江戸名所図屏風と都市の華やぎ

出光美術館で、「江戸名所図屏風と都市の華やぎ」が開催されている。京都の街では洛中洛外図や祇園祭礼図屏風を見る機会は多いが、江戸の華やかな名所図屏風は見たことが無い。勿論、浮世絵の世界で、江戸の華やかさは度々見る機会に恵まれているが、江戸の都市図屏風は見たことがなかったので、非常に興味を持って拝観した。結果は予想以上に華やかな江戸の風景や風俗を描いた屏風図で、江戸情緒を堪能する機会となった。ただ、いずれも長巻で、全部を紹介できない事例が多いので、場合によっては左隻の半分というような紹介にせざるを得ない事例も多々あるので、ご了承願いたい。

重文 江戸名所図屏風 右隻の一部  八曲一双 江戸時代  出光美術館

この絵巻は、江戸創世期の姿を捉えた貴重な作品である。右隻に1000人、左隻(絵としては見せていない)に約1200人もの人物を描き込んで織り成された江戸都市生活の熱気が見所である。では、右隻の半分について解説する。、向って右隻の第1扇から第二扇の上の部分には寛永寺の伽藍が広がり、参詣者が多数集まっている。寛永寺は、山号も「東の比叡山」という意味で東叡山ともいう。境内には寛永8年(1631)に建てられた五重塔がそびえる。隣には東照宮が建ち、その傍らには大きな大きな不忍池がゆたかな水をたたえている。下から見ると、隅田川が流れている。東の方へ歩いてみると、対岸の向島をのぞみつつ進むと、浅草寺の立派な伽藍が見えてくる。浅草寺は江戸でも最も古い寺院であり、建てられたのは推古36年(628)と伝えられている。浅草寺は寛永8年と同9年(1642)に火事で多くの建物を失った際にも、幕府の援助を得て復興を遂げている。火災で焼け落ちた三重塔は、慶安4年(1648)に五重塔に建て替わっているので、この絵の伽藍はその時のままの様子を伝えることになる。浅草寺に近づくと、威勢の良い声が聞こえてくる。境内は、江戸の初夏を彩る三社祭の真っ最中である。お祭りの行列を逆流すると剣鋒の後ろに獅子舞やおたふく、母衣武者、山伏などの華やかな衣装が続いている。浅草橋に近づくと、三基の御神輿が陸揚げされるところである。ここで江戸の総鎮守府・神田明神を目指して西へ向かうと、横長の建物が目に入る。これは浅草寺にも、京都に倣って三十三間堂が建っていた。完成したのは寛永20年(1643)。その後元禄11年(1698)に火事で失った。この絵が描かれたのは寛永20年(1643)頃と推測される。神田明神に立寄ってみると、境内に設けられた舞台で、神事能が演じらられている。境内は観客でごった返しである。

重文 江戸名所図屏風 左隻一部 八曲一双屏風 江戸時代  出光美術館

まず天守閣がそびえているのが目に飛び込んでくる。この城の造営はすでに長禄元年(1457)大田道灌の手で成し遂げられていたが、それを再整備・拡張したのが徳川家康である。五層の天守は慶長11年(1606)以降、寛永15年(1638)までの間に三度行われた造営を経たものである。この威厳あふれる天守は、城のその他の建物もろとも、明暦3年(1657)の大火災によって焼け落ちてしまう。その後天守が復興されることは二度となかった。江戸城天守の眼下には中橋までの通りの左右に商店が並んでいる。扇家や繰糸屋など、幾つかの業種が17世紀前半の「色音論」という仮名草子と共通して記されている。霊願島に渡ると、第1扇から第2扇の下に立派な屋敷が見えてくる。幕府の海の仕事をつかさどった向井将監の上屋敷である。その近くの水辺では、華やかな舟遊びが広げられている。舟の上では、音楽を楽しんだり、酒杯を傾けたりして楽しそうな男女の姿が見える。舟には向井将監邸で見た下り藤の紋が見える。舟上の男性は向井家の誰かであろう。更に南に進むと、芝居小屋が立ち並ぶ木挽町に出た。画面の下半分の広大なスペースを使って展開された遊興の空間である。まずは歌舞伎の小屋で、正保元年(1644)にオープンして間もない山村座と思われる。これは若衆と呼ばれる美少年たちのヘアスタイル。彼らが演じる歌舞伎は若衆歌舞伎と言い、遊女による女歌舞伎が禁止された寛永6年(1629)ころ以降に流行した。隣の小屋では操り浄瑠璃が演じられており、悲劇に涙を拭う観客の姿もあるが、芝居そっちのけで煙草をすったり、酒杯を傾ける人たちもいる。江戸時代の遊楽の様を生き生きと写した素晴らしい絵巻である。

江戸名所遊楽図屏風  六曲一双 江戸時代       細見美術館

金雲によって画面が六つの領域に区画された中型の屏風には、賑やかな江戸の様子が写されている。最も大きなスペースを取られているのは浅草寺の伽藍である。観音堂には参拝者が集まり、境内では三重塔のそばに軽業や鉦叩きの姿も見える。仁王門の前では、講釈師が小銭を募り、女性がでんでん太鼓を商う様子が見える。茶屋が軒を並べる参道では駕籠や馬に乗った武士が進む。その下の区画は右から吉原の座敷、「釣針」と「鐘引」の演目と思われる人形浄瑠璃の小屋、歌舞伎の舞台と場外の喧嘩に当てられる。画面右上には数隻の舟を浮かべた隅田川、左上の空間に描かれるのは、木母寺と梅若塚と目される。浅草寺の伽藍の様子は、五重塔が造営され始める寛永12年(1635)以前のもので、「茶屋遊び」が演じられる歌舞伎も寛永6年(1625)に禁じられる女歌舞伎であることから、窺える年代は西暦1630年頃と推定さえれる。

江戸風俗図屏風 六曲一双  紙本着色  江戸時代  出光美術館

向って右隻の中央には浅草寺の観音堂が大きく配され、多くの参拝者でにぎわっている。その右手奥には、新吉原の遊女町と揚屋の情景が広がり、金雲で区画された空間では喧嘩、さらに手前のスペースには縫物屋、織物屋、指物屋、加羅油商、蹴鞠所が軒を連ねる。浅草寺仁王門向かって左には色茶屋が並び往来を武家の女性の行列や獅子舞などがゆく。その上方の右側には竹矢来のなかで相撲に興じる人々の姿が描かれる。金雲を隔てた左側には馬場がしつらえられ、馬にまたがった武士たちが手綱を取る。この絵の画家は、先行する菱川師宣(?~1694)の絵本をもとに、舟遊びの場面などを仕上げたらしい。ただし、その筆者を特定するのは難しく、かつ屏風の左右で描き方が異なることも、さらに問題を複雑にしている。

阿国歌舞伎図屏風  六曲一双  紙本着色  桃山時代  出光美術館

出雲の阿国が、北野社頭を舞台にして新たな芸能を興したのは、慶長8年(1603)の春のことだった。「当代記」は、阿国のいでたちを「縦ば威風なる男のまねをして、刀脇差衣装以下、殊異相也」と記録している。彼女がまねたのは、戦後の満たされない欲求を奇抜な服装や行動で満たすほかない若者たち、すなわちかぶき者の姿であった。それゆえ、阿国の演芸は歌舞伎踊りと呼ばれる。この屏風絵は金雲の切れ間に北野社の八棟造りの屋根を隠顕させ、阿国扮するかぶき者と茶屋の女性との痴戯を題材とした演目「茶屋遊び」を描く。この絵は、阿国歌舞伎を描いた屏風絵のなかでも、最も古い部類に属する。役者の後方に坐す囃し方はわずか三人で謡座を伴わず、歌舞伎踊の原初的な演芸を伝えている。絵画としての本図の魅力は、樹木や人物の奔放な表現にあるだろう。この古びた色は、桃山時代まで遡るものであろう。

阿国歌舞伎図屏風 六曲一双 紙本金色  江戸時代    出光美術館

この屏風絵は、上の屏風絵に比較して新しい。お国が頭に鉢巻をつけること、また猿若が手に籠形の被り物を下げることが、いずれも前者から年代を下降させる材料である。描いたのは狩野派の技量を身に付けた画家であろう。前者に比較すれば、色も新しい。

歌舞伎・花鳥図屏風 六曲一双  紙本金地着色  江戸時代  出光美術館

高さ1尺余りのごく小さな画面に細密に描かれるのは、歌舞伎踊りである。「茶屋遊び」の演目を描いたものとして知られる。しかし、演じているのは阿国ではなく、阿国を模倣した遊女であることは、後坐と橋掛りに数人の禿(遊女に付き従う少女)を伴うことや舞台に三味線が描かれること等からも明らかである。左隻には(絵画は付いていない)若衆歌舞伎が描かれている。寛永6年(1629)女歌舞伎禁止令以降に流行を見せるのが若衆歌舞伎である。この屏風のように、異種の歌舞伎図が1双に分けられて描き分けられた例は、極めて珍しい。こうした組み合わせが同時並行していた寛永年間(1624~43)後期の実情であったかも知れない。左右の画面の両端に巨樹を据えるのは、近世初期の狩野派の規範的な構成である。かって幕末から明治に活躍した政治家・井上薫が所有していたものである。

遊里風俗図 菱川師宣筆 絹本着色 寛文12年(1672)出光美術館

激しく折れ曲がる樹木が巻頭に描かれ、遊里の奥座敷と思われる屋内では、華やかな歌舞伎や酒宴が繰り広げられている。向かって右端の火鉢の側では抱き合う男女の様子までもが捉えられ、画面全体が享楽的な気分に満たされる。縁先に降りて、雪合戦に興じる人物も見える。画面の末尾に寛文12年(1672)の年紀をともない、師宣の肉筆画の仕事を考える上で、最も重要な作品の一つである。

吉原遊興図屏風(右隻) 菱川師重作 紙本着色  江戸時代  出光美術館

一双屏風の右から左へ視線を動かすと、隅田川を上がって吉原の往来を通過し、奥の座敷へと情景が変わってゆく。その画面構成は、巻子に装われた江戸景観図を見るかのようである。ただし、画家の大きな関心は左隻の(写されていない)第4編から第6編にわたって描かれる室内の描写に置かれており、それがこの絵を特徴づけている。各扇が一枚づつでも観照に堪えるかのように独立する傾向は、屋内の情景に限らず、それ以外にも当てはまる、この絵の筆者は菱川師宣の門人・師重と伝わる。

 

新興都市・江戸の名所図会、風俗図等約10点を通して、江戸の持つ賑やかな歓楽街や遊里など、新規都市の活気を感じる展覧会であった。いずれの名所図屏風は長く、右隻の一部とか、全体が見せられないものとなったが、図録では、実に細かく、各扇の1枚、1枚を拡大した写真が付き、今に残る江戸風情を感じさせるものがある。江戸と言えば、浮世絵であるが、このような屏風類は、多分、豪商、上層武士階級の持物であったろう。保管状態も良い。一見の価値はある。

 

(本稿は、図録「江度名所図譜屏風と都市の華やぎ   2018年」、図録「美の祝典  2016年」を参照した)