたものである。(だから重要文化財に留まっているのであろう)講堂の尊像は昭和40年(1965)まで秘仏であったので、色彩が鮮やかに残っている。

 

 

 

(本稿は小学館「古寺を行く第3巻東寺」、図録「空海と密教美術展 2011年」、図録「弘法大師と密教美術  1983年」、探訪日本の古寺「第8巻京都Ⅲ」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国のかたち第二巻」を参照した)