歿後90年  岸田劉生展(1)

 

劉生の生家である銀座楽善堂精錡水本舗は、父吟行が経営する薬局と書房に別れていた。日本の近代化の先進地である銀座と築地が隣り合った界隈にああって、西洋伝来の目薬と東洋の文具の両方を売る店に生まれ育った劉生の幼心には、西洋への憧れも東洋への親しみも一緒にあったのであろう。七男七女の中でも将来を期待されていた劉生は、14才の頃に、キリスト教の信者になった。劉生は、父の死によって、東京高等師範学校付属中学校を第三学年で中退し、洗礼を受けた。この頃から木下藤次郎の「水彩画乃栞」を手にして水彩画を描き始めた。その後、田村牧師からも画家になることを勧められ、明治41年(1908)には黒田清輝の白馬会葵橋油画研究所に入所して、本格的に油彩画を学び始めた。劉生の芸術を考察する時、劉生は画家である前にキリスト教徒であることを踏まえておくことが必用である。しかし、21才の春、劉生はキリスト教を捨てる。キリスト教という支柱を失って、ひとりの画家としての新しい生き方を真剣に模索していくなかで、文芸雑誌「白樺」と運命的な出会いを果たした。劉生が「第二の誕生」と呼ぶものは、何であったのであろうか。劉生が手にした「白樺」の「六号雑感」からの冒頭にある「自分はどうも意気地なしで困る」から始まって「自分は何らかの意味でも自分を尊敬することの出来ない人と話をするのはいやだ」と語り、武者小路実篤に初めて出会い、その絶対的な自己肯定の哲学、人類主義につながる徹底した個人主義に共感を覚え、圧倒的な影響を受けたのである。後期印象派の鮮烈な色彩による表現を知った時、外光主義の穏健な写実描写という固定観念が破壊され、ゴッホやゴーギャンの眼で自然を見ることを試みて、「模倣に近い」作品と自覚しながらも製作した。術館

薄暮の海 水彩・紙   1907年  東京国立近代美術観

同じ日の日記には、この水彩画に関する記述と「白簿の海」と題する詩が残されている。「午後より大森に写生せんと出でたつ。海岸に出でて松原を写生する。画半ばならざる汐風の寒きにたえず筆をおいて帰る。「薄暮の海」、汐風松に錚々の楽を奏す。薄暮の気靄々として万象を籠め、平和なる晩秋の海は紫なり」と日記に記されている。

銀座数寄屋橋  油彩・板  1910年頃  東京国立博物館

雨の日の銀座の景色である。和傘を差して、ぬかるんだ道を跳ねるように歩く人々。白い銑のリズムカルな筆致が、いくつか並んだ和傘とともに、その足跡を表現する。

B.Lの肖像(バーナード・リーチ)の像 油彩・カンヴァス 1913年 東京国立近代美術観

イギリスの陶芸家バーナード・リーチは「白樺」の同人たちと親交があった。劉生がこのイギリス人の知己を得たのは、1911年の第2回白樺美術展会場だった。この肖像画よりも1年ほど前に手掛けられた「自画像」に比べると、原色に近い色彩の使用や筆のタッチの奔放さは抑制され、対象の総体を穏やかな色面で捉えようとする意識が強くなっている。ファン・ゴッホの熱狂から解放された劉生は、その後セザンヌに傾倒を顕著にしていったのである。

自画像 油彩・麻布  1913年    個人蔵

劉生は、数多くの自画像を描いている。1913年春頃の自画像と比較すると、格段に筆致が細かく写実的に変化している。赤らんだ大きな鼻から顎までの肌と皺の立体感と花の頭や頬の照りが目立つ。こちら(鏡に映る自己)をみつめる視線も強く厳しくなっている。

武者小路実篤像 油彩・油 1914年   東京都現代美術館

モデルは雑誌「白樺」同人の文学者・武者小路実篤である。岸田劉生が、知人、友人を次々とモデルに肖像画を描いていったいわゆる「劉生の首狩り」と呼ばれる時期に描かれた肖像画の1点である。岸田劉生は、1911年、柳宗悦の家に泰西名画の複製を見に行ったが、その場で初めて、武者小路実篤に出会ったという。知り合って、3年の月日が流れた後、武者小路実篤は劉生のモデルとなった。後期印象派の影響から脱して、徐々に、写実に基づく表現を心がけていこういとしていた頃の作品である。黄褐色を基調とした画面からは、劉生が人物を表現する際の内面まで迫ろうとする意欲が垣間見られる。劉生は、熱心な「白樺」派同人として、屡々「白樺」の表紙を描いている。

画家の妻 油彩・カンヴァス 1914年  個人蔵

モデルは劉生の妻、蓁(しげる)である。まさに岸田劉生が、北方ルネサンスの画家、特にデューラーから「クラッシックな感化」を受けていた頃の作品である。古典的な細密描写のもならず、アーチ型の淵飾りを試み、画面に欧文文字を書入れ、紋章風の署名を行い、懐古趣味や宗教性が強く表れている。岸田劉生自身は、白樺10周年記念に開かれた岸田劉生の個展に、この作品が「どうも自然の見方が少し簡単になっている」ので、この作品の出品を取りやめている。しかし、デューラーの感化ははっきりとしているが、ここにはすでに、その後の彼の肖像画が持つことになる「内なる美」が萌芽している。

赤土と草 油彩・麻布  1915年   浜松市美術館

画壇で孤立していた劉生の周囲には1915年頃に、若い画家の卵たちが集まってきた。丁度その頃、知人から展覧会を開催することを誘われていた劉生は、創土社展会と名前を付けて、以後、1922年までの9回の展覧会を重ねた。その展覧会の名前の由来は、この「赤土と草」であった。最初、「現代の美術社主催第1回美術展覧会」と呼ばれた第1回展覧会に出品されたこの作品が代表するように、こうして土や草に愛情を注いだ風景画を制作する劉生らの画家グループ「草土社」が形成され、大正期の画壇に異彩を放った。この作品のどっしりとした赤土の大地には力強さが認められ、鬱蒼と生い茂る草原には旺盛な生命力が宿っていた。

重文 道路と土手と塀(切通之写生) 油彩・カンヴァス 1915年 東京国立近代美術館

現在、重要文化財に指定されているこの作品は、いわば劉生の風景画の代表作である。1916年4月開催の創土社第2回展覧会に初出品された作品である。切通しの風景は劉生がわざわざ探して見つけ出した康慶ではない。引っ越して偶然見つけた風景と言っていい。しかし、この東京近郊の掘り返された新開地の赤土に劉生はことのほか愛着を感じた。古典を熱心に研究していた時期ではあるが、その影響は直截ななんらかの見える形で現れるというのではなく、描くものを真摯に見つめ、愛情を込めて描く態度に、古典から学んだあとが認められる。赤土と白い壁、緑の草、青い空とのコントラストが、はっきりとしており、精粗で凛呼とした感じが画面全体に漂っている。

古谷君の肖像(草持てる男の肖像) 油彩・カンヴァス 1916年 東京国立近代美術館

モデルの古谷(こや)芳雄は、東京帝大大学を出たばかりの医師で、文芸同人雑誌を木村宗八らと出す文学青年であった。1916年7月に劉生が転地療養のため駒沢村新町に引っ越したことで、二人は偶然隣同士のの仲になった。そこで古谷は自身の関わっている文芸雑誌「生命の川」の表紙絵を劉生に頼んだのが交際の始まりだったという。最初、ほとんど寝たっきりだった劉生は、徐々に健康を回復し、古谷にモデルになってくれるよう依頼したものだった。冷徹な写実表現やモデルの手に草を持たせるポーズをとらせたり、年紀、署名のゴシック風書体を使うところなど、劉生がいかに北方ルネサンスの巨匠だったデューラーヤファン・エイクに傾倒していたかがよく分る。

壺の上に林檎が載って在る 油彩・板 1916年 東京国立近代美術館

劉生は1916年7月に肺結核と診断されて(後に誤診と分る)療養のため東京府荏原郡駒澤新町に引っ越した。屋外の写生画は健康上無理であったため、風景画が自由に描けなくなった彼は、室内で静物画を描くようになる。これは、こうして描かれ始めた静物画の1点である。写実から神秘性に踏み込んで「内なる美」を見出そうとする劉生の芸術観がよく表れている作品である。壺の上に林檎を置くというのは、一見こどものいたずらのように見受けられるが、彼の筆によって、その滑稽さは微塵もない。ものの存在の不思議さを厳粛に描きとめる劉生の写実力によって、見る者は、日頃考えてみることもない日常のなかでの存在ということについてじっくりと瞑想させられることになる。そしてとりもなおさず、そこに劉生の魅力がある。1916年11月開催の創土社第3回美術展覧会に出品された。

 

武者小路実篤以降は、代々木・駒沢時代と呼ばれ、「内なる美」=1913ー1917年とされる時代で、劉生の傑作が生まれた時期である。特に「道路と土手と塀(切通之写生)は、劉生の代表作の一つであり、現在重要文化財に指定されていることは、誰しも知る所であるが、今回の展覧会では、もう一つの重要文化財指定作品があることを知った。それは次回に紹介したい。

(本稿は、図録「歿後90年記念 岸田劉生展  2019年」、図録「生誕110年 岸田劉生展  2001年」、図録「岸田吟行・劉生・麗子 知られざる精神の系譜   2014年」、岸田玲子「父 岸田劉生」を参照した)