清浄な伽藍  妙 心 寺

妙心寺の地名は花園であるが、これは花園天皇(1297~1348)が若い頃から崇仏の念厚く、立派な学者でもあった。天皇の深く心を寄せられたのは宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)、すなわち大燈国師(だいとうこくし)であったという。天皇は建武2年(1235)39歳の時に髪を下ろして法王となられた。大塔国師は、2年後に病気になり、法王は大いに驚き、後はどうしたら良いかとお尋ねになったところ、国師は「私の弟子の開山慧玄(かいざんえげん)こそ、その人であります」と答えられた。国師が示寂してから、開山の行方を捜し、漸く美濃の山里に草庵を結んでいる関山を見つけ、法王の離宮の改めて禅刹(ぜんさつ)とされた。これが正法山妙心寺の起こりである。時に、歴応5年(1242)開山が65歳の時であった。五世拙堂宋朴(せつどうそうぼく)の時に、室町幕府は、妙心寺を弾圧し、応永6年(1399)、応永の乱を機に足利義満は、山隣派の妙心寺を没収し、菁連院の所管とした。応永の乱で拙堂宋朴が大内義弘(おおうちよしひろ)に組したというのが、その言い掛かり的理由であった。妙心寺の名前は龍雲寺と改められたが、34年後に変換してきた。様々な事件の後、応仁元年(1467)応仁の乱が起こり、時の妙心寺の住持であつた雪江宋心(せっこうそうしん)が六世であった。妙心寺は焼け、文明9年(1477)、後土御門天皇から妙心寺再興の綸旨を得た。妙心寺の再興と発展の基礎造りに尽力した雪江宋心は文明18年(1486)6月に、79歳をもって寂した。現在、妙心寺は境内13萬坪、塔頭47、緒堂伽藍の揃った大寺院である。臨済宗妙心寺派大本山となり、全国に3500余の関係寺院を擁する、禅宗としては最大の規模を誇るまでになった。

重要文化財  南総門        慶長15年(1610)  桃山時代

切妻造、本瓦葺の薬院門(やくいんもん)で、慶長15年(1610)につくられた。伽藍の南北軸線をややずらして東寄りに建てられいる。妙心寺の表門として威厳を備え、かつ人々の通用門となっている。

重要文化財  三  門(さんもん)   慶長4年(1599)桃山時代

二重二層の入母屋造で、木部に朱塗の彩色を施し、左右に山廊(さんろう)がつき、ここから二層上階にあがる。京都の禅宗寺院の東福寺三門、大徳寺三門に続いて古い三門建築である。毎年6月18日には二層上階で観音繊法会(かんのんせんぽうえ)、7月15日には三門施餓鬼が行われる。

重要文化財  仏殿     文政10年(1827) 江戸後期(19世紀)

三門の後方に南面して建つ。入母屋造、本瓦葺の典型的な禅宗仏殿である。内部には須弥壇があり、後方左左右に脇仏壇が設けられている(重文)。現仏殿以前の仏殿が大破したため、文政10年(1827)に再興された。

重要文化財  法堂(はっとう)   明暦3年(1657) 江戸時代初期

仏殿の後方に建つ。一重裳階(もこし)付、明暦3年(1657)江戸時代初期の建築である。山内で最大の堂宇である。開山300年を記念して承応4年(1655)から明暦3年(1657)にかけて建造したものである。妙心寺は諸堂揃った大寺院と称するが、諸堂伽藍とは、仏殿、法堂(はっとう)、庫裏、僧堂、三門、浴室、東司(とうす)の7棟である。

法堂天井  雲龍図  狩野探幽作   明暦2年(1656)江戸時代初期

法堂の内陣には、狩野探幽(1602~74)の筆による蟠龍(ばんりゅう)が描かれている。普通、天井に貼るが、ここのは直接板に描かれている。「探幽法眼筆」と署名されている。この妙心寺の雲龍図は「八方睨みの龍」と言われ、法堂のどの位置から眺めても、見る者を睨んでいる。探幽が生きた龍を活写したのだから、ぎょろっとした眼が動くのも納得できる。この法堂の落慶供養は、万治元年(1658)に愚堂禅師によって営まれている。

国宝  梵鐘          天武2年(698) 白鳳時代(7世紀)

法堂内部に安置されている梵鐘は、日本最古の紀年銘を持つ梵鐘である、「徒然草」の中で、兼好が「およそ鐘の音は黄鐘調(おうじきちょう)なるべし・・浄金剛院の鐘の声また黄鐘調なり」と述べている。もとは浄金剛院(廃寺)にあったものである。近年まで除夜のにはテレビでその音を全国に響かせていたが、現在は現役を引退である。なお、九州大宰府の観世音寺の鐘も日本最古をうたうが紀年銘がなく、お寺では妙心寺の鐘と兄弟鐘としていて、日本最古を謳っている。こちらは現役で、今でも鐘は撞かれている。

重要文化財  浴室      明暦2年(1656)江戸時代初期

三門の東に西面し、正面5間、中央入口は桟唐戸の上に蟇股(かえるまた)と唐破風をつけている。通称「明智風呂」と呼ばれ、明智光秀(1528~82)の叔父で塔頭大嶺院の開基である密宗和尚が光秀の菩提を弔って、天正15年(1587)に創建したと伝える。現在の建物は明暦2年(1656)の建築である。

重要文化財  浴室内部「明智風呂」    明暦2年(1656)江戸時代初期

内部には唐破風を正面に向けた蒸し風呂形態の浴場と洗い場がある。現在でも使用できるほど守備整って貴重な遺構である。これだけ完全に、浴室設備が残っている寺院は無いと説明された。妙心寺参拝者に人気の建造物である。

重要文化財  大方丈       承応3年(1654)江戸時代初期

法堂と寝殿をつなぐ廊下の東に南面する。承応3年(1654)に上棟された、一重、入母屋造、杮葺である。仏殿、法堂などの仏殿形式と対照的に、中世以来の住宅形式の伝統を守りながら、規模は雄大で木割りは太い。北・東・西には広縁、正面には大広縁がめぐり、室内には仏間と南面の室中を中心とする。

重要文化財  北総門           慶長15年(1610)桃山時代

境内の北、一条通りに北面して建ち、切妻造、本瓦葺の薬師門(やくしもん)である。南総門とほぼ同じ形であるが、ひとまわり大きく、更に簡素である。

清浄な伽藍 妙心寺

妙心寺の諸堂と、内部の石畳の通路で、住民には南北通路として、良く利用されている。しかし、観光客には閉鎖的で、一番拝観したい障壁画は見せてくれない冷たい妙心寺である。

 

境内13万坪、塔頭47、諸堂伽藍の揃った、日本屈指の大寺院である。堂内には相阿弥、狩野源信、長谷川等伯、海北友松(かいほゆうしょう)、狩野山楽等の名画(襖絵等)が多数ある。残念ながら、お寺は解放せず、偶に春秋に公開することがるらしいが、私は残念ながら、一度も拝観したことが無い。提案がある。どこか紀念の年、例えば三門420年紀念祭に、1年間を通して公開し、後は十年に一度位の公開にしてはどうか。是非、名画の数々を、この眼で確かめておきたい。妙心寺は、南門から北門に到る通路(石畳)は、常に公開され、南北の通り道として利用者の多いお寺である。にも拘わらず、有名な障壁画は、全く公開しない、極めて不親切なお寺である。大衆的であるが、非公開の冷たさが目立つお寺である。是非、美術愛好家のために、秘蔵の障壁画を1年間通しで公開する企画を立てて頂きたい。そうすれば、更に好きなお寺として記憶に残るのだが、残念である。

 

(本稿は、古寺巡礼 京都「第31巻  妙心寺」、探訪日本の古寺「第9巻 京都 洛西」を参照した)