浅井忠の京都遺産展

浅井忠(1836~1907)は、工部美術学校の生徒として、フォンタネージュのよい影響を受けた弟子であった。この子弟のなかには心情的に親しいものがあったと想像される。浅井忠の初期の代表作に第1回明治美術会(明治22年)に出品した「春畦」(はるあぜ)、第2回明治美術会に出品した「収獲」(重文)がある。(これは「芸大コレクション」で紹介している。)いずれも田園風景であり、懐かしい心情を感ずる。浅井忠は、明治31年(1898)、東京美術学校教授に招かれ、浅井教室を持つが、翌年2ケ年間のフランス留学を命ぜられ、フランスに赴いた。浅井忠の洋画家としての地位は既に不動に高まっていたのである。浅井忠はどこの教室にも入らず、黒田清輝が「読書」を描いたグレーに滞在し、またフォンテーヌブローに行き、主として風景画を描いている。浅井がパリ滞在中の1900年(明治33)に、パリでは5回目の万国博覧会が開催された。交通、情報網の発達により5100万人を集客した同博覧会は過去最大規模の祭典となり、装飾芸術が花開き「アール・ヌーヴォーの勝利」と称され、会場にはエミール・ガレやティファーニの華麗な工芸品が並び、ミュシャによる壁画やポスターで装飾された。このパリ万博には、浅井忠をはじめ、夏目漱石、竹内栖鳳など作家、美術家も大勢参加していた。丁度、京都高等工芸学校設立準備のためヨーロッパに来ていた中沢岩太は、パリで浅井と出会い、同佼の図案化教授就任を依頼した。浅井は、この万博で日本の絵画が「精神も無く気力もなく色は全く無味乾燥」であることを痛感し、この申し出に快諾した。(洋画家として黒田清輝と並ぶ大家であったにも関わらず)

椿姫 リトグラフ(懸け幕として使用) アルフォンス・ミュシャ作1896年京都工繊大

中沢氏の依頼を受け、浅井は、パリで京都工芸学校の教材となる資料取集を行った。石膏像のほか、フランス陶磁器19点とヨーロッパのポスター72点がある。中には、当時ヨーロッパを席巻していたアール・ヌーヴォーを代表する人気作家のポスター(懸け幕)もあり、このミュシャと同様のポスターが2点展示してあった。このミュシャの椿姫(つばきひめ)は中でも人気を呼んだ。

グレーの河岸 浅井忠作 水彩・紙 明治35年(1902)泉屋博古館

浅井は、明治32年(1990)、文部省より2年間フランス留学の命を受けた。丁度パリでは1900年のパリ万博が開催されており、彼はその監査官も命ぜられた。しかし、パリ万博もさることながら、浅井を惹きつけたのは、大都会の華やかさよりも、むしろフォンテンブローやグレーの田園景色であった。ここに掲げる水彩スケッチを数多く残している。それまでの彼の作品に見られなかった濁りない色や透明感など、明るい色彩を感じさせる表現が目立っている。

河岸洋館 浅井忠作 水彩・紙  明治35年(1902)  泉屋博古館

上の「グレーの河岸」と同じ時期の水彩画である。素早いタッチで描かれた簡単な水彩画であるが、そこにひそむ田園の詩情を画面に表現する彼の腕前は、見事に発揮されている。

クレーの教会 浅井忠作 水彩・紙  明治35年(1902) 泉屋博古館

特にロアン河畔のグレーの村は、彼のお気に入りの地で、何回となく繰り返し訪れ、明治34年から翌年にかけては、冬の間ずっとグレーに滞在し続ける程であった。素早い筆致で描かれた簡単な水彩画であるが、対象をある一定の距離から的確に捉えている。見事な筆致である。

垂水の浜 浅井忠作 水彩・紙  明治36年(1903) 泉屋博古館

兵庫県の垂水の浜を淡い色で描いた水彩画である。この垂水の浜の近くには住友家の別荘があった。浅井は既に東京美術学校の職を辞し、京都工芸繊維高等学校の教授となり、住まいも京都に移していた。(泉屋博古館は住友家が主催した美術館)

秋林 浅井忠作  水彩・紙  明治35年(1902) 泉屋博古館

帰国後の明治35年(1902)、京都高等工芸学校教授として赴任した浅井は、フランスで学んだものを、関西の穏やかな風景に置き換え、季節や時の移ろいを光とともに映し出す瀟洒な水彩風景画を描いた。これは、京都の大原のあたりの秋の林を描いたものである。京都に根ざした日本画に接し、少年時代以来再び開眼した、軽妙洒脱な筆致で自ら楽しむ風情が共感を呼んだ。

武士狩図  浅井忠作  油彩・カンヴァス  明治38年(1905) 京都工芸繊維大学

本作は、浅井が京都時代に描いた最大級の洋画であり、当時の東宮御所東二の間「狩りの間」に向けられた綴織壁掛の二分の一のサイズの原画である。秋の山路で狩りを楽しむ三人の武士たちが描かれている。本作品を含め、下図など関連資料がⅠ3件残されている。会場では、下絵として馬、武士など4点が展示されていた。(昨年の黒田清輝展でも多数のスケッチが展示されたが、このような下絵の展示は素人には、非常に参考になるので、せめて古い画家には、スケッチを展示して頂きたい)浅井は実際に狩装束を着たモデルを乗馬させて写生し、入念な構図研究を行った。この際使用された装束や馬具類は、京都高等工芸学校に標本資料として現在も資料館に収蔵されている。この下絵の2倍の綴織が、大正2年(1913)に川島織物のもとで完成している。(因みに東宮御所は、現在の迎賓館 赤坂離宮であり、昨年この「美」で取り上げているが、残念ながらこの織物は撤去されていた)この作品は、明治40年(1907)10月の第1回文部省展覧会(文展)に出品された。好評であったが、浅井は装飾的な趣向を目指していたので、好評とは裏腹に、不満の残る作品だったようである。

梅図花生 浅井忠図案 陶磁  明治35~40年(1902~07)

浅井忠は画家として有名であるが、一方後半生に手がけた図案(デザイン)には、絵画に劣らぬ輝きを放っている。風景画が端正であるのに較べ、浅井のデザインは大胆でスタイリッシュ、時には躍動的である。この花生は梅という伝統的な題材であるが、まるでアール・ヌーヴォーを思わせる大胆なデザインであり、極めてスタイリッシュである。思わず「恰好いい」と叫びたくなるデザインである。

野分蒔絵(のわけまきえ) 文庫 浅井忠下絵 杉林古香作 明治39年(1906)

猪を鉛で、牙や目、桔梗を螺鈿で、千草を高蒔絵で表現した本作品は丸みを帯びた形状が光悦蒔絵に通じる一方、猪という漆芸品には珍しい主題で、蓋の曲面を利用して強調された猪の躍動により、独特の表現となっている。

鬼が島 浅井忠作 絹本着色 双幅  明治38年(1905) 個人蔵

幼少の頃、黒沼槐山(かいざん)について日本画を学んだ浅井は、東京時代は油彩画の先覚者として制作を続けたが、京都時代には、黙語(もくご)と号し、一転して軽妙な日本画を多く描いた。戯画風の人物画など、油彩画面にはない描線の軽やかさを楽しむような浅井の日本画は、図案制作とはまた異なる一面を見せてくれる。

大原女  浅井忠作  「黙語図案集」より  明治41年(1908)

浅井忠の図案集「黙語図案集」(出版物)の中の一図である。大原女をデザイン化したものである。

大津絵・藤娘  浅井忠作 「黙語図案集」より  明治41年(1908)

浅井忠の図案集「黙語図案集」の中の一図である。大津絵の藤娘をデザイン化したものである。

 

日本洋画壇の先駆者浅井忠(1856~1907)は、パリ万国博覧会などのため訪れたヨーロッパの経験を通じ、画風を変化させただけでなく、全盛期のアール・ヌーヴォーの洗礼を受け、デザインへの強い関心を抱くようになり、滞仏中に京都高等工芸学校の図案化に誘われ、京都移住を決意した。明治35年(1902)からこの世を去る明治40年まで、浅井は京都で教鞭をとるかたわら、聖護院洋画研究所、関西美術院と続く洋画家育成機関の中心となり関西画壇の発展に尽力した。また陶芸家や漆芸家を結ぶ団体を設立し、自らもアール・ヌーヴォーを思わせる斬新なデザインで京都工芸界に新風を巻き起こした。明治初期の洋画家として有名であるだけでなく、デザイン家としても評価できる仕事をし、近代日本を代表する一人の芸術家である。黒田清輝が、光あふれる印象派の作風を学んで明治26年にフランスから帰朝して「外光派」とよばれたのに対し、アカデミックな浅井の画風は、「脂派(やには)」「旧派」と呼ばれることもあった。しかし、浅井の京都遺産を見ると、単なる洋画家ではなく、優れたデザイン家であった事も理解できた。この展覧会は、今年の大きな収穫であったと思う。

 

(本稿は、図録「浅井忠の京都遺産  2017年」、土方定一「日本の近代美術」、原色日本の美術「第27巻 近代の洋画」、図録「芸大コレクション  2017年」を参照した)