歿後50年  藤田嗣治展(4) 戦後の20年

1945年8月の終戦を迎え、戦争中の国策協力を糾弾され、「画家の戦犯」として日本画壇から厳しく戦争責任を追及された藤田は、戦時に控えていた裸婦など、本格的な制作を開始した。また、戦争容疑を晴らすため、GHQの民政官だったシシャーマン・リー(デトロイト美術館学芸員)に近づき、一緒に丹沢などを散策し、自分の絵画に取り入れたりしている。1947年2月、GHQは1年間かけて審査した戦争犯罪人リストを公開した。政治家、軍人など追放された人物は1760人に及んだが、その中に藤田はもとより画家の名は1名も無かった。あれほど画壇を騒がせた「戦争責任」の問題は、これで一応決着を見た。藤田の「戦争責任容疑」もこれで、完全に晴れた。藤田がフランスへの渡航のためのビザを申請したのは、前年の1946年のことであった。しかし、何故か、ピザが下りなかった。フランスのビザが下りないことに困り果てた藤田は、GHQの高官に働きかけてアメリカ渡航のビザを取ろうとした。一度アメリカに渡って、それから先は後で考える積りだったのであろう。ピザ取得に向けて力を貸してくれたGHQ高官が誰かは不明であるが、私はデトロイト美術館の学芸員をしていたシャーマン・リーが何等かの形で関与したのではないかと推測している。ともあれ、アメリカのビザは、程なく許可されることになった。アメリカでは、既にニューヨークの美術学校で教職につく予定で決まっていた。しかし、ここで手違いで夫人のビザが下りず、この機会を逃がすと、藤田の渡航に邪魔がはいることを怖れ、1949年3月に、藤田一人でアメリカに旅立ち、夫人は遅れて渡航することになった。タラップに立ちた藤田は、次のように挨拶したと伝えられている。「絵描きは絵だけ描いて下さい。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界的水準になって下さい」。戦争責任をめぐって混迷をくりかえした日本画壇への痛烈な批判だったと思う。10ケ月ほどアメリカで過ごし、ニュヨークでは傑作「カフェ」「美しいスペイン女」等を制作し、精力的な活動をしていた。間もなく君代夫人もアメリカに到着した。1950年2月、パリに移った。

優美神  油彩・カンヴァス   1946~48年  聖徳大学

ギリシャ、ローマ神話に登場する魅惑、美貌、創造力を象徴する三人の女神については、西洋美術では古来繰り返し取り上げられているが、最も有名なのはポッチェリーの「春」でに登場する姿であろう。花々が咲き乱れる野原に三人の裸婦を配したこの作品も、明らかにポッチェリーを意識して描かれたものであろう。しかし、藤田の描く裸婦はエコールド・パリの時代とは変わった。本作品には白い下地も黒い輪郭線もなく、裸婦のヴォリュームは絵具の明暗を少しずつずらしていく、いわゆるモデリングを用いて表現されている。それは背景の山並みや草花についても同様で、空間表現を含めて藤田独自の日本画と油絵を融合させる技法ではなく、完全に西洋の伝統的な技法に従って画面が構成かれている。神話の女神という架空の存在と現実の風景が一体化することにより、奇妙な空間が現出している。それは以前にも、それ以後にも同様の作例が見られぬ独特の作風である。終戦直後という時代背景が生み出したものだろうか。

私の夢 油彩・カンヴァス   1947年   新潟県立近代美術館

「私の夢」は1947年5月、「新憲法実施並ニ東京都美術館20周年記念現代美術展」に出品された作品である。漆黒の背景に、眠る裸婦。着衣の猫や猿、狐、栗鼠等が周囲に配されて、まるで東洋の涅槃図を見るようでもある。裸婦の皮膚の色は、「乳白色」を思わせる肌で、一部黒い線で彩られている。パリへの郷愁の表現でもあったのだろうか。前出の「優美神」と比較すると、違いははっきりする。

カフェ  油彩・カンヴァス  1949年(藤田手製額)ポンピドー・センター

ニユーヨーク滞在中の「カフェ」木炭、紙の「素描」が1点、油彩画3点、クレヨン・デッサン1点があり、本作は1949年のマシアス・コモール画廊における個展で発表された作品である。1949年8月末、戦後を代表する藤田の傑作が誕生した。藤田の絵に久しぶりに「乳白色」が甦った。絵の舞台はパリ。カフェの片隅で黒いドレスの女性が窓に背を向け、頬杖をついている。色彩も筆の線もまさにエコールド・パリの藤田そのままである。だが微妙に違うのはその表情である。かっての女性は無表情であったことが特徴であったが、このカフェの女性には、深い愁いが漂っている。藤田の描く女性の表情に、何等かの感情の動きが見て取れるのは、極めて珍しい。テーブルに広げたままの便箋には、書くべき言葉が見つからないのか、便箋には滲んだ跡は見えるものの、そこには何も書かれていない。「カフェ」を完成させて5ケ月後の1950年1月、藤田はニューヨーク港からパリに向けて出航した。額縁も藤田の手製である。

美しいスペイン女 油彩・カンヴァス(藤田手製額) 1948年 豊田市美術館

これは1949年11月にニュヨークのマシアス・コモール画廊で開催された個展の出品作である。1949年3月のニューヨーク到着後、当地の美術館を訪れて久しぶりに西洋美術の巨匠の作品に触れたことで、藤田が受けた刺激が、この作品から窺える。この女性の面差しは、イタリアルネサンス期の女性肖像画の諸作を想い起させる。個展出品作であるが、満を持して制作されたものであり、自身のこれまでの技量と経験を注ぎ込んで、しかし新鮮味も備えるという課題に取り組んだ藤田の再出発の緊張感のをたたえた作品であると評価することが出来る。描かれているのはニュヨークの風景でも人物でもなく、ヨーロッパ風の風景を背景にした欧州の女性である。黒いヴェールを被り、黒い服着た女性の姿はルネサンス時代の肖像画、特にレオナルド・ダビンチの「モナ・リザ」を連想させる。「スペイン女」とするのは、黒いレースのヴェールのゆえか。額縁も藤田の手製である。

姉妹  油彩・カンヴァス  1950年  ポーラ美術館

ニユーヨークからパリへ移った間もない時期の作品である。双子と見られる二人の少女が、寝間着姿のまま寝台の中でクロワッサンとカフェ・オ・レの朝食を執る絵である。額縁は1940年の藤田の手製で、中の絵よりも10年早い作だが、ハートに天使の文様で飾られ、画中の姉妹の愛らしさと調和している。

室内  油彩・カンヴァス  1950年    ポーラ美術館

ここに描かれているのは、実際の室内ではなく、藤田が1947年に作った模型(マケット)の室内である。模型のせいか、それぞれの物の位置関係と奥行きは幾分不自然だが、それがかえって室内の親密な雰囲気を出している。この模型(マケット)は、東京からニューヨークを経てパリまで携えてきた理想の家がこの作品に描かれている。このマケット自体は、フランスのメゾン=アトリエ・フジタに現存する。

家族の肖像  油彩・カンヴァス  1954年   北海道立近代美術館

68歳の自画像である。おかっぱ頭、丸眼鏡、ちょび髭は1910年以降の藤田の容姿だが、東洋人らしさを際立たせていた黒髪は今や白髪となった。背後の壁を飾る絵は1941年に逝去した父、嗣章88歳の肖像画と、1936年頃に伴侶となった君代夫人の17歳(1910年生まれ)の肖像である。君代は最後まで手元に残し大切にしていた作品である。

夢  油彩・カンヴァス  1954年  個人蔵(日本)

横たわる裸婦の傍らに動物が集う作品は1947年の「私の夢」以来、いくつか描かれている。上部にはベッドの被いに「ジュイ布」が描かれているものもいくつかある。それほど擬人化されない薄ぼんやりとした表情の動物たちとの対比によって、本作の裸婦はとりわけ美しい。裸婦の肌のせまい色相の茶褐も美しいが、こうした茶褐の色彩は1930年代中頃から現れ、幾つかの戦争記録画の制作の過程で藤田が自家薬籠中としたものだと考えられる。

ビストロ  油彩・カンヴァス  1958年  カルヴァナレ美術館

図録のソフィ・クレプス氏の冒頭論文によれば、「カフェ」と同じ主題を再び取り上げているとして本作を示している。題名は「ビストロ」であるが、この習作は1957年に描かれた「カフェの中(習作)」と全く同じ内容である。そこに描かれた若者たちの当時の流行の服装をしている。当時の典型的な若者たちで賑わうこの光景は、藤田が現代風俗を描いた数少ない作品の一つである。「パリジェンヌ」をテーマとした第7回「時代の証人の画家たち」展への出品作である。特に印象深いのがこちらを見つめる赤い服の女性である。その眼差しは椅子の下にいる猫の眼差しと対をなすかのようである。

ニューヨークからパリへ移った藤田は、新たな目標に向かって画家として活動を続けた。この1950年代の作品では、私は「カフェ」を一番に捺したい。また「姉妹」に代表される子供の絵が多いこともこの時代の特徴である。1950年2月にふたたびパリの土地を踏んだ60歳代の画家は、戦争で傷つき、エコールド・パリの時代から次第に遠ざかるこの街で、戦前の古い街並みや新しい時代に失われていく風俗、そして子供達に絵筆を向けていった。なお、藤田には膨大な日誌。自筆記録が残され、すべて君代夫人の手で東京芸術大学に寄託されている。この膨大な記録を、何れの時か、誰かが書物にされることを私は心待ちしている。

 

(本稿は、図録「没後50年 藤田嗣治展  2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画   2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に 2013年」、図録「藤田嗣治、全所蔵作品展示 2015年」、近藤史人「藤田嗣治ー異邦人の生涯」を参照した)