江戸と北京  18世紀の都市と暮らし

18世紀には江戸の人口は100万人を超え、都市として発達を遂げていたが、北京も清朝の首都として最も繁栄を極めた時代であった。日本と中国には文化交流の長い歴史があり、江戸時代の「鎖国下」においても中国貿易は公認され、長崎を窓口として、文物の交流は続いていた。この展覧会は、18世紀を中心にしたそれぞれの都市の成り立ちや人々の暮らしを比較展観する企画である。私の興味は、ベルリン国立博物館から出品された「熙代勝覧」(きだいしょうらん)を観ることである。この作品は、このブログで書いた「お江戸散歩」の中で、摸作品が三越日本橋店の地下1階の地下鉄沿いに展覧していることに発する。どうしても本物を見たい、しかし、今更この作品だけを見るためにドイツまで出かける体力が無い、時間はあるが経済力が乏しいと考えていたところ、江戸東京博物館で、この「熙代勝覧」と、併せて故宮博物院から乾隆帝80歳の式典を色鮮やかに描いた「乾隆八旬万寿経典図巻」が国外において初公開となり、北京の賑わいと華やかさを伝えると、同時に康熙帝60歳を祝う「万寿盛典」も同時公開されると聞いて何が何でも拝観したと思ったのである。従って、この3図については、出来る限り詳しく調べるが、他の項については、手抜きすることにして1回で書き終わるようにした。なお、日本の美術品は江戸東京博物館の、北京は首都博物館(在北京)の所蔵品であり、例外として故宮博物院とベルリン国立アジア美術館の所蔵品が各1点あるのみである。

乾隆八旬万寿経典図巻(けんりゅうはちじゅんまんじゆきょうてんずかん)清時代故宮博物院

皇帝の誕生日を祝日にしたのは、唐代の玄宗皇帝が初めとされ、千秋節と呼ばれていた。清代では万寿節と称し、元旦、冬至と並ぶ宮廷の三大祝典と定められた。人生の節目とされる60歳、70歳、80歳の祝いはひときわ盛大で、中でも康熙52年(1713)の康熙帝60歳の祝賀は最も華やかであり、文献や絵巻に記録されている。康熙帝の孫である乾隆帝は、80歳を迎えた乾隆55年(1790)は祖父にならった豪華な式典を挙行した。その記録図が、この図巻である。園林の離宮から西直門を経て北京に入り、紫禁城正華門に至る行列を左から右に向けて展開させ、沿道に設けられた舞台や様々な飾り物、行列の見物に訪れた人々を鮮やかに描いている、上下両巻で計130メートル余りとなる。

万寿盛典(まんじゅせいてん)全120巻、康熙56年(1717年)刊清時代

「万寿盛典」は、康熙帝の60歳の誕生祝賀行事を記録した書物で、その巻41,42は図版である。掲載された148枚の図は、つなぎ合わせると一続きの絵になり、長さ50メートル余りにもなる。康熙帝が西郊の離宮・暢春園(ようしゅんえん)から内城にあたる紫禁城に戻るまでの行列と、沿道を彩る装飾や多種の演劇舞台など華やかな慶祝の様子が、忠実に描写され、見物に集まった人々も描かれている。この図面の場合は、左から、店舗、菓子屋、仏具店、香料店、八百屋、仕立屋、煉瓦屋、薬屋、が並んでいる。北京の繁栄の様が見える。この図の構成に注目が集まり、「熙代勝覧」の作成の下絵に参考とされた可能性が高い。

「熙代勝覧」(きだいしょうらん)作者不詳 江戸時代(18世紀)ベルリン国立アジア美術館

東海道の出発点である日本橋と、遥かに富士山を望む、浮世絵の世界である。

日本橋通りの三井越後屋の前である。江戸店(えどだな)でも随一の呉服商である。三井家の越後屋で立看板には「現銀無掛直」(げんきんかけねなし)とある。

神田今川橋から日本橋までの日本橋通りにおける、商家が続く街並みと人々で賑わう様子を詳細に描いている。回向院再建の勧進箱と記される文字から、文化2年(1805年)に描かれたと推察される。文化3年(1806年)の大火で当該地域は焼失しており、それ以前の18世紀後半における日本橋風景が想起される。なお「熙代勝覧」とは「輝ける御世の優れたる景観」の解釈がある。図の中には1700人近い人々や犬、猫などが登場している。この絵はⅠ3年振りの里帰りであり、絶好の機会に見ることができた。全長12メートルの長巻である。図録の末尾に江里口友子氏の”「熙代勝覧」と「万寿盛典」”と題する論文が掲載されており、興味深い見解が述べられているので、最後に紹介したい。

漢装婦嬰図(赤子を抱く漢族の女性)  清時代(18世紀)

北京では、子供が生まれて三日目に来客を迎えて宴席を開き、そして初めて産湯に浸からせる「洗三」(せんさん)や、最初の誕生日に書籍や筆、算盤など様々な品を子供の前に並べ、そこから何を手に取るかで子供の将来を占うという儀礼が行われる。漢族の服装をした女性が、頭頂部で髪を結んだ赤子を抱きかかえる所を描いた絵である。(育てる)

婦女一代鑑 喰初めの図  天保14年(1843) 歌川國定(初代)

子供が生まれて100~120日目には、生涯食べることに困らないようにという親の願いを込めて、小さな祝い膳を用意して食事の真似事をさせる「お喰い染め」が行われた。本資料はこの様子を描いたもので、右上には解説も付されている。なお、愛知・岐阜県では、この「お喰い染め」の習慣は、現在も残っている。(育てる)

過年新都(正月用吉祥画)   清時代(18世紀)     (歳時)

18世紀の北京では、満州族や漢族のほか蒙古、チベット、イスラム系民族など多くの民族が集住し、異文化の受容と融合が進み、より多彩で特徴的な風習が育った。この絵は、新年を祝うために、門口や屋内の壁に飾られる版画で、門神とともに年越しの必需品であった。明代以降、木版印刷によって大量生産されるようになり、鮮やかに彩色した木版年画も多く作られた。福寿や富貴を祈願する画、神話伝説・民間故事など見て楽しむ画、さらに子女を教育する画など幅広い題材を取り扱って、富裕層から庶民まで親しまれた。本資料には大晦日に家族団欒で、神や先祖を拝んだり、餃子を作ったりして愉しむ様子が描かれている。

「十二ケ月絵巻」正月の風景  英一峰作   江戸中期   (歳時)

十二ケ月の行事と風景を描いた絵巻のうち正月の場面である。画面左上の門には角松と正月飾りが備えられ、その横に裃を付けた男性が立つ。彼はおそらく年礼(年始の挨拶)に訪れたとみえ、お供の人物から年賀の品である年玉を手渡されている。左下には、正月の遊びに興じる子供達も描かれている。

天中五毒献瑞図(端午の節句に掛ける絵)  新時代(18世紀)  (歳時)

「天中」とは端午の節句のことで、五毒はその時期に活発になり、毒を持つとされるサソリ、蛇、ムカデ、ガマ、ヤモリの五種の生き物を指す。中心には五毒を避ける力がある虎が描かれており、端午の節句には厄除けのためにこうした絵を掛けた。また絵の中には五毒以外に、様々な旬の果物も描かれている。

五毒肚兜(端午の節句用腹掛け)  清時代         (歳時)

黒地に花、真中に虎、そしてその周りにサソリ、蛇、ムカデ、ガマ、ヤモリの五毒が刺繍された子供用の腹掛けである。5月になると活発になる五毒に対抗するため、子供にはこうした刺繍の施された腹掛けを着せた。

「江戸名所百景」水道橋駿河台  歌川広重作  安政4年(1857)

歌川広重は人気絶頂の浮世絵師であり、北斎を凌ぐ人気を博していた。五月五日の端午の節句は、男児の節句であるという考え方で、武家社会であった江戸時代には特に尊ばれた。この日は邪を払うとされる菖蒲や蓬を身に付けたり、屋根に掛けたりしたほか、酒に菖蒲をいれて菖蒲酒も飲まれた。現代では、菖蒲をお風呂に入れる習慣として残っている。鯉登りを庭先に立てて、子供の立身出世を願った。

 

いろんな歳時は、中国からわが国に輸入され、同じ歳時が、夫々独得に発達したのである。さて、「熙代勝覧」について、図録の巻末に江里口友子氏の”似てて、違って、おもしろい。「熙代勝覧」と「万寿盛典」”という優れた論文があるので、出来るだけ簡潔に触れたい。巻頭の題字「熙代勝覧」は書家・佐野東州の揮毫で、「熙(かがや)ける御代の優れたる景観」と解される。「万寿盛典」は、清朝の全盛期の基礎を築いた康熙帝(こうきてい)の60歳を祝し、帝の詩文や事績、祝賀行事などを詳細に記録した書籍で、康熙56年(1717年)に刊行された。全120巻のうち巻41,42は帝の行列と沿道の祝賀の様子を描いた版画であり、延べ50メートル余の絵巻になる。「熙代勝覧」には落款がなく、絵師は不明である。候補として、巻頭の題字を書いた佐野東州の娘婿が山東供山であったことなどから、その兄の戯作者で絵師でもあった山東京殿(さんとうきょうでん)の説、また絵の作風から勝川春英の説があるが、確定には至っていない。山東京伝は考証学者の一面も持ち、江戸の街頭風景を画文で表した「四季の交加(こうが)」を出版していることから企画者としても考えられている。特に「四季の交加」には「熙代勝覧」と類似する構図が幾つかあることが知られている。「万寿盛典」を参考にした場合、「熙代勝覧」の絵師が実見する機会はあったのであろうか。絵師ではないが、山東京伝の周辺で「万寿盛典」を実見した可能性が高い人物がいる。戯作者で狂歌師の太田南畝(おおたなんぽ)である。南畝は1794年、学問吟味でお目見得以下の主席になり、1801年1月に大阪銅座御用の命を受け、1801年3月11日から1802年3月21日までの約1年間、大阪南本町五丁目の宿舎に滞在していた。その際、「唐土名所図会」の企画者である木村兼葭堂(けんかどう)と頻繁に往来し、1801年6月から翌年1月の間に数回面会したことが「兼葭堂日記」に記されている。兼葭堂は書斎名で、大阪北堀江で酒造業を営んでいた。本草学・物産学を学び、絵画・詩文に長じて様々な器物や書籍類を収集し、出版も行う多芸多才な人物であった。彼のコレクションと知識の広さは、全国に知れ渡り、各地から情報取集や蔵書閲覧を求めて多くの者が集まった。(伊藤若冲も木村兼葭堂と旧知の間柄であった)2万巻に及ぶ蔵書は、1802年に没すると、蔵書の多くは幕府の命により、翌年、下賜金と引き換えに昌平坂学問所に収められた。大田南畝が兼葭堂から情報を得て「唐土名勝図会」編集に用いられていた「万寿盛典」を閲覧した可能性は高い。ところが、その頃、新たな「万寿盛典」の入荷があった。その情報は、南畝の記録に見られる。南畝は1804年から2年間、長崎奉行所の配下として長崎に勤務する。彼は長崎で見聞した唐船の書籍や海外からの新奇な情報、様々な書画などを自著の「瓊蒲又綴」(けいほゆうてつ)等に記録している。「瓊蒲雑綴 巻上」には、1805年1月24日から31日頃の間に清から長崎に入港した中国船の積荷書籍中に「万寿盛典初集」があったこと記されている。南畝が入手することは不可能であっただろう。南畝が連絡して入手させた可能性も想定できる。積み荷の到着した文化2年(1805)1月下旬からほどなく、「熙代勝覧」制作の関係者が「万寿盛典」を入手したと仮定した場合、絵巻の作業工程から判断して「熙代勝覧」の完成は早くても文化3年(1806)以降と推察される。「熙代勝覧」の駿河台町の場面には、回向院本堂再建勧進者の後に付き従っている男性の担ぐ木箱に「文化二年」の銘が記されている。文化3年(1806)3月4日の大火(丙寅大火)で焼失した江戸の街に対するオマージュを込めて、繁栄していた焼失前の姿であることを暗に示すために、この紀念銘は書き込まれたとも考えられる。この文化二年の書き込みから判断して、少なくとも下絵の準備は文化2年(1805)になされており、完成への実際の作画は多少遅れてたとの指摘もある。想像を逞しくすることが許されるならば、「熙代勝覧」の構想を結実させることが出来た大きな要素である「万寿盛典」を、発注者が入手した記念すべき年、あるいは構想が調った年を記したものとは考えられまいか。「熙代勝覧」には、徳川幕府の治世と江戸の繁栄を紀念し、かつ祈念する意も込められて、「熙代」の文字が用いられたに相違ない。このように、それぞれの都市の18世紀の繁栄を描きとどめた「熙代勝覧」と「万寿盛典」は、様々な情報を未来の私たちに伝え、その輝きは未だに精彩を放ち続けている。

さて、私は「お江戸散歩」で思いがけない絵巻「熙代勝覧」に出会い、何とか「本物」を拝見したいと考え続け、思い続けたが、今回、予想外に「熙代勝覧」と「万寿盛典」に接することができ、この半年間思い続けた夢が適った。ただし、「江戸と北京」という展覧会の紹介はかなり省略したことになったが、何分にも「熙代勝覧」を詳しく知りたいとの思いが、すべてを決し、最後には江里口友子さんの論文の要領をまるきり写した感じのまとめとなったが、お許しを戴きたい。

 

(本稿は、図録「江戸と北京 18世紀の都市と暮らし 2017年」、伊藤康広「伊籐若冲」、日本橋保存会「熙代勝覧  パンフレット」を参照しした)