歿後50年 藤田嗣治展(5)カトリックへの道行き

藤田と君代夫人は1955年にはフランスに帰化し、日本国籍を抹消し、更に1959年にはカトリックの洗礼を受け、フランス及びヨーロッパ文化への同化の意志を明確にした。これらの行動は、1949年の離日に始まる日本との決別の儀式を完成するものであり、藤田の心の傷の深さを示すものと解釈されてきた。君代夫人は、藤田が日本を捨てたのではなく、捨てられたのだと語ったというが、日本は藤田を忘れることができず、藤田も日本に別れを告げられない、というのが両者の実際の関係だったのではないだろうか。フランスへの帰化、カトリックへの改宗は、むしろ自分と日本とのつながりの強さを改めて藤田に感じさせたのではないだろうか。1959年10月14日、フランス北東部の歴史ある街、ランスの大聖堂で、妻君代と共にカトリックの洗礼を受けた。先例名は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなみ「レオナール」とした。以後の作品には「L・Fourjita」とサインするようになった。1910年代から、キリスト教をテーマにした絵画を描いていたが、洗礼後は「フランス人・キリスト教徒」として、熱心に制作した。藤田が画家として最後の努力を傾注したのがランスの平和の聖母堂、通称藤田チャペルである。完成して間もなく体調を崩して入院。その後入退院を繰り返して1年余りで、この世を去ったことを思えば、まさに命を賭した仕事であった。「平和の聖母」という名称にはっきりと込められているように、そこを訪れるすべてに安寧をもたらすような場所を願って建設されたものである。藤田が晩年に描いた宗教画は、全く市場性は考えない、純粋な信仰心、藤田自身の言葉によれば「神への愛」の発露として描かれたものである。

風景  油彩・カンヴァス   1918年       名古屋市美術館

1918年の4月から夏にかけて戦争からの疎開もかねて南フランスのカーニュで過ごした。同行したのは、妻のフェルナンド、モディリアーニ、スーチン等であった。この「風景」は色彩の明るさはあるものの、どこか不穏な雰囲気にも感じられる。地面や空、さらに草木にもうねるような筆が加えられ、風景が歪んでいるようにさえ見える。藤田は古い教会やカルヴェール(石造十字架)に接して以降、キリスト教への関心を深めた。

二人の祈り  油彩・カンヴァス  1952年  個人蔵(日本)

藤田が、主要な画題としてキリスト教主題を取り上げたのは、戦後アメリカ滞在を経てパリに渡った以降のことである。1952年の年紀を持つ本作はそうした中でも最初期の作例で、画家と君代夫人が生涯身近に置いていた思い入れの深い作品である。ここに描かれるのは聖母子に向かいひざまずき、祈りを捧げる藤田夫妻の姿である。傍らの画架には、ゴルゴダの丘へ向かうキリストの容貌が写し取られたという聖画布を思わせる素描を描いたキャンパスが置かれ、幼子が将来、十字架にかけれる運命であることが示される。藤田が画業を奉じ自らの救済と受容を祈り願う対象は、キリスト教という西洋文明社会のことではなかったかとも想像さあれる。聖母子と絵画芸術とが象徴する清い世界へのあこがれが、作者のルサンチマンと表裏一体であったことを本作は素直に示している。自室に飾るために制作され、君代夫人が最後まで手放さなかった作品である。

協会のマケット  木製 1953年  メゾン・アトリエ・フジタ(フランス)

画家お手製の模型を描いた作品である。今も、メゾン・フジタに残されている。1953年の夏、藤田が友人のジョルジュ・グロジャンのヴィラの所領に滞在したおりに聖堂の模型(マケット)を制作したことが伝えられている。その時の模型こそ本作に描かれたものであろう。ピラでの夏、画家は友人にいつか聖堂の建設を実現したいと語ったともいう。この頃には君代夫人のうちにもカトリックに対する宗教的感興が芽生えていたようである。彼女は聖地ルルドの訪問を希望し、グロジャン一家は彼女の願いを叶えるために運転手付きの車を用意したという。グロジャンは後に、藤田のフランス国籍取得に際しても力を尽くすことになる。この模型の制作は、1955年2月のフランス国籍取得のがきっかけとなったかも知れない。「教会」内には、南米で手に入れたという豪華な衣装で全身を覆っている聖母マリア像が立つ。

聖母子  油彩・カンヴァス 1959年  ランス大聖堂(ランス美術館寄託)

1955年にフランス国籍を取得した藤田夫妻は、1959年10月14日、ランス大聖堂で洗礼を受け藤田はレオナール、君代はマリー=アンジュ=クレールの洗礼名を授かった。藤田のカトリック信仰に対する傾倒は1950年代の早いうちからうかがわれるが、自身の二度の離婚が改宗の妨げとなることを心配し、躊躇する期間が長くあったようである。画家夫妻は、歴代のフランス王が戴冠式を行ったランス大聖堂において洗礼式をあげうことになった。その模様は世界各地からやってきたテレビ・ラジオ・新聞等に取り上げられ、メデイアの寵児として健在ぶりを示すことにもなった。画面に描かれた聖母子を覆うひさしのような構造物は素朴な木材を組み合わせた質素なものであるが、金箔をほどこし、その上に鮮やかな文様があしらわれた額縁と対照をなしている。

キリスト降架 油彩・布 1959年 パリ市立近代美術館(ランス美術館寄託)

画面下には受洗の年のクリスマス年紀を持つ。息絶えたキリストを抱きかかえる白髪の男性は父ヨゼフ、膝を抱きかかえる青い衣の女性は母マリア、キリストの足元に触れる緋色の衣をまとった女性はマグダラのマリアであろう。画面の上部がアーチ状に縁どられた金箔によって覆われているのが目を引くが、同様の構図を持つ作品が1960年頃に精力的に描かれている。格子状に金箔を配する方法は、ルネサンス以前の聖画と琳派など日本美術の装飾性とを同時に想起させるものとして戦前にも用いられたものである。1960年のポール・ペトリデス画廊での個展に出品後、翌年イタリアのトリエステで開かれた第1回「国際宗教美術展」で展示され、金賞を受けた。晩年の大作は、1991年に君代夫人よりパリ市立近代美術館にまとめて寄贈された。

礼拝  布・油彩  1962~63年  パリ市立近代美術館

二人の天使によって冠を授けられる堂々たる聖母マリアの姿が描かれる。その左右に跪き、祈りを捧げる画家夫妻の姿がある。敬虔な身振りでもって大きく描かれた二人の姿は、あまたある宗教画の中の寄進者の身振りをなぞったものに他ならない。画面の左端には、画家の終の棲家となっいたヴィリエール=ル=パクルの家が小さく描き込まれている。洗礼の1年後に購入し、1年間の改修のあと入居した。

マドンナ 油彩・カンヴァス  1963年  ランス市立美術館

聖母マリアと周囲の天使ともに有色人種の容貌で描いた珍しい作品である。この聖母のモデルはアフリカ系アメリカ人の女優マルベッサ・ドーンで、1959年公開の映画「黒いオルフェ」でヒロインを演じて話題になった。その姿を良く捉えている。1964年ポール・ペトリデスの生前最後となる個展に出品した。

十字架  油彩・板・金具  1966年   ポーラ美術館

藤田の念願だったノートルダム=ド=ラ=ペ(平和の聖母)礼拝堂の建設が始まった年の作品である。当時の藤田は君代のため木製の装飾箱を多数制作していたが、これも夫妻の生活を彩るための作品であろう。ヴィリエル=パクルの家では居間の棚に置かれていた。箱の上の十字架風の板の片面には祭服を着た幼子イエス・キリストが描かれている。他面に描かれたのはキリスト(成人)の図である。藤田の死後フランスから帰国した君代夫人は、この十字架を寝室に置いて、亡くなる最後の時まで大事にしていたそうである。

 

「没後50年 藤田嗣治展」を延々5回に亘り連載したのは、フジタのすべてをこの機会に記録しておきたいとという強い思いがあったからである。ここに描いた藤田は、私の思う藤田のすべてであり、特に戦争画と戦犯容疑については私見を交えながら、調べられる限り調べてみた。日本画壇の藤田に対する、その時の態度は大人の態度ではなかった。あまりにも大人げない仕草に、70年後の今でも許せない気持ちである。しかし、藤田の戦争画は優れたものであり、他の画家の追随を許さない。藤田は1968年1月29日に、81歳で亡くなった。日本政府は藤田の功績をたたえ、勲一等瑞宝章を授与した。地下の藤田は、この報をどのような思いで受け取ったであろうか。

 

(本稿は、図録「没後50年藤田嗣治展(5)カトリxクへの道行き2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、図録「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示  2015年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」を参照した)