没後50年  藤田嗣治展(1)  家族・パリ

藤田嗣治(1886~1968)は、明治19年(1886)に東京牛込区(現在新宿区)に生まれた。父藤田嗣章(つぐあき)は医師で、後に森鴎外の後を受けて陸軍中将軍医総監を勤めた人であり、国を担う見識と格調を備えた明治人であった。母藤田政は旧幕臣小栗信の次女であり、嗣治は次男として生まれた。西洋で言うならば格式を備えたブルジョアの家庭に育ったのである。画家への道を進みたという嗣治の希望が許可されたのは、彼が次男であったからだろう。藤田は1905年に東京美術学校西洋画科に入学した。これに関しては森鴎外の助言があったと伝えられる。美術学校においては、主任教授とも言うべき黒田清輝の「外光派」理論にはそりが合わなかったと自ら記している。藤田は1910年、23歳で美術学校を卒業、1912年、26歳の年に鴇田登美子(ときたとみこ)と結婚したが、これは恋愛結婚であったそうである。そして藤田は1913年にパリへ単身で渡仏した。藤田がパリに渡ったのは1913年であるが、当地の美術学校には入学していない。彼は、パリのモンパルナスの家に下宿するが、ここに住んでいたモデリィアーニとスーチンに合い意気投合した。彼らに連れられてピカソの家を訪れ、いきなりピカソの立体派、アンリ・ルソーの傑作を見せられたと言っている。アンリ・ルソーは「ピカソ君、われわれ二人は現代における最大の芸術家だ。君はエジプト風で、僕は現代風だけど」と、この偉大な日曜画家アンリ・ルソーがピカソに語ったとされる言葉と合せて、当時のパリ画壇の混乱状態を証言するものであろう。「印象やポスト印象派」の時代は去り、黒田の外光派は、今や時代遅れであった。1914年8月には第一時世界大戦が始まったが、日本大使館の避難勧告にもかかわらず藤田はパリに留まった。大戦によって日本からの送金が途絶えた。帰国を促す父に対し藤田は自立の決意を固めた。大戦中の藤田は立体的な絵を約3000枚を描き、デッサンを500枚描きためたが、殆ど暖を取るために燃やしてしまったと述べている。今回は、この展覧会を4回に別け、連載したいと思う。最初は「家族とパリ」で、日本に残された家族の絵と、渡仏初期のフランスでの絵画を紹介したい。

婦人像  油彩・カンヴァス    1909年   東京芸術大学

花瓶や壺の置かれた部屋で、ゆっくりとポーズを取る着物姿の若い女性像である。画面左上には「1909年5月」と記されており、東京美術学校在学中の作品と分かる。藤田が学んだ黒田の「外光派」風の教育の跡が濃い作品である。当時は、いわゆる「外光派」風の教育だった。日本では「紫派」とも呼ばれたように、影を黒色ではなく青みがかかった紫色で描くというのが大きな特徴である。モデルは不明であるが、最初の妻となる鴇田登美子(ときだとみこ)に面立ちが似ている。二人は1909年の夏頃に出会ったと言われている。この作品を長く所蔵されていた方によれば、描かれているこの女性は「藤田の初恋いの人で、親の反対を受けて、駆け落ちした相手」と伝わっているとのことである。藤田と登美子の場合、実際には駆け落ちはしなかったものの両家の反対は強かったそうである。従って、モデルは登美子ではなく「初恋の人」「駆け落ちの相手」と伝わってきたのは、二人が正式には入籍していなかった点かも知れない。出逢って間もない微妙な距離感や、すぐに彼女に夢中になっていたという藤田の高揚感も手伝っているように思える。

父の姿  油彩・カンヴァス   1909年   東京芸術大学

東京美術学校在学中に描いた父の肖像である。父・嗣章は、軍医として台湾や朝鮮などの衛生行政に尽力し、後に陸軍軍医の最高職である陸軍軍医総監となった。藤田は成人してからも、父との間には、ある一定の距離を感じていたというが、画家になる夢を認め、画家修行やパリ留学の資金を援助してくれた父に、生涯に渡り感謝の念と崇拝の念を抱いていた。

トランプ占いの女  水彩・紙   1914年    徳島県立近代美術館

当時パリに留学していた日本人画家の多くは、キュビズムには興味を示さず、印象派やポスト印象派に学ぼうとしていた。藤田がパリに到着した1913年、美術界の中心と言えばキュビズムであったが、そんな中、キュビズムに敏感に反応した藤田の姿勢は極めて先進的であった。きっかけはピカソとの出逢いだと言われる。当時の藤田の描いた絵は殆ど残っていない。この絵は、赤い服の女性がスカートの上にトランプを重ねていく姿で、頬杖をついた左手を下げ、右手へとトランプを渡し、さらに膝の上へとトランプを置いていく姿が、コマ送りのように描かれている。じっと考え込むような表情で頬杖をついたいた女性が、おもむろに手だけ動かしトランプを重ね始める、そんな占いの様子も想像される。未来派などキュビズムの手法を取り入れた画家たちが注目していた、「動き」の表現に藤田も関心を持ったのであろう。

巴里城門   油彩・カンヴァス   1914年   ポーラ美術館

1910年代末にえがかれる、パリ周辺の風景画の原型となった作品である。第一時世界大戦後の開発により大きく変貌を遂げる前の、城門跡のうら寂しい風景を忠実に捉えている。藤田が一度売却した後、1932年に旅先のアルゼンチンで発見して買い戻した経緯や「最初の快心の作」であったことが、カンバスの裏面に記されている。

モンルージュmパリ  油彩・カンヴァス    1918年 静岡県立美術館

この絵はヴァンプ門より1・5キロほど西のオルレアン門を出たあたりで、青空も高く心地よい景色である。木々の緑、道を行く女性の赤い上着など、色彩も画面に温かさを加えている。遠くに見える煙突や、柵、低い塀など、「パリ風景」と共通するモチーフも多い。穏やかな情景の中にも、城壁近くのうらぶれた寂しさを漂わせている。他の画家が目を向けなかった風景を描いたことに対し、後に本人は「自分も貧乏していたから、貧乏人の家ばかり描いた」「寂しい風景が自分の境遇そのものだった」などと語っている。

二人の女  油彩・カンヴァス  1918年  北海道立近代美術館

親密に寄り添い並ぶ二人の女性像。身体は縦に引き伸ばしたような表現やメランコリックな表情には、当時、藤田と親交のあったモデイリアーニの影響が窺える。描かれているのはモデイリアーニの画商ズボロフスキーの妻、ハンカ・ズボロフスカ(画面左)と、モディリアーニが重用したモデル、ルニア・チェフスカ(右)ではないかと考えられている。当時の、藤田の交友関係が反映されている。また、モデル達の首の長いのもモディリアーニの影響かも知れない。エコールド・パリの時代の絵画である。

私の部屋、目覚まし時計のある静物 油彩・カンヴァス 1921年 ポンピドー・センター

この作品は、1921年のサロン・ドートンヌに出品され好評を博した。藤田の代表作の一つである。この作品に対しては、評論家ジャン・セルツは「彼の芸術の最も完成された形を示している」と讃え、メルキュール・ド・フランス誌には次のように評された。「フジタは彼の技巧で絵の極限を示そうとしているように思われる。壁際の陶器の像はまさしく陶器そのものであり繊細な影が壁に巧みに投影されている」。乳白色の肌と精緻なデッサンの作品は、それまでの洋画にはない斬新で不思議な魅力でパリ画壇の人々を捉えていたことが分かる。藤田は故郷に錦を飾る思いで、パリから日本に帰る画家・和田栄作に作品を託した。ところが帝展審査員は藤田が日本ではまだ無名であることを理由に一般出品作品と同じ扱いで審査しようとしたのである。怒った父嗣章が帝展幹部に出品撤回の申し入れるという強硬な手段をとったことで解決し、出品されたものの、ほとんど注目されなかった。黒田清輝の外光派を熱狂的に受け入れた日本の美術界は藤田の作品に冷淡だった。美術評論家の森口多里は、帝展の反響を次のように記している。「この作品一点だけでは反響を呼ぶに至らなかった。人は唯、珍しい舶来品のように眺めた」パリでの成功の後、初めての日本美術界への「凱旋」は藤田の意に反して惨憺たる結果に終わった。私は、藤田の一代の傑作であると思う。

自画像  油彩・カンヴァス 1921年    ベルギー王立美術館

渡仏後、最初期の自画像である。モンパルナス、ヂランブル通りのガレージを転用したアトリエの白い壁を背に、虚ろな表情で座る藤田。後に描かれる自信に満ちた表情の自画像と異なり、物憂さをたたえたその様は、画家の内省的な一面を感じさせる。1921年のサロン・ドートンヌ出品の1点で、翌年ベルギー王立美術館に購入され、美術館収蔵作品第1号となった。

人形を抱く少女 油彩・カンヴァス  1923年  群馬県立美術館

 

1920年代の始めから乳白色の下地を生かした作品を立て続けにサロンに出品し、名声を得た藤田のもとには、次第に肖像画の注文が集まるようになっていた。本作もそうしたものの一つと考えられるが、比較的早い例である。画家として名を上げる以前に、子供、特に、少女をモデルにしたこの注文は腕のふるい甲斐のあるものだったろう。

ヴァイオリンを持つ子供  油彩・カンヴァス  1923年 群馬県立美術館

服飾デザイナー、マチュー=レヴィ夫人の息子ワグネルの肖像である。1920年代以降、藤田はパリの上流階級から肖像画の依頼を受けるようになった。夫人のアパートはインテリアルデザイナーのアイリーン・グレイによるモダーンな室内装飾で知られ、藤田とも交流の深かった日本人漆作家・菅原清造に教えを受けたと言う漆を使った壁が本作の背景のモチーフとなったと思われる。

 

藤田の画家としての出発点であった東京芸術大学に残された「婦人像」と「父の像」は思いがけない発見であった。パリ初期の「巴里城門」「モンルージュ、パリ」はいずれも暗い感じのする初期作品であるが、現在殆ど残っていないとされる中、貴重な作品例である。私は、「藤田嗣治展」を計4回見ている。最初は1988年「生誕120年 藤田嗣治展:パリを魅了した異邦人」、2013年「レオナール・フジタ展ーポーラ美術館コレクションを中心に」、2016年「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画」、2018年「没後50年 藤田嗣治展」の4回である。その中で一番充実していたのは、今回の「没後50年 藤田嗣治展」であった。今までにない貴重な作品126点を日本は元より、フランスの美術館等世界中から集めて、素晴らしい展覧会であった。また図録を見比べてみたが、今回の図録は、筆者には高橋秀爾氏、美術館長、美術史家2名、パリ近代美術館 統括監督官等実に多彩な人材を揃え、読了するだけでも丸1日掛るほどの力作であった。展示された作品の多さ、質の高さは言うまでも無く、図録の質の高さも群を抜いて素晴らしい出来栄えであった。近年、藤田嗣治氏に対する日本人の評価も高まり、戦争直後の「戦犯扱い」はさすがに無くなり、正確に藤田氏を評価する時代になった。換言すれば、亡くなってから50年も経って、やっと「故人」の評価が定まるという事実に驚くと同時に日本人の国際性の無さに驚く次第である。

 

(本稿は、図録「没後50年  藤田初嗣展  2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」、藤田嗣治「腕一本」、「巴里の横顔」を参照した)