歌川国芳展

辻惟雄氏「奇想の系譜」は1968年の「美術手帳」7月号から12月号にかけて連載された「奇想の系譜ー江戸のアヴァンギャルド」に加筆されて、「奇想の系譜ー又兵衛ー国芳」として出版された。発想から今年で50年を経過するが、今日でも新しい内容である。その「奇想の系譜」の最後に登場するのが、今回の歌川国芳である。従来の浮世絵の歴史は、野口米次郎氏が「六大浮世絵師」で示した春信・清長・歌麿・写楽・北斎・広重とする概念が長く受け継がれて来た。19世紀(幕末)の浮世絵師は、私の偏見でクリカラモンモンのお兄さんが活躍する浮世絵という思いこみがあった。しかし、ボストン美術館の「俺たちの国芳、わたしの國貞」展を見て、今までの偏見をきれいに一掃した。中でも国芳は素晴らしい。特に3枚続きの「化け物」は優れていると思うようになった。そういう目で美術展を観ると、ここ数年「国芳展」が開催されない年は無いと言ってもいいほど、国芳に対する見方は変わり、今更ながら「奇想の国芳」では無く、「実力の国芳」と思う程である。さて、国芳の伝記は、幸い13回忌に当たる明治6年に三囲稲荷(みめぐり)の境内に建てられた「一勇斎歌川先生墓標」に、その生い立ちや画業についての情報が伝えられていた。それによれば、国芳は寛政9年(1791)11月15日に江戸日本橋銀町(ほんしろがねちょう)に生まれ、父は柳屋吉左衛門で染物屋、国芳の俗称は孫三郎と言ったそうである。孫三郎は、7,8歳の頃から絵本を見ることを好み、12歳の時に、鍾馗の絵を描き、当時の浮世絵界の第一人者であった歌川豊国がこの絵を見て嘆賞したとことが機になり、豊国の門に入ることになったと碑は伝える。しかし、国芳の入門は文化8年、15歳の時であるとする説もあり、不明である。豊国は役者絵・美人画双方で人気を博し、門人も多く、特に国芳より11歳年長の兄弟子、国貞は役者絵、美人画で圧倒的に優位の立場にあり、国芳は長年、不遇の時代が続いた。この不遇時代に、国芳は梅屋(うめや)という終生の友を得た。この梅屋が、国芳に絶えざるアイデアを提供したのであろう。文化期には読本、合巻(ごうかん)など絵入りの読み物が隆盛し、その挿絵も浮世絵師の仕事として大きな割合を占めるようになった。その頃、中国の奇譚「水滸伝」が様々な翻訳案が作られ、文政10年(1827)に馬琴が伊勢の知人、殿村篠斎に宛てた手紙の中で、自著の「傾城水滸伝」の人気について次のように記している。「右水滸伝は、はやり候に付き、水滸伝ににしきえ、百枚出申候」。この水滸伝の錦絵とは、国芳の出世作、加賀谷版の「通俗水滸伝豪傑百人之一個(ひとり)」を指す。「水滸伝」は、これまで錦絵として取り上げられたことのない新しい題材であった。人体の動きを活写して、圧倒的な力をみなぎらせる国芳の筆力には、目を見張るものがあり、大人気を博した。

通俗水滸伝豪傑百人之一人 浪裡白桃頂順 文政11年(1828)頃 ボストン美術館

水練の達人である頂順が単身敵城に忍び込み、湧金門の水門を破ったものの、敵兵に集中攻撃を受け壮絶な最後を遂げる場面を描いたものである。四方から矢の飛んで来る攻撃に対し、頂順は果敢に戦うが、壮絶な最後を遂げる。国芳の細部にわたる表現が画面全体の緊迫感を表している。

坂田怪童丸   天保7年(1856)頃

国芳の「通俗水滸伝」シリーズのヒットは、新たな武者絵の購買層を獲得し、武者絵はシリーズ物も誕生した。「坂田怪童丸」はシリーズ名が無いが、「本朝水滸伝」シリーズと同じ様式で作られており、版元も同じ加賀谷である。怪童丸は別に金太郎の名でも親しまれており、足柄山で山姥を母として育ち、源頼光に見いだされて部下となり坂田公時の名を賜った。足柄山では金太郎絵が多いが、本作は金太郎が鯉つかみをする図であり、傑作である。鯉の体の水流の立体感、リズミカルな水の飛沫の表現が素晴らしい。

近江の国の有婦お兼   天保2年(1831)頃  原安三郎コレクション

暴れ馬の端綱を下駄で踏み付けてこれを止めたという怪力の遊女お兼の説話を描くものであるが、「イソップ物語」のライオンと馬の図との関連が、説かれて、背景の連山が「東西海陸紀行」のサン・フィンセント港から写されていることが指摘されている。蘭書の挿絵を取り込んだ事例として、しばしば取り上げられる。(国芳の革新性を示す事例である)

源頼光公館土蜘蛛作妖怪図(つちくもようかいず) 天保13年(1842)頃

天保12年(1841)頃から、老中水野忠邦によって風俗粛清、奢侈禁止を旨とした改革が行われ始め、食物や髪結い、銭湯など庶民の生活に関わる物の値段や賃料が厳しく制限された。翌13年(1842)6月には役者絵、遊女芸者風俗の錦絵出版禁止を命じ、今後は忠孝貞節を旨とすべしという街触が出された。色摺りも7,8編に限り、値段も一枚16文以上にはならぬと厳しく制限されることとなった。国芳は過料を科されることになった。代替商品として出版されたものが子ども絵、忠孝絵、静物絵などが出版されたが、巷間では次第に不満が高じていった。その中で出版されたのが、改革風刺の判じ物である。本作は、病床の源頼光の宿直(とのい)で碁を打つ四天王たちの背後には土蜘蛛が蜘蛛の糸を広げ、さまざまな妖怪が出現している。頼光を悩ます土蜘蛛の画題そのものは、四天王の一人卜部末武(うらべすえたけ)の紋が水野忠邦と同じ沢潟(おもだか)の紋であったことなどから、天保改革を風刺した判じ物であるとの浮説が立ち、江戸中の評判となった。あまりに世間の騒ぎがおおきくなったため、版元伊場屋仙三郎は配った絵を回収して版木も削ったので版元にも絵師にもお咎めはなかったとされる。無許可で模造した海賊版も多く出回って高値で売買されたとのことである。国芳の署名があっても、主版の異なる作が数種伝わっている。風刺画、判じ物が次々に出版された。

荷宝蔵のむだ書            嘉永元年(1848)

弘化2年(1845)、水野忠邦は老中職を罷免された。役者絵の禁令も次第に緩んでいった。「荷宝蔵壁のむだ書」は、土蔵の白壁の落書きを見立てた役者似顔で、釘で引っ掻いたような線が何ともおかし味のある作である。黄色の腰壁が三図(本作は真中)、黒の腰壁が二図あるが、役者は重複しておらず、五図を一組として構想したものと見られる。まさに近代のカリカチャアを思わせる傑作である。

人をばかにした人だ    弘化4年(1847)頃

額に紙片を張付けて、下から息を吹き出して飛ばす「紙吹き」という遊びをしている男の横顔で、「人の心はさまざまなものだ。いろいろくろうしてよふよふ人一にんまへになった」と書いている。人を集めて、人の顔を描いた絵である。パズルのような戯画である。

国芳もやう正札附現金男(しょうふだつきげんきんおとこ)野晒悟助 弘化2年(1848) ボストンン美術館

10人の侠客を描くシリーズものの一枚である。悟助が見にまとう髑髏模様の衣装は、「人の災いを省く髑髏目中の草を抜くがごとく」というモットーを意匠化したもので、初代歌川豊国による「本朝酔菩提全伝」挿図によって定着した。豊国の弟子国芳はこれを継承しつつ、それぞれの髑髏がネコたちが寄せ集まって形作らるという、国芳ならではのユーモアを盛り込んだ作である。張り詰めた漢気に、健気なまでの愛嬌を融合させた、伊達男の傑作である。

鬼若丸の鯉退治  大判三枚続き  弘化2年(1845)頃

鬼若丸、のちに牛若丸、源義経の郎党となる武蔵坊弁慶。比叡山延暦寺の西塔に稚児として預けられ修行していた頃、古池鏡が池に棲む人に害をなす巨大な緋鯉を退治した逸話が描かれている。銅鑼を打ち鳴らして鯉を呼び出し、鬼若丸はきっと目を見開き水面下の怪魚を見つめ、逆手に刀剣を握る童子のぷっくりとした腕に力が入る。そのかたわらで乳母の飛鳥が見守っている。国芳は大判錦絵三枚繋げてスクリーンのような大画面を作り、画面いっぱいに巨大な怪物、妖怪をダイナミックに配置して主な登場人物との大きさを強調する。ここでは黒と青の筋で表された波紋が大緋鯉の動きによって生じた臨場感を生み出している。国芳が描く巨大なバケモノと対決する歴史上のヒーローたちの姿に、江戸の人々は、大いに熱中していたことであろう。

相馬の古内裏に将門の姫君滝夜叉妖術を以って味方を集むる  弘化元年(1844)頃 ボストン美術館

江戸時代の読物で、平将門没後の後日譚「うとう安方忠義伝」(山東京田著)の一場面をダイナミックに描いたものである。下相馬にかって将門が築き、朽ち果てた古内裏で、平安時代の武者源頼信(よりのぶ)の家臣大宅太郎光国(画面中央)が、妖術を操る将門の姫君滝夜叉姫と対決する場面。光国が姫を守ろうとする荒井丸をねじ伏せたとき、御簾を打ち破り巨大な骸骨が襲いかかる。国芳は迫力あるバケモノに変更することで、見る者の度胆を抜いた。国芳は骸骨を描くにあたり、「解体新書」などオランダから伝わった解剖書を参考にしたものと思われる。三枚続きの錦絵は多いが、それを利用して巨大なバケモノを画面一杯に演出したのは、国芳が、初めてであろう。圧倒される。

讃岐院眷属をして為朝をすくふ図 大版錦絵三枚続き 嘉永4年(1851)頃

平安末期、皇位継承に関わる内戦の保元の乱(1156)で、崇徳上皇に味方して敗れた強弓の武将、鎮西八郎為朝が活躍する伝奇小説「鎮西弓張月」(ちんぜいゆみはるづき)の一場面である。父の仇、平清盛を討つため出帆した為朝の船は、暴風雨のため難破した。妻の白縫姫(画面左下)は身を投じて、海を鎮めようとする。自らの悲運を嘆き、切腹しようとする為朝を、讃岐院(崇徳上皇)が遣わした烏天狗が押し止める。その時、為朝のために忠死した家臣高間太郎(たかまたろう)とその妻が乗り移った巨大な鰐鮫が海中より現れ、嫡子の昇(す)天丸を抱える喜平治(きへいじ)を背に乗せ救い出す。この国芳が生み出す奇抜な構図によって、江戸の人々は壮大な架空戦記の世界に一舜で虜になったであろう。

 

この展覧会は府中市美術館が3月11日より5月7日まで開催している展覧会である。副題は「21世紀の絵画力」であった。美術館で購入した図録は、かなり高い2800円であった。しかも講談社刊で、図録ではなく、一般書店でも販売できる形になっていた。多分、府中市美術館のみでは、販売し切れない事情があるのであろう。その内容を一部引用する。「今の国芳ブームには、半世紀近く前に出版された、ある本が関わっていると思われます。辻信雄氏の「奇想の系譜ー又兵衛ー国芳」・1970年ーです。それまで、江戸後期の浮世絵は退廃、爛塾と言う言葉で語られてきましたが、国芳の創作性や画力に着目した同書は、そんな固定化した見方から解放する大きなきっかけとなりました。今回の展覧会に際しては、株式会社講談社から一般書籍として販売する形をとらせていただくことにいたしました。そうした形である以上、通常の図録としての内容はもちろん、出品作品以外にもさまざまな作品や資料を掲載するなど、展覧会をご覧になれない方々にも国芳の醍醐味を味わっていただけるよう工夫いたしました。」実は、この図録の性格を知らないで、私は購入した。帰って、読んでみて、どうも図録としては、納得できないものを感じた。先程の「ごあいさつ」は、図録とは別途に印刷され、挟み込まれていたので、全く図録の意図を知らずに買った次第である。このような図録の有り方には納得できる。しかし、図録の内容には、いささか納得できない部分もあり、昨年見た「ボストン美術館 俺たちの国芳わたしの国貞」の図録や写真を参考にして、国芳の出発から最後のスクリーン型の大画面までを時間を追いながら解説する方法を採用してみた。従って、この展覧会とは、すこぶる内容の異なる解説となった。私は国芳を解読するには、一度時間を追って解説する方式を採用しないと、国芳の良さが、伝えきれないと思ったからである。従って、この展覧会の意図(「21世紀の絵画力」)とは、全く離れた内容となった。この展覧会では、「何故21世紀の今、国芳が注目されるのか」を探っているが、それは殆ど無視して、江戸の人々が何故、国芳に夢中になったかを追跡してみた。多分、結果は同じことになると思う。改めて図録を、しっかり読み直してみたいと思う。

 

(本稿は 、図録「歌川国芳 21世紀の絵画力 2017年」、図録「ボストン美術館 俺たちの国芳渡わたしの国貞  2016年」、岩切友里子「国芳」、大久保純一「浮世絵」、図録「大浮世絵展  2014年」、辻惟雄「奇想の系譜」を参照した)