没後50年 藤田嗣治展(3)旅する画家・戦争画

藤田が16年振りに日本に帰国するのは1929年9月のことである。藤田自身の後の回想によれば老齢となった父親(当時70代半ば)と再会を果たし、親不孝を侘びるためというのが理由とされているが、当時生活を共にしていたユキによれば、この帰国は日本での個展の開催と作品の売却を目的にしたものだったと言う。帰国の直前、藤田は過去の税金の滞納を告発され、膨大な額の税金を納める必要に迫られ、その金策のための帰国だったというのである。藤田としては、画家としてのこれまでの歩みと作品に対する自らの思いをはっきり日本で伝える必要があったのであろう。帰国を記念して東京で開催された二つの展覧会は、大成功に終わり、父・嗣章と故郷の熊本やかっての赴任地、朝鮮にまで旅行し、念願の親孝行も果たした。アメリカ、パリ等で個展を開催しており、1929年10月に世界大恐慌が起こり、早くも翌年にはその影響がヨーロッパやアジアに及んだ。藤田と共に生活する女性もユキからマドレーヌ、そして堀内君代と変わっていく。私生活のめまぐるしい変化は、当然彼の作風にも少なからぬ影響を与える。1931年秋、20年近く続いたパリでの暮らしを放棄し、あらたにマドレーヌを連れて中南米に旅立った。そこから約2年にわたり、各地を旅し、現地制作して展示・販売する「旅絵師」のような日々を続け中南米や日本、沖縄、中国大陸、アジア諸国を移動し、エコールド・パリ時代の作風とはガラリと変わった絵画に変化した。本稿では、主として日本、沖縄の各地で描いた絵画を中心に紹介する。

自画像  油彩・カンヴァス  1936年   平野政吉美術財団

和服姿の藤田が食後に寛いでいる場所は四谷左衛門町の日本家屋である。高田の馬場にあったメキシコ風のアトリエを出て、麹町に新築した数寄屋風の家に移るまでの、仮住まいの様子である。猫を懐に入れた彼の周囲には角火鉢、裁縫箱や櫃のような「下町の江戸」を感じさせる品で満たされている。背景にある茶道具文様の布は彼の取集品で、現存する。1936年第23回二科展出品作である。如何にも寛いだ自画像である。前年6月にマドレーヌが急死した後、藤田は水戸出身の堀内君代と再婚した。伴侶がフランス人から日本人にかったのに合わせるように、その生活も純日本的なものへ変化した。

ちんどんや 職人と女性  水彩・紙  1934年  神奈川県立近代美術館

次の2点も、1934年に二科展別棟陳列室に並べられた作品である。これを見た批評家は鋭く「藤田は転機を迎えている」と指摘している。1920年代のパリの成功があまりにも華々しく、そのスタイルがあまりにも独自かつ完成されたものであったために、それを乗り越えようとするには相当の時間と努力を必要としたに違いない。

魚河岸  水彩・紙  1934年    下関市立美術館

魚河岸にえがかれている若者の、豆絞りの手拭いに腹巻、兵児帯に長靴という典型的ないでたちは、当節では実際にほとんど目にすることがないと批判されている。20年近くも外国暮しをしており日本に戻ってきた藤田が、外国人のような視点で日本の風俗を眺めていることは不自然ではない。関東大震災を経験し東京は、街並みが大きく変わっており、江戸っ子の藤田にはそれ以前の風俗を懐かしむような気持ちがあったに違いない。当初、この日本滞在が長期に及ぶとは思っていなかった彼は、日本で描いた作品をヨーロッパに持ち帰り、異国趣味豊かな商品として売りさばくことを考えていたのかもしれない。

夏の漁村 房州太海  油彩・カンヴァス  1937年  千葉市美術館

房州太海は、現在の地名では千葉県鴨川市にあり、安房の東側、太平洋に面する外房の海岸の一つである。かって安井曽太郎もここを訪れて風景画を制作したことで知られ、藤田も実地に画架を立てて制作したと見られる。藤田の父である陸軍軍医の嗣章は安房国長尾藩の家老を勤めた藤田家の出身であり、房州は藤田に縁の深い土地だった。

秋田の娘  油彩・カンヴァス  1937年  下関市立美術館

1936年、秋田の平野政吉から秋田を描く大壁画の制作を依頼された藤田は、現地の風俗を取材し、翌年「秋田の行事」(壁画)を完成させた。藤田は秋田の女性の古風な服装や恥じらいがちな表情に、ロシアやシベリアの娘に通ずるものを感じていた。

客人(糸満)  油彩・カンヴァス  1938年  平野政吉美術財団

1938年4月から5月にかけて、藤田は約3週間ほど沖縄に旅行した。4歳から12歳まで熊本で過ごした藤田に取って、沖縄は近くて遠い憧れの地であり随筆の中でも沖縄の言葉づかいが「熊本当たりの古風さと相類して懐かしさが増す」と、感想を綴っている。初めて訪れた沖縄の自然、風土、生活習慣など一つ一つ新鮮な反応を示しながら、藤田によって最も印象に残ったのはゆったりと流れる時間と静けさであったようである。東京と比較しながら「那覇は平和郷であり、機戒文明の標本室、物理化学の研究室ではなかった」との言葉に、その思いがあふれている。

猫 争闘  油彩・カンヴァス  1940年  東京国立近代美術館

14匹の様々な種類の猫が組んづほぐれつの喧嘩をしているように見える。だが、半分ほどの猫は口を大きく開け、相手を威嚇しているように見えるが、残りの半分は特に殺気立つたような様子ではなく、色々な格好で戯れているようなだけのように見える。1940年の制作ということもあって、時局を反映した殺伐とした空気を表現したものという解釈もあるが、南米滞在中の1932年の作品にもほぼ同じ構図のものがあり、背景を黒く塗りつぶす手法は、画題に関係なく若い頃から何度も使われているが、ここでも極めて効果的である。

アッツ島玉砕 油彩・カンヴァス1943年 東京国立近代美術館(無期限貸与)

現在東京国立近代美術館に収蔵されている藤田の戦争画は全部で14点であり、実際には150点ほど描いたのではないかと推測されている。自他共に彼の戦争画の最高傑作と目されているのがこの「アッツ島玉砕」である。1943年5月12日から29日にかけて、アリューシャン列島の最西端にあるアッツ島を巡って日米の戦士1万3千人余が戦い、日本兵2600名余がほぼ全滅した。藤田が描き出しているのは最後の戦闘が行われた5月29日、山崎部隊長率いる約300名の日本兵が最後の突撃を試みる瞬間である。この作品は軍による依頼によるものではなく藤田が自発的に描いてその後陸軍に献納され、9月の国民総力決戦美術展に出品されるという経過をたどった。陸軍は当初、公開することにためらったという話もある。北の孤島における日本軍全滅の悲劇を生々しく伝える画面が、国民の戦争に対する士気を低下させるのではないかという危惧は当然と言えば当然である。しかし、国民の反応は全く逆だった。玉砕し軍神になった兵隊たちの最後の瞬間に直面することにより、敵である鬼畜米英に対する怒り憎しみはさらに増し、日本が窮地に追い込まれているという認識は、最後の最後まで何としても戦い抜くという強い決意へと変わっていった。展示された作品の横には「脱帽」の二文字が大書され、賽銭箱が置かれ、絵に向かって手を合わせて拝む人が後を絶たなかったという。藤田自身がそれらの老若男女の姿を目にして「生まれて初めて自分の絵がこれ程までに感銘を与え拝まれたということはいまだかって無い異例の驚き」「この画だけは、数多く書いた画の中の尤も快心の作だった」と後に記している。しかし、これらの絵画が、藤田の「戦犯」という汚名の原因になるとは思ってもいなかった。

サイパン島同朋臣節を全うす 油彩・カンヴァス 1945年 東京国立近代美術館(無期限貸与)

この作品は藤田の戦争画として最後のもので、1944年の夏以降に疎開していた神奈川県の藤野村で制作されている。縦180cm、横360cmの大画面に描かれているのは1944年6月から7月にかけて3週間ほどにわたって展開されたサイパン島の日米の激戦の最終局面である。サイパン島は日米双方にとって、軍事的に重要な拠点であり、ここからであればB29爆撃機による本土空襲が可能となり、戦局に甚大な影響を与えることが予想された。そのため日本の大本営は絶対国防圏を定め、サイパン島はその中郭拠点となった。3週間を超える日米の戦闘は激烈を極め、日本側の戦死者は3万人を超え、民間人も在留邦人の半分、1万人が亡くなったと言われる。藤田が描き出したのは戦闘の最終局面、民間人の大半がアメリカ側の投降の呼びかけに応じることなく、バンザイクリフやサイドクリフといった島の北部にあった岬の断崖から次々に身を投げて自決する場面が描かれている。ここに描かれているのは大半が民間人であり、しかも女性と子供が多数を占めており、なおかつ戦闘ではなく、自決の場面であることが一層悲劇性を増している。とりわけ、画面中央の人形を抱く少女の姿をはじめ、状況の残酷さを浮き彫りにしている。藤田の想像力は古典の枠組みをはるかに凌駕し、まるで玉砕の現場に立ち会っているかのような臨場感を生み出している。私は、戦争画は、何回も見ているが、これの戦争画が、戦意高揚に繋がったことは一度も考えなかった。

 

1929年10月に世界大恐慌が起こり、その影響はヨーロッパやアジアに及び、経済的にも家庭生活でも破綻をきたした藤田の1930年代前後の作品は、それまでの「乳白色の下地」のイメージを破壊するような濃厚な色彩により、画風が一変した程の大きな変化をもたらした。藤田は日本、南米、パリ、再び日本、沖縄と転々とした。そんな中で、藤田が「下町の江戸趣味」と呼ぶ自画像(1936)は、私の好きな藤田の自画像である。藤田は1939年4月、ふたたびパリへ向かい、翌年5月まで約1年間をパリで過ごした。1940年初夏に帰国した藤田は、1941年5月に、帝国芸術院会員に推挙された。それまでは在野の団体二科会に所属していた藤田の大きな転身であった。1941年12月8日、太平洋戦争が勃発した。藤田には翌1942年3月、麹町の自宅に待機していた藤田に陸軍省からシンガポール派遣の命が下った。これからの藤田の戦争画制作がはじまった。戦争画に傾けた情熱は、やがて藤田みずからが、会心の作と呼ぶ、一つの傑作に結実した。「アッツ島玉砕」である。戦争画の中でも、最も傑出した作品であった。更に、戦況が悪化した1945年(終戦の年)の「サイパン島同朋臣節を全うす」も戦争画の最高傑作を生み出した。しかし、1945年8月の「日本の敗戦」を迎え、日本画壇では、戦争画の戦犯として、藤田に対する「冷たい目」が光った。作家、画家など芸術家、著者に対する戦争責任を連合軍が求めたことは一度もない。あくまでも、戦争を計画し、指導した軍人や、政治家に対して連合国側は戦争責任を追及したが、それが戦争画を描いた画家に及ぶ筈はなかった。「戦争画を描いた藤田は戦犯」という日本画壇からの追及には、藤田は慄然とする思いであった。私自身が、日本の戦争画を見て、藤田以外の画家の戦争画は鑑賞に堪えるものでは無かった。当時「彩管報国(さいかんほうこく)」という言葉が、日本画壇では語られていた。大日本美術協会会長であった横山大観は「海山十題」という連作を発表し、それらを販売した収入で、陸海軍に四機の戦闘機を寄付しているが、それは戦犯ではないのか?結局、藤田は1949年3月に、まずアメリカに飛び立ち、その翌年にはパリに移り、その後二度と日本の土を踏むことは無かった。国籍もフランスに替え、カトリックに改宗し、名実ともに日本を離れ、フランス人として生きていく道を選んだ。優れた戦争画を描いた結果であろう。しかし、藤田が1968年1月29日に、81歳で亡くなった。その2ケ月後、日本政府は、勲一等瑞宝章を授与することを決定した。

 

(本稿は、図録「没後50年 藤田嗣治展   2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジタ・ポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、図録「特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示  2015年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」を参照した)