没後90年  萬 鉄五郎展

萬 鉄五郎(よろず てつごろう)は1885(明治18)年に岩手県東和賀群の通称「土沢」に生まれ、1927(昭和2)年、神奈川県高座郡茅ヶ崎に没した。享年41歳。東京美術学校西洋画予科では、アカデミックな美術教育を徹底的に受け、1907年9月には、本科合格者中首位の成績であった。その後も級長などを勤め、美術学校での萬は、真面目な優等生であった。しかし、萬も主観的な表現性の後期印象派やフォービズムに深く感応し、たちまち優等生から「級内の革新派」へ転じていった。本科の卒業制作に「裸体美人」を提出し、日本の洋画に革命的衝撃を与えた。萬は、卒業制作を機に、新しい絵画表現の最前線に立ったことになった。萬 鉄五郎の個人展は、私は初めて見たけれども、図録によれば、1962(昭和37)年の神奈川県立美術館(鎌倉)で紀念すべき「萬 鉄五郎展」が開催された。次いで、1985(昭和56)年に鎌倉、津、仙台の近代美術館で「生誕百年紀念 萬鉄五郎展」が開催された。今から20年前の1997(平成9)年、東京国立近代美術館が「没後70年 萬 鉄五郎展」を開催し、その後京都へ回っている。従って、今回の「没後90年 萬 鉄五郎展」は4回目となる展覧会である。キュビズム、表現主義、未来派、アーバニズムなど、1910年前後に極東の日本に及んだモダニズムの衝撃について重要な展覧会が開催されるたびに、萬 鉄五郎は欠かすことのできない存在として、文化史の文脈でさまざまな検討が加えられてきた。

重要文化財 裸体美人 萬鉄五郎作 油彩・画布1912(明治45)年東京国立近代美術館

美術学校の卒業制作の一つが、この「裸体美人」であり、主席で入学した萬の卒業成績は19人中16位であったそうである。外光派を引っさげて、美術学校教授となった黒田清輝にとっては、到底見逃せない作品だっのだろう。16位という卒業成績は、この「裸体美人」という、日本における後期印象派を受容した最初の作品を見逃すことの出来ない作品だったのだろうと推察する。萬は後に、この作品について「ゴッホやマチスの感化のあるもの」と述べているように、画面からは炎のように揺れ動く下草の描き方にゴッホを、そして剛直な筆致で単純化された裸婦の表現にマチスを見出すことは容易だろう。ただし、萬は、明治末年からようやく日本に紹介されはじめた彼れらの絵画を単に模倣したのではなかった。後期印象派からフォーヴィズムに至る近代絵画の根底にあって流れる、個の存在の発現という表現主義的な傾向を感知し、その強烈な色彩、意志的な線、単純化されたデフォルメーションなどの表現に自らの個性と、本能的な表現欲を盛り込むことを学び取ったといえよう。鮮やかな赤と緑の対比もさることながら、この裸婦の堂々とした大胆不敵な態度こそ本作の魅力であろう。モデルはよ志夫人であると言われている。さまざまなポーズをする裸婦の素描があるが、その中の一つには本作と似た裸体美人(油彩習作)が展示されていた。デフォルメされた人体、ピンクの雲、萬の特徴的なモチーフがすでにここに描かれている。近代日本洋画の最大傑作であると、私は思う。

自画像(卒業制作)萬鉄五郎作油彩、画布 1911(明治44)年頃東京芸大

萬の卒業制作は「裸体美人」と「自画像」の2点であった。この自画像では黄色を基調とした色彩と厳しい筆致という点で後期印象派的であるものの、全体的には堅実なデッサンに裏打ちされた極めて端正な作品である。本作以降描かれた自画像の中では最も写実的であると言える。その点では東京美術学校時代に培われたデッサン力が最も発揮された油彩画であり、全体に淡い色彩が支配していることから、黒田清輝らによる外光派の影響を見ることができる。萬の卒業制作の評点は72点で、本科卒業生19名中16位であり、入学時に萬が主席であったことを考慮すると、「裸体美人」の後期印象派風の作風が受け入れ難かったのであろう。萬の卒業制作の低い評価は、専ら「裸体美人」によるものと考えられる。

雲のある自画像 萬 鉄五郎作 油彩、画布1912(明治45・大正元)頃大原美術館

幼少期から日本画に親しんだ萬は、1903年に中学進学のため岩手県から上京、在学中は1905年に白馬会第二洋画研究会に通い始めた。中学を卒業後、かねて参禅していた禅師の布教活動に加わってアメリカに渡り、この地で絵画を学ぼうと計画した。しかし、諦めて半年ほどで帰国し、翌1907年に東京美術学校西洋画予備科に入学した。アプサント会に参加するなど在学中から活躍した萬は、1912年に卒業制作として「裸体美人」を発表し、話題になった。同年、萬は岸田劉生らとフュウザン会を結成した。生涯を通じて多数の自画像を残した萬は、この1912年前後、画家としての自己を模索したのか、印象派、後期印象派、ヴァン・ゴッホや未来派など、きわめて多様な様式で集中的に自らを描いた。本作品も、そうした一連の作品自画像に属する。力強い筆触、補色の関係にある赤と緑の雲を青地に浮かべた強烈な色彩と比べて、萬の面持ちは比較的穏やかである。「裸体美人」にもあった雲は、自我の探究という文脈でいっそう暗示的効果をあげている。

太陽と道 萬 鉄五郎作 油彩、板 1912(明治45・大正元年)頃 萬鉄五郎紀念美術館

太陽をモチーフに、ギラギラした光を放射線状に描いた作品であり、第1回フュウザン会に出展した作品である。似たような作品として「太陽の麦畑」、「煙突のある風景」(所在不明)等がある。後期印象派の影響を受けていると思われる。

田園風景 萬 鉄五郎作 1912(明治45、大正元年)頃 神奈川県立美術館

フォーヴィズム的な色彩からキュビズム的な造形表現へと転換していくなかに土俗性も加わり、うねるような筆使いは自然そのものを鷲づかみにする力強さがある。明治末にハインド著「後期印象派」が日本に紹介されると多くの画家がこれに反応した。萬もその一人であり、第1回フュウザン会に出品した「田園風景」は、少なからずこの本からの影響を感じさせる。この作品では、赤と緑が激しい補色の対比がやや後退し、色味を抑えた、動きのある筆致が特徴的である。西洋絵画の刺激を受けつつも、萬の資質が発揮された、湿度を帯びた日本の田園風景となっている。なお「田園風景」は、エッチングでも制作されている。

日傘の裸婦 萬 鉄五郎作 油彩・画布 1913(大正2)年神奈川県立美術館

1913(大正2)年の第2回フゥウザン会展に「エチユード」というタイトルで出品された作品である。画面下に大正2年とあるが、美術学校で描かれた初期の素描に同じ椅子がみられることから、在籍中であったのではないかとも思われるが、美術学校で描き始められたと考えられる。裸婦に傘を持たせるという発想は萬自身によるもので、「傘の赤い光線が肉体に影響するところが愉快だと語っていた」という。広がる傘が頭部の大きさを一層強調させ、長い胴部と短い脚部という、モデルの日本女性の体型の悪さを際立たせている。晩年の「水着姿」でも傘を持つ構図が用いられていることから「傘を持つ構図」に萬が強いこだわりを持っていたことがうかがい知れる。

丘のみち萬 鉄五郎作 油彩、画布1918(大正7)年頃 萬鉄五郎紀念美術館

1914(大正3)年9月に、萬は妻と二人の子供を連れて郷里・岩手県土沢へ帰る。その理由を「段々制作にうえる事になった」と記している。6月に長男が誕生して、更に生活苦に悩まされ、製作に専念できずに満たされない描くことへの欲求、画家としての危機感があったのだろう。1年4カ月余りの帰郷に区切りをつけた萬は、1916(大正5)年1月に家族と共に再び東京に戻った。土沢から上京した萬は、その後数年にわたり故郷の風景を描く。土沢での写生を通して、移ろう四季の中で変化する土地の息吹を体感し自身に記憶させた萬は、遠く離れた東京で眼前にない過去の風景を反芻し、そこにキビュズムや表現主義など異なる様式を選択しながら、造形の実験を押し進めたのだろう。判然としない画面だが、郷里の人々には土沢の館山城周辺を描いたものに写るようだ。さらにここにはおなじく、「かなきり声の風景」に描かれた場所でもある。その土地の生活者のみが共感できるような、まさに萬が咀嚼した土沢の風景になろう。

裸婦 萬 鉄五郎作 油彩、画布 1918(大正7)年 神奈川県立美術館

小さい脚部から大きな頭部にむかって積み上げていくような人体の捉え方は、キュビズム風の作品「裸婦」にも通じるものである。この「裸婦」と「日傘の裸婦」には、似たような傾向が見られる。同じような裸婦のスケッチが多数のこされているが、以前描いたスケッチやタブロウーをもとに繰り返しや再構成を経て新たな表現へと向かう制作スタイルは、萬の特徴的な手法の一つである。しかし、これは、今回のような個人展覧会で、スケッチや習作など多数展示されたことで理解できることで、単独の絵画を見ているだけでは思いつかない手法である。

土沢時代の水墨画 筏の図 萬鉄五郎作紙本墨画 1914~16(大正3~5)年頃 萬鉄五郎紀念美術館

土沢時代に描かれた水墨画は「苔庵」(たいあん)の落款と朱文印を使った作と思われるので、郷里に集中的に残っている。「筏の図」は「材木を流す図」と対幅の大作で、郷里の風景を南画風に描いたものである。米点(べいてん)の手法で水墨画の装いを見せているものの、遠近感を意識した洋画的な描写が認められ、運筆にも稚拙さが残り、南画としては荒削りの感は否めない。依頼されて描いた地元に伝わっており、同地を描いた類似する風景スケッチが存在することから、それをもとに作画した可能性が高い。萬 鉄五郎は、洋画家でありながら、水墨画の作品も多く、洋画家としては珍しく水墨画を描く画家であることを、今回の展覧会で意識した。なお、土沢時代を水墨画と呼び、神奈川県茅ケ崎時代の作品を南画と言って区別していることも、今回知った。

茅ケ崎時代の南画 松林 萬 鉄五郎作 1922(大正11)年 萬鉄五郎紀念美術館

土沢時代の墨画を水墨画、茅ケ崎時代の墨画を南画と呼んで区別するそうである。「南画の頂点」を1922(大正11)年の作品群だと陰理哲郎氏は判断しているそうである。理由は、萬が、南画に対する活動をエネルギュシュに展開したからである。確かに以前の作と比べると、柔軟闊達な筆墨と澱みの無い運筆に加え、詩的な画面構成に各段の差が認められる。表現主義的な萬独自のフォルムを取り入れられ、これまでにない南画空間を創出している。1922年より後年の作と思われるものに、大らかな空気感や宇宙的な広がりを持った作品群が存在する。この「松林」が一つの例である。この時代の南画の数は多い。

男 萬 鉄五郎作 1925(大正14)年 木炭、紙 岩手県立美術館

萬によると「男」は、もともと1920(大正9)年に着手したが、散々手こずった末に制作を放棄し、「今度或る充実を感じて来たので一気にかき上げた」ものだと言っている。おそらく彼にとって重要だったのは画面内で大きな破綻なく、筆触の勢いも失うことなしに、この大作を「一気にかき上げた」ことではなかっただろうか。そのような解釈に立てば、本作は描画プロセスの点で南画に最も近づいた作品と位置づけることもできそうである。

水着姿 萬 鉄五郎作 1926~27(大正15~昭和2)年 岩手県立美術館

絵の表面化、様式化、装飾化が進んでいる。黄と緑と茶と青とが照応しあい、曲線が生む画面全体のゆらめきと、開いた傘の円形が対応している。薄塗りである。これまで描いてきた人物画と異なっている。あつらえた水着をつけたモデルを写生して、写真屋の背景幕のような海と合成している。油絵で和風の意匠を表す試みであろうか。「日傘と裸婦」と同様の、傘を差す女性像というモチーフも、ひどく突拍子もないもので、それ自体で萬的であると言えよう。

裸婦(宝珠をもつ人)萬 鉄五郎作 1926~27(大正15~昭和2)年 岩手県立美術館

最晩年の奇妙な作品が出現した。最大の大作(100号)の一つであり、未完成である。(卒業制作の「裸体美人」も100号であった)巨人のような裸婦が右の掌の上に宝珠をかざしている。そのため、仏像を想起させて、故郷の成島の兜跋毘沙門天像と結びつける論がある。考え方としては魅力的である。病の長女登美子の回復を願って描き、叶わずに未完となってしまったという話もある。信仰と病が合わさって、さらに説得的である。しかし、これで作画の理由はわかったろうか。わからない。謎めいた絵ばかりが多い萬の中の、最大の謎作品といえるであろう。「裸体美人」で生じた謎の裸体研究が、「裸婦」(宝珠を持つ人)で閉じ、謎の円環を形成してしまった。

 

萬 鉄五郎の作品との出会いは、東京近代美術館の「裸体美人」「もたれて立つ人」、神奈川県立近代美術館の「日傘の裸婦」、「田園風景」、「裸婦」の5点であった。何れも傑作であり、特に「裸体美人」は、日本における後期印象派のトバ口となる傑作であり、記憶に強く残る作品であった。この度「没後 90年 萬鉄五郎展」が、神奈川県葉山館で開催されるのを聞いて、是非観たいと思い、かなりの時間をかけて葉山館まで日帰りで往復した。誠に充実した展覧会であった。いかに萬 鉄五郎に対し、生半可な知識であり、水墨画や南画があれほど沢山作られているとは思ってもいなかった。萬は、日本の洋画の近代化にもっとも貢献した人物であることを、しかも画家歴はせいぜい20年程度であったこと等を再確認した。なお、土方定一氏は「日本の近代美術」のなかで、萬鉄五郎氏を「世界的巨匠」とまで賛美している。この本は、私の古典であり、100回は読んでいる筈であるが、全く見落としていた。不明を恥じる。

 

(本稿は、図録「没後90年 萬鉄五郎展 2017年」、東京国立近代美術館「名品選」、図録「近代日本の美術」、神奈川県立近代美術館 図録「コレクション選 2001年」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)