水墨の風  長谷川等伯と雪舟

出光美術館で「水墨の風  長谷川等伯と雪舟」と題する展覧会が7月17日まで開催されている。この副題の「長谷川等伯と雪舟」という言葉に惹き付けられて、この展覧会を見た。しかし、内容は「水墨の風」であり、肝心の雪舟と等伯は、極めて少数の展示であった。そこで、この「美」では、出光美術館にとらわれず、「雪舟と長谷川等伯」の2名に極力絞って(既に東京国立博物館で見た作品を加えた)解説することにする。展覧会の実態である第3章「室町水墨の広がり」、第4章「近世水墨ー狩野派、そして文人派へ」は割愛した。さて、「風」という文字は「かぜ」以外に「ふう」とも読める。この「水墨の風」と言う展覧会は、会場を流れている涼感を「風」(かぜ)になぞらえると同時に、水墨画の「風=様式・姿」に焦点を当てたものでもある。日本の水墨画において、作品はいかにして過去の遺風を受け、いかに創り上げていくのか。この稿では、雪舟(1420~1506)と長谷川等伯(1539~1601)という、日本の水墨画を考える上で外すことの出来ない二人の画家を見ながら、その「風」の生成の様を追っていくことにする。                                   まず、雪舟について簡単に履歴について触れたい。(以下図録の「田中論文」から引用)雪舟は応永2年に備中(岡山県西部)に生まれて、総社の宝福寺で少年時代を過ごし、その後京都の名刹・相国寺で春林周藤について修行し、また絵を周文に学んだとされる。亨徳3年(1454)に周防国(現在の山口県)へと移住する。彼は雪舟等楊(せつしゅうとうよう)と名乗るのも移住後の46歳(1465)以降のことである。当時この地を治めていた大内氏は、大陸との交易によって繁栄を極めており、応仁元年(1469)に雪舟は、この大内氏が主導する第12回遣明使に随行し、文明元年(1469)まで足かけ3年間を中国で過ごした。帰国時の雪舟は数えで50歳であった。当時としてはもはや老境と言っても過言ではない年齢だが、これ以降が我々の知る「雪舟」の画業の始まりである。帰国後の雪舟は大分に滞在し、そこで「天開図画廊」(てんかいとがろう)というアトリエを構えていた。この頃、雪舟は自身の言葉で「水墨の源流は玉澗(ぎょくかん)」としている。玉澗(1180年頃~1270)は、中国の王朝が南宋から元へと交代する激動の時代に活躍した僧侶である。その伝記によれば彼は、務州金華(現在の浙江省金華市)の生まれで、玉澗はその号である。9歳で出家得度し、後に臨安(りんあん)第一の名刹として知られる天台寺院・上天竺寺(じょうてんじくじ)の書紀にまで登った。晩年は故郷の金華に帰り、諸国遍歴によって高められた画才は生前に知れ渡り、その画を求めるものは引きも切らなかったと言われる。玉澗の名は、中国本土よりもむしろ日本において広く知られ、現存する主要な作品は日本に集中している。本展では、この玉澗の作品の中でも特に名品とされる「山市晴嵐図」が出品されている。

重要文化財 山市晴嵐図 玉澗作 紙本墨画 南宋末期~元時代初期 出光美術館

画面の下には、叩きつけるような濃墨のかたまりが三つ。一方その上には、水気をたっぷり含んだ淡墨の盛り上がりがスケッチ風に描かれている。いずれの筆致も「絵画」と呼ぶには荒々しすぎ、紙の上にぶちまけられた墨にしか見えない。しかし、そこには木橋を示す墨線といくつかの人家の屋根、そして荷を担ぐ旅人の姿が配されることによって、山並みに抱かれた里山の情景が燦然と浮かび上がってくる。一見考えなしに紙面に垂らしただけかのような墨の配置も、実は山並みの奥行きを表現するための周到な計算に基づくものであることがわかる。物としての墨が意味を持つ絵となり、抽象が具象へと変容する。このダイナミズムこそ、本作最大の見せどころである。本作は「瀟湘八景」(しょうしょうはちけい)のうち「山市晴嵐」(さんしせいらん)を描くもので、玉瀾画の中でも特に名品として知られる。足利将軍家が所蔵し、もとは八景まとめて一巻仕立てであったものを各景に分断したとされ、現存するものは本作のほかに「遠景帰帆図」(重文、徳川美術館)と「洞庭秋月図」(重文、文化庁)がある。その後本作は、豊臣秀吉、金森可重、松平不昧公など、当代一級の権力者・茶人などの所属を経ている。

重要文化財 平沙落雁図 牧谿作  紙本墨画  南宋時代  出光美術館

画面の右側を見ると葦に生える水辺、そして左側に列をなして飛ぶ雁の群れと、雲間から顔を見せる遠山が描かれる。夕暮れ時のかすみが立ちこめる空間の中にわずかに見出せる景物を、そのはかない印象のままに描き出したかのような情景が、画面に定着している。「平沙落雁」の景を描く本作も、玉澗の「山市晴嵐図」と同じく、もとは巻子巻であったものを、所有者であった足利義満(1358~1408)がお茶席に掛けるために切断し、現在の形になっている。本作の他に「煙寺晩鐘図」(国宝、畠山記念館)、「漁村有照図」(国宝、根津美術館)、「遠帆帰帆図」(重要文化財、京都国立博物館)の三幅の現存が確認されている。本作はその後、豊臣秀吉の手に渡り、以後上杉景勝、徳川秀忠、越前松平家、石野家、佐々木家の所蔵を経た。越前松平家については、松平忠直郷が、大阪夏の陣で大阪方の首級3600余りを数えたが、恩賞は、この「平沙落雁図」と「初花の茶入れ」のみで、加増が無かったことに不満を持ったと伝えられている。      本作の作者牧谿(もっけい)(生没年不詳)は、南宋末から元初の僧で、南宋を代表する禅僧・無準師範(むじゅんしはん、1177~1249)の法嗣として、杭州六通寺を復興したことで知られている。その画作は、日本においては玉澗とともに珍重され、数多くの追随者を生んだ。例えば、長谷川等伯の画作には、その影響が色濃く反映されている。

破墨山水図  雪舟作 賛/景徐周麟  紙本墨画  室町時代 出光美術館

たっぷりと水気を含んだ墨を縦横に走らせ、そこに濃墨で舟と樹木、そして家屋を配し、水辺の里の情景を描き出す水墨画である。筆さばきはあくまでも速く、あちこちに滲み(にじみ)が生じているが、それがかえって水場から立ち上がる湿潤な空気感を見事に表現している。                       本作の様式が玉澗の画法に則ったものであることは言うまでもない。雪舟は、その画歴の全般にわたって玉澗の水墨画を描き続けている。

国宝 破墨山水図(部分) 雪舟作 紙本墨画一福 明応4年(1495)東京国立博物館

上に挙げた「破墨山水図」に比べると、ずっと瀟洒なものになっている。明応4年(1495)の春、修行を終えて別れ行く弟子如水宗淵(じょすいそうえん)に与えたもので、雪舟自身が絵の由来を記している。室町絵画にはきわめて珍しい画師自身の言葉である。禅宗では弟子が一人前になると師の肖像(頂像)(ちんそう)を描かせて、詩(賛)を書いてもらい伝法の証とする。この絵は、雪舟から宗淵に与えたときには、自題の上には広い空白があった。宗淵は京へ上って有名僧の間を巡り、そこに詩を書いてもらう。上二段(この絵は下のみで、上の詩は見えない)の六つの詩がそれである。雪舟と宗淵の子弟関係は、禅宗界中央の高僧たちの詩に詠みこまれて、より権威づけられたものになる訳だ。雪舟も当然それおを意識していた。自題のなかで、雪舟は、中国へ渡った経験など画師としての自負を語っている。弟子に与えた絵の中で、雪舟は自分のアッピールをしているのだ。絵のほうにも雪舟独特の荒々しさがない。五山の禅僧たちを意識して、都風の瀟洒なものにしたのだろう。それが成功して穏やかな墨のトーンのなかに素直に山や霞や岩をイメージすることができる。(本作は、出光美術館に展示されているものでは無い。黒田論文から引用したものである)

布袋・山水図 雪村作  紙本墨画  三幅  室町時代  出光美術館

  

中幅には頭陀袋に乗った布袋が、片手に杖、もう一方に団扇を持ち、にこやかに笑みを浮かべている。そして各福に配されるのは、玉澗様の水墨三水。右幅の画面上には月、または左幅には寺院を表す塔が描きこまれていることからすれば、右幅は「瀟湘八景」の「洞庭秋景」、左幅は「遠寺晩鐘」にも当てはめることが出来る。布袋があおぐ、団扇から生じる風が、両脇の山水へ吹きぬけているかのようにも見える、ユーモラスな三幅対の作品である。雪村(生没年不詳)は、室町時代から戦国時代にあけて、主に関東を中心に活躍した画僧であり、雪舟に私淑したとも言われている。本作においても量感あふれる布袋の描写は見事であるが、とりわけ左右幅に見られる的確な筆墨には、玉澗風に対する雪村の理解の深さをうかがわせる。

重要文化財 四季花鳥図屏風 能阿弥作 四曲一双 紙本墨画 応仁3年(1469)出光美術館

四曲一双という室町時代としては珍しい形式の屏風ながら、両隻を横並びに立ててみると、左右両端と中央に主要な景物を配する、安定感のある構図ができあがる。右隻には松、左右隻にまたがる中央部には蓮、そして左隻左端には枯木と竹を配し、それを背景として叭々鳥、白鷺、燕、鴛鴦、鳩などの禽獣たちが描かれている。鳥たちの楽園ともいうべき空間があらわされている。           画中に描き込まれたモチーフは、いずれも水墨花鳥の典範としてその名をとどろかせた牧谿の画作からの引用であることが指摘されている。まさに「牧谿づくし」ともいうべき作品である。室町時代において典範となる画家の画風は「様」(よう)と呼ばれ、この「様」を忠実に守っているか否かが、絵画の制作、および作品の評価における重要な基準となった。とりわけ「牧谿様」は、こうした基準の頂点に君臨するものであり、後世に至るまで脈々と受け継がれた。長谷川等伯も牧谿様の作品を数多く描いていることは、この基準がいかに強固なものであったのかを如実に物語っている。本作は能阿弥の代表作かつ制作年の判明している最古の水墨花鳥図という点において貴重であり、また制作年、受容者、そして制作動機が判明しているという点においても他に類例を見ない作品である。

竹鶴図屏風(左隻) 長谷川等伯作 六曲一双 紙本墨画 桃山時代 出光美術館

牧谿筆「観音猿鶴図」の鑑賞体験によって描かれた作品である。現在は屏風であるが、紙継や引手跡によって当初は襖であったことが知られる。左隻の竹林を背にして啼く鶴の姿は、牧谿画の鶴図そのままといえるほどである。しかし、本作品にも牧谿にはない解釈がなされている。それは右隻の巣籠りする雌鶴の存在である。牧谿画猿鶴図は筆者の宗教者としての世界観を象徴し、親子間の愛情も描かれているが、等伯画では、雄鶴の雌への愛情も示す解釈が加えられているのだ。番(つがい)間の情愛表現である。牧谿画で解き明かされた自然界の奥行きを表現する深遠なる墨の濃淡表現に、等伯は日本人に親近される光のもつ温もりに共感を寄せ、それを象徴するように動物の温もりを描いてみせたのではないだろうか。本作品中の竹林の墨の諧調の効いた表現は、「松林図屏風」(国宝)の松林の表現に通じると思う。

松に鴉・柳に白鷺図屏風 長谷川等伯作 六曲一双 紙本墨画淡彩 桃山時代 出光美術館

右隻には巨大な松樹があり、その一枝には鴉が巣を作り、母鳥の下には三羽の雛鳥が見える。近くの枝には餌を運んできたのだろうか、父鳥が止まり、さらに雛鳥たちに餌の催促をされているように映る。左隻では雪景色のなか、柳の古木に一羽の白鷺が佇み、さらに一羽の白鷺が飛来しようとしている。番(つがい)の白鷺の情愛の交歓の場のように映る。本作品には鴉一家の愛情と番の白鷺の情愛の交歓という、動物の感性そのものが描かれていることに加え、右隻の中央よりの松樹がもたす構図の不安定感は「松林図屏風」(国宝)に繋がる新しさであることと、水墨画において黒い鳥は叭々鳥に代わり、古来忌避されてきた鴉をその家族愛というテーマに変えて表現した点に、等伯の水墨画制作における清新な意欲を感じる。このような表現における平明さがいかにも近世的であるし、単に牧谿画の模倣に終始しなかった等伯の真面目(しんめんもく)である。さらに上方には「備陽雪舟筆」という署名の痕跡があり、永い間、雪舟の作品と思われてきた。

国宝 松林図屏風 長谷川等伯作 六曲一双紙本墨画 桃山時代 東京国立博物館

遙かに連なる松林を、四つの樹叢(きむら)に象徴させて描く。左隻にはかすかに雪山が見え、冬の到来が真近にせまった晩秋の風景を思わせる。朝霧なのか、暮色なのか、いずれにしても、刻々と表情を変えていく一日のなかのもっともデリケートに移ろいゆく時間の投影である。まもなく光と大気はその色を変え、やがてこの風景は喪失される。そしてそこには風景に寄せる鑑賞者の憧れだけが残るのであろう。藁筆(わらふで)様の筆での表現は、明らかに牧谿画に拠ったものであるし、光への興味の表れは、玉澗画に拠ったものかもしれない。           牧谿画鑑賞体験後、動物の感性そのものを描くことによって、情感表現を志した等伯が到達した情趣表現の極致であることはいうまでもなく、更に言えば、日本人に親近される水墨画の自律を告げる作品でもある。(本作は、出光美術館で展示しているものでは無い)

 

「水墨の風ー長谷川等伯と雪舟」と題する出光美術館の展覧会の、第3章以降は思い切ってカットし、「雪舟」と「等伯」に絞り込んでみた。理由は、絞り込んだ方が、深く掛けることと、美術館で販売している写真が少なく、到底全部を書くことは不可能であると思ったからである。その代り、雪舟、等伯とも、展覧会に陳列されていない屏風を2双出した。この2双は、いずれも国宝であり、東京国立博物館の所蔵である。たまたま、その写真を持っていたので、参考に資するために、展示した。水墨画については、まだまだ勉強する点が多いが、この企画展と図録の田中論文には勉強させられた。篤く御礼申し上げたい。

 

(本稿は、図録「水墨の風ー長谷川等伯と雪舟  2017年」、図録「没後400年 長谷川等伯  2010年」、新潮日本美術文庫「第1 雪舟」、新潮日本美術文庫「第4 長谷川等伯」、安倍龍太郎「等伯 上・下」を参照した)