没後50年 藤田嗣治展(2)乳白色の裸婦

1921年、ついに藤田はパリで決定的評価を勝ち取った。日本を出て8年後のことである。この年、サロン・ドートンヌに出品した「私の部屋 目覚まし時計のある静物」、「自画像」、「寝室の裸婦キキ」の三つの作品が絶賛された。既に「私の部屋」、「自画像」は、藤田嗣治展(1)で掲載し、「私の部屋」については日本の帝展に出品されたことは、言及した。最も高い評価を得たのは、キキをモデルに描いた裸婦像であった。君代夫人などの証言を総合すると、1922年の作でパリ近代美術館に収蔵された「寝室の裸婦キキ」が出品作の印章を最もよく伝えていると考えられる。残念ながら、この作品は今回展示されていないので、「裸婦 長い髪のキキ」で代用したい。ここに登場した藤田の肌は、「乳白色の肌」と呼ばれ、「グラン・フォン・ブラン(素晴らしい白い地)」という形容で絶賛され、その後数年間に亘り、藤田の人気を支えた。戦時下のパリで苦闘を続けた藤田は遂に自らの技法を打ち立て、独特の様式でヨーロッパ美術史に新たな1ページを付け加えることになった。「乳白色の肌」の技法については、藤田は生涯秘密にし、決して明かそうとしなかった。肌を描いている時は、他人がアトリエに入ることさえ警戒する程であった。その謎は数年後明らかにされた。パリの評論家たちを驚かせたのは華麗な黒の輪郭線であった。その線を藤田は日本画の面相筆(めんそうふで)を使って描いた。油絵に日本画の技法を持ち込んだことが藤田の独創だったのである。図録の木島教授の解説によれば、2000年に行われたパリ日本館所蔵の藤田の壁画修復事業の際、サンプリングされた1ミリ角ほどの絵具片からの分析調査によって画家独自の地塗り技法の基本的要素ー秘密が解き明かされることになる。詳しい説明は省くが、油絵具にタルクが混ぜられていたことである。1940年前後に藤田の制作現場を撮影した土門拳の写真には和光堂のシッカロール(タルクを含む)を脱脂綿で画面に摺り込む藤田の写真が見つかったのである。乳白色の肌に彩られた裸婦像は、パリで熱狂的に支持された。ある本によれば1920年代の「狂乱の時代」には、藤田の絵画は、ピカソやマチス並の価格が付いたそうである。

横たわる裸婦  油彩・カンヴァス  1922年   ニーム美術館

1920年頃に「乳白色の下地」を考案した藤田は、女性の透明感のある肌をマティエール(絵肌)によって表現すること、また、絵肌そのものの美しさが魅力となりえる作品を創造することを目指していた。本作品は藤田が描いた最初期の裸婦像の一つで、漆黒の背景のコントラストの中に、線描による裸婦を表し、その柔肌=素肌の美しさを際立たせている。パリの評論家たちを驚かせたのは流麗な黒の輪郭線であった。その線を藤田は日本画の面相筆(めんそうふで)を使って描いた。油絵に日本画の技法を持ち込んだことが藤田の独創だった。

裸婦像 長い髪のユキ  油彩・カンヴァス  1923年 ユニマットグループ

藤田のモデルであり、かつ後に二番目の夫人となるキキの裸婦像を描いたものである。どの作品化ははっきりしないが、藤田に最初の大金をもたらすことになったのは、やはりキキをモデルにした裸婦像であったと言われる。パリの大コレクター、ゲインラン夫人に8000フランで買い上げられたそうである。リュウサンプールの美術館も買上げを申し込んだできたが一足違いで夫人の手に渡ることになった。1922年、サロンに出品された藤田の作品の前には黒山の人だかりができた。藤田は一躍「サロンの寵児」と呼ばれるようになった。サロン・ドートンヌの審査員にも推挙された。

仮面舞踏会の前  油彩・カンヴァス  1925年  大原美術館

仮面舞踏会で出番を待つ女性たちが描かれている。画面中央の裸婦が当時一緒に暮らしていたユキ(肌が白いので藤田がユキと命名した)、その左の着衣の小柄な醸成がロシア人画家マリー・ヴァシリエフである。ここでは布の模様の描写は抑えられ、色も淡彩で、画面全体が「乳白色の下地」の絵肌で統一されている。ユキの肌を表した温かみのある白い質感の印象が強く、彼女の足元の黒い仮面を際立たせている。1925年のサロン・デュイルリー出品作である。最近、大修理が終わって初めての出品であるそうだ。

五人の裸婦  油彩・カンヴァス  1923年   東京国立近代美術館

花柄のある天蓋のかかるベッドの前で、それぞれポーズを取る裸婦たち。しなやかに体の曲線を強調しながらも堂々とした様子で、さながら伝統絵画の女神のようである。構図も格調高くとの意識から、5人をW字を描くように対称に配置し、画面に安定感を生み出している。1923年末にサロン・ドートンヌで発表した本作は、初めて群像に挑んだ意欲作である。西洋絵画の王道ともいうべき裸婦で評価を得た藤田は、群像表現でさらなるステップアップを図ったのだった。というのも、西洋絵画の歴史の中で格別の位置を占めるテーマとされてきた。さらに、西洋絵画の伝統に藤田がもう一歩踏み込んだとされるのが、5人の裸婦がそれぞれ五感を表しているという見方が出来る点である。つまり、左端の布を持つ裸婦が蝕角、耳をを押さえるポーズの女性が聴覚、、口を指すポーズは味覚、犬を伴った裸婦が嗅覚。そして、中央の裸婦が視覚となる。彼女を中央に置くことで、視覚の優位性を示しているのだろう。これも資格の芸術である絵画の伝統的な手法の一つである。そして、本作の大きな見どころである、裸婦の「肌」を表現するという上でも重要な役割を果たしているのが、ベッドの天蓋と裸婦の足元の布である「ジュイ布」(ジュイ産の布の意味)と呼ばれるアンチークのフランス更紗で藤田のお気に入りのモチーフである。本作に描かれたのは実際にはルーアン産らしいが。綿密な模様をだまし絵のように描いた点がポイントである。藤田はサロンで展示した際に、顧客がこの布の細部をよく見ようと画面に接近することを想定して描いたのだった。つまり、超絶技巧な布で誘い込み、一番見せたいもの、すなわち「乳白色の下地」を生かした裸婦の肌、絵肌を直ぐ近くで見せる作戦である。藤田が西洋絵画の神髄に真っ向から挑んだこの作品は、彼のこれまでのサロン出品作の最高額となる25,000フランの値をつけたのだった。

砂の上で 油彩・カンヴァス  1925年  姫路市立美術館

砂浜でまどろむ二人の裸婦と幼児。その周りにはバケツやスコップ、さまざまな種類の貝殻が散らばっている。奇譚に横長の画面に配された人物の構図は藤田の関心が群像構成に向かっていたことを示す。また非現実的な雰囲気は、同時代のシュルレアリスムの美術や映画の幻想的な海のイメージを連想させる。1925年サロン・ドートンヌ出品作。

裸婦  油彩・カンヴァス  1927年   ベルギー王立美術館

1920年代初期の裸婦像と異なり、ここでは女性の腰をひねり、肘も曲げていることなどから身体全体に動きがみられるほか、陰影も強調され、彫刻的な立体感が際立っている。本作は、1920年代から30年代のパリの日本人芸術家たちの経済的支援者として名を馳せた資産家・社交人、薩摩次郎八により、1928年にベルギー王立美術館に寄贈された。

友情  油彩・カンヴァス  1924年  ポンピドー・センター

1924年のサロン・ドートンヌに出品した2作品の内の1点である。この頃藤田は、深い友情や愛情で結ばれた女性の二人の像をたびたび描いている。バラの脇に建つ裸婦に寄り添うもう一人の裸婦。腰の下のジェイ布の図柄は、半身半獣の精霊サテュロスを従えた酒神バッカスである。「豊穣」の象徴であるバッカスが、女性たちの豊満な裸体を賛美しているかのようである。尚、図録では、藤田の作品に女性二人を描く絵画が多いのは、同性愛の象徴ではないかとする意見が見られた。

横たわる裸婦  油彩・カンヴァス  1926年  個人蔵(日本)

1921年から本格的に乳白色の下地を生かした裸婦を描き、発表するようになる藤田だが、横たわる」系と「立つ」系に分類される。1926年パリ作のこの裸婦は1929年に一時帰国した際に刊行した画集に図版が掲載されており、本人が日本に持ち帰って所蔵先を探した可能性が高い。

 

藤田は、1925年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章と、ベルギーからレオポルド一世勲章を受章した。画家として最も華やかな時代であった。1920年代の藤田は、あさにパリ画壇の寵児と言う言葉に相応しい活躍ぶりであった。例えば、「五人の裸婦」は、1923年のサロン・ドートンヌに出品されているが、出品目録には「25000フラン」という売却価格が設定されている。この金額を他の画家と比較して見ると、ピカソは1920年代の前半、1点あたり数千フランから1万数千フラン程度、マティスは500フランから5000フラン、キスリングは1000フラン前後、最晩年のモネが数万フランから10万フラン前後といった具合であった。藤田の25000フランはマティスに及ばぬものの、ピカソに匹敵あるいは上回り、当時の若手作家としてはほぼ最高に近い位置を占めていたことが分かる。しかし、この時期が藤田の絶頂期であった。1929年、アメリカ・ニューヨークのウオール街で株価が大暴落を示し、世界恐慌が始まった。深刻な不況はエコールド・パリの華やかな「狂乱の時代」に幕を引き、世界は再び戦争の耳朶へと導くことになる。その激動の渦に藤田自身も巻き込まれていくことになる。

 

 

(本稿は、図録「没後50年 藤田嗣治展  2018年」、図録「藤田嗣治展ー東と西を結ぶ絵画  2016年」、図録「レオナール・フジターポーラ美術館コレクションを中心に  2013年」、近藤史人「藤田嗣治「異邦人」の生涯」、高橋秀爾「近代絵画史(下)」を参照した)