東寺  1200年の宝物

東寺には、秘法の国宝両界曼荼羅図(りょうかいまんだらづ)を始めとして、密教にかかわる絵画、工芸品、書跡など多数の宝物がある。昭和40年(1965)、宝物館が館内北側に新設された。兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)立像など、数々の秘宝が安置されている。春・秋に2回展示されるので、是非開扉を確かめて拝観して頂きたい。

宝物館(写真)   境内の北側

IMG_3075_1

昭和40年(1965)に、東寺の秘宝を公開する方針に転じ、講堂、金堂、食堂の公開と併せて、宝物館を新設し、東寺の秘宝を公開する方針に転じた。東寺の方針転換に心から敬意を表する。

国宝 兜跋毘沙門天立像  木造   中国・唐代(9世紀)

img453

四天王のうち多聞天が単独で造られると毘沙門天と呼ばれるが、兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)はそのなかで、地天女の掌の上に立つ形式のものを呼ぶ。この像は唐代に中国で造られたと考えられるが、その像は特異で、鎖を編んで作られる裾長の金鎖甲をまとい、腕には海老の甲のような籠手を付ける西域風である。中世の記録では、この像は、もともと平安京の出入口であった羅生門に安置され、王城の守護神としての信仰を集めていたという。羅生門が倒壊したので、近くの東寺に移されたものとみられる。正域の兜跋国に出現した毘沙門天の姿を模したとされ、兜跋毘沙門天の名で知られる。エキゾチックでスマートなお姿である。

国宝  真言七祖像  李真筆写  空海将来  唐代(9世紀)

img452

「御請来目録」に記載された、空海の師・恵果(けいか)が、空海に与えるため唐の宮廷画家・李真等に制作させた善無畏(ぜんむい)など5人の密教祖師像の一つである。空海が直接係った根本の祖師像で、唐代宮廷画家の手になる本格的な絹本色彩の肖像画遺品であり、現存する唯一の画像である。

国宝  御請来目録  空海選  最澄筆   平安時代(9世紀)

img501

空海が中国・唐から請来した新訳本247巻等、合計461巻に曼荼羅、阿闍梨御影など十鋪、密教の道具など九種十八個等を記載した目録で、天台宗の開祖最澄が空海より借用して写したものと考えられている。(「空海の風景」に記載あり)これらの品々のうち現在に伝わる物も多いことから、空海入唐中の密教研究の事績・成果物として理解されるとともに、日本の真言密教の始まりを示す重要な資料である。

国宝 密教法具  空海請来    唐代(9世紀)

img454

弘法大師空海は、唐で密教を学ぶと共に、数多くの仏画、仏像、経典、法具類を持ち帰った。その法具の一つと伝えられているもので、五鈷鈴(ごこれい)・御鈷杵(ごこしょ)とこれを法安する金剛盤(こんごうばん)の三点からなる組法具である。

国宝 両界曼荼羅図(りょうかいまんだら)(胎蔵界曼荼羅)平安時代(9世紀)灌頂院

img460

上記と並んで保管される胎蔵界曼荼羅であり、唐で作られたものという意見もある。「曼荼羅」を日本美術辞典で調べてみると、概ね次のように記している。「古インド語の音訳で、意義は輪廻具足または聚集のことを示し、即ち渾然とした一つの体系を意味し、それを具体的に示したものから壇または道場の意味もある。曼荼羅の語を専ら用いているのは密教であって、経意を壇の形式に象って図示したものをいい、各種の形式がある」佐和隆研氏の「仏教美術入門」には、次のように記されている。「曼荼羅といえば、現在では広い画面に多数の仏・菩薩などを並列して描かれている特殊な形式の仏画を思い起こす。しかし曼荼羅とういう言葉の中には聚集・壇・円満具足等の意味がある。これは現在我々がみる曼荼羅の歴史を思いださせるのである」要するに「仏教世界の表現」を曼荼羅と呼んだのである。胎蔵界曼荼羅は「理の世界」を示す。

国宝 両界曼荼羅図  金剛界曼荼羅      平安時代(9世紀)灌頂院

img459

金剛界曼荼羅の金剛とはダイヤモンドのこと。人間の悟りの心がまるでダイヤモンドのように堅固であることを、この図は表現している。「会」(え)という9つの区画からなり、そのため金剛界曼荼羅を九会(くえ)曼荼羅とも呼ばれる。曼荼羅は古代インドで生まれたものだが、ここで見る胎蔵界・金剛界のように左右均等の形に整えれたのは中国に伝わってからである。空海は中国で盛行したその最新の曼荼羅を描かせ、日本にもたらしたが、空海請来の曼荼羅は現存しない。この二つの曼荼羅は現存最古の彩色曼荼羅である。

国宝  天蓋(てんがい) 木製彩色    平安時代(9世紀)

img457

木製彩色、区内に八葉蓮華をすえ、中央に圏帯(けんたい),外区に八葉蓮華弁帯を廻している。材は檜である。御影堂に安置される国宝・不動明王坐像(9世紀)の上に掲げられていたものである。

国宝  東寺百合文書  (奈良、平安、中世)

img849

東寺が、中世、どのようであったかを知る資料として東寺百合文書(奈良・平安時代の文書も含まれている)がある。江戸時代に100個の桐箱に納めて保存されたので「百合文書」と称される。文書は約2万4000通に及び、現在は京都府立総合資料館が所蔵し、国宝の指定を受けている。東寺の荘園関係、法令仏事の文書を中心として、百姓申状(もうしじょう)や注進状など、当時の荘園のありさまや民衆の生活ぶりをいきいきと伝える資料が豊富に含まれていて、中世史研究にとって欠かすことが出来ない貴重な文書群である。世界記憶遺産の指定を受けている。

 

空海の存在は余りにも大きく、空海の思想は完璧であった。その為か、後進に独創的な思想を考える人は出なかった。せいぜい、空海を師とし、仰ぎ見る弟子ばかりであった。しかし、空海は「お大師様」として、現在でも大衆から親しまれている。四国八十八カ寺の巡礼は今でも盛んである。一方、同時代の最澄は顕教であり、顕教は読んで判るものであった。最澄は、日本における一代精神文化財とも言うべき叡山を開いた。没後300年後には、13世紀の鎌倉仏教が開花した。法然が浄土宗を、日蓮が法華宗を、そして親鸞が浄土真宗を起した。今日の日本仏教は叡山から生まれた。

 

 

(本稿は、図録「空海と密教美術 2011年」、図録「弘法大師と密教美術 1983年」、小学館「古寺を行く 「第3巻東寺」、野間清六「日本美術辞典」、佐和隆研「仏教美術入門」、司馬遼太郎「空海の風景上下」、司馬遼太郎「この国にかたち」第2巻を参照した)