歿後90年記念  岸田劉生展(2)

岸田劉生は。「内なる美」から「東洋の美」を経て「新しい道」へ、最後は写実の世界へと戻る。その有為転変を巡ることは難しいが、劉生の作品を追って解説してみたい。

晴れた冬の日  油彩・麻布 1917年   千葉県立美術館

大きな屋根のある民家が見える劉生お気に入りの鵠沼の風景である。「晩秋の晴日」、「五月の品道」など移ろい行く季節と共に描いている。道端の木の下に林檎を持つて座りこむ麗子の姿が可愛らしい。

麗子肖像(麗子五歳之像) 油彩・カンヴァス 1918年 東京国立近代美術館

娘の麗子を描いた最初の作品である。麗子は5歳から16歳まで、モデルとして描かれることになる。8月の末に描き始め、予想以上に時間が掛かったというこの作品について劉生は「子供の持っているのは赤まんまと言う秋草です。美しいので僕は好きです。アーチ形の装飾は半分写生ですが略想像でみませんでした。バックは布ですがああいう風にかきました。子供は五つですが感心によくモデルになってくれました」(色摺会報第5号、1918年10月28日)と書いている。画賛には「麗子五歳・父寫す」と書いてあり、創土社第6回美術展(1918)に出品されている。

蓁(しげる) 木炭・チョーク/紙  1918年  愛知県美術館

「青年の首(岡崎精郎氏之顔)」「長十郎氏像」などと並ぶ素描による肖像画。ダ・ヴィンチの素描を意識したような力強い曲線による陰影表現である。1919年に開始される水彩・素描による麗子像・お松像への先駆となる。

麗子坐像  油彩・麻布 1919年      ポーラ美術館

「麗子肖像(麗子五歳之像)」以来の油彩による麗子像である。「要二ケ月」を掛けて、赤と黄の絞りの着物が丹念に執拗に描かれている。モデルとして座る麗子と傍らに置かれた林檎は「実在の神秘」において変わらない。

麦二三寸  油彩・麻布  1920年  三重県立美術館

人間が対峙する自然(草と土)を描いた代々木の風景画から人影は姿を消した。鵠沼の穏やかな農村風景のなかで、再び点景として麗子が描かれるようになる。麦の芽吹き始めた早春、劉生は風景画の制作に「麗子をつれて描き出る」と記している。

重文  麗子微笑(果物持てる) 油彩・麻布  東京国立博物館

 

いつもの綿入の着物にいくつもの肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプト彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術のなかにある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重養文化財2点を受けている画家は、私は知らない)

いくつも綿入れの着物について毛糸の肩掛けを着て微笑する麗子像。モナリザの微笑やエジプト彫刻を想起させる稚拙で艶麗な微笑。田舎風の肩掛けの鄙びた美しさと青い蜜柑を持つ華奢な手の不気味さ。東西両洋の美術のなかにある「深い美」が、いつもの麗子像に宿っている。(この作品が重要文化財に指定されていることは、今回の展示で初めて知った。明治以降の西洋画家で重要文化財2点の指定を受けている画家は、私は知らない)

童女舞姿  油彩・麻布  1924年   大原美術館

劉生は上京区南禅寺寺町草川町41番地の住居で3点の麗子像」を仕上げている。うち1点は鵠沼時代にはじめられ、関東大震災をはさんで京都で制作を続けた「童女図」で、その年の暮れに完成している。「童女舞姿」は京都移住後間もない1923年の10月末に想起され、はじめ岩佐又兵衛筆の女舞姿の図版を参考にして形をとろうとしたがうまくいかなかったため中断し、翌年2月11日から改めて「例の三十号の細い形に麗子の立像をはじめ」、麗子のモデル人形を造り、それに着物を着せて制作するなどの工夫を重ね、3月7日に完成した。当時傾倒していた初期肉筆浮世絵の、劉生の言う「でろり」とした美が、この作品には色濃く表れている。

近藤医学博士之像  油彩・カンヴァス  1925年  神奈川県立美術館

モデルは近藤次繁(東京帝国大学医学部外科手術の教綬で、日本で最初に盲腸手術に成功したことで知られる)は、1923年10月19日、震災で京都に移り住んだ劉生のもとに近藤博士から博士所有の静物、尚蔵などが震災で焼失したとの手紙が届いている。劉生は1921年に近藤博士の肖像を2点描いているため、再度制作するよう依頼を受けたのである。第3回春陽会の開催にあわせて1925年3月15日に京都を発ち、10日から本郷森川町の旅館から大学に通い、20日に完成させている。髭を蓄え勤倹率直そのものといった博士の表情と、その手に持たされた一輪の花との対比がユーモラスである。

冬瓜葡萄図  油彩・字布 1925年  千億博古館

冬瓜が描かれるようになったのは、妻が錦小路で買ってきたことに始まる。これ以降、冬瓜は宗元画風の油彩による静物画の重要な画題となった。大きな冬瓜だけでなはなく、小さな葡萄や茄子が添えられて描かれた。

糖芽庵主人閑居之図  紙本着色  1928年頃  下関市立美術館

この頃の劉生は、宋元画や日本画が多い。しかし、あまり興味もなので、一つだけ見本とて掲載した。圓窓のある書斎の机に頬杖をつく糖芽庵主人劉生の無為の姿である。画賛には「糖芽庵」「冬臥堂」「冬瓜堂」などという自嘲的な言葉も記されている。絵画の創造よりも鑑賞に価値を見出した劉生の孤愁が感じられる。

路傍秋晴  油彩・麻布 1929年     吉野石膏株式会社

南満州鉄道株式会社の招聘により満州に渡ることになり、現地での個展のために、京都での唯一の風景画以来、4年振りに風景画が描かれた。大連の郊外風景に新鮮な感覚を蘇らせたのか、旺盛な制作意欲を見せて、若かりし頃の「初夏の小路」のように、陽光に温まってほっこりとした地面を描いている。若かりし頃の「初夏の小路」のように、陽光に温まってほっこりとした地面を描いている。大連での個展のために、許可を得た場所を実際に描いた風景画である。初期の印象派の鮮やかな美を感じる。

満鉄総裁の庭  油彩・麻布  1929年   ポーラ美術館

この満鉄総裁の庭は、初期の印象派風の鮮やかな「クラッシックの感化」の時と同じように、まさに「東洋の美」を感化を通過して、「新しい予の道」を見つけたことを教えてくれる。故国直後に山口県徳山で急逝した。38歳の生涯であった。

 

劉生の晩年は、宋元風の絵画、日本画となり、馴染みが薄いが、最後の「満鉄総裁の庭」等は、初期の印象派絵画のように若々しい絵画となっている。やはり劉生は、私に取っては洋画の劉生であった。その意味で、最後の「満鉄総裁の庭」は、実に懐かしく見ることが出来た。これが劉生の絵であると思った。

 

(本稿は、図録「歿後九〇年記念 岸田劉生展   2019年」、図録「生誕100年  岸田劉生展   2001年」、図録「岸田吟行・劉生・麗子 知られざる精神の系譜   2014年」を参照し た)