特別展  大和古寺の仏たち(3)

唐招題寺

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奈良市の西郊、「西の京」とよばれる地域に位置し、今も天平文化の香を伝える。聖武天皇の招きに応じ、日本へ戒律を伝えるため、さまざまな困難を経て中国から来日した鑑真が、新田部親王の旧宅をもらい受けて天平宝字3年(759)に「唐招招寺」という名の私的な寺として建立したのに始まる。当初の建物は先住者の旧家屋を利用した簡素なものであったようだが、やがて宮廷や貴族の支援を受けて寺として一応の形態が整ったところで「唐招提寺」と称するようになり、官寺の寺院に準ずる定額寺(じょうがくじ)となった。もっとも、鑑真在世中に建てられたのは、平城京の朝集殿を移建した講堂をはじめ、食堂や僧坊など、僧侶の宗教生活に必要な建物にとどまっていたようである。天平宝宇7年の鑑真没後も、その弟子たちによって金堂やその前方の伽藍の造営が進められ、9世紀初めにはほぼ完成した。(律宗)

重文  伝薬師如来立像 木造  奈良時代(8世紀) 新宝蔵

唐招提寺には、もと講堂に安置されていた多数の木彫像が依存し、現在、新宝蔵に移されている。これらの中には鑑真和上による本寺創建期に遡ると思われる一群の等身大像が含まれているが、伝薬師如来立像はその代表的な作品の一つである。本像は、一見して太造りの重量感あふれる体躯をしめし、またその豊頬の顔立ちはどこか茫洋とした大陸的な趣を漂わせる。一方、偏袒右肩(へんたんうけん)にまとう大衣は、胸から腹、そして股間へと、身体の起伏に沿ってヴォリュームを強調すべく、図式的ともいえる衣文を表す。本像のような桧や榧(かや)など針葉樹の太い丸太をもとに、それらのきめ細かで清浄な材質感をできるだけ保とうとする一木造りの木彫像は、これ以降、奈良末から平安初期にかけて盛んに造られるようになった。独特のうねりをみせる衣文は、中国からもたらされた一部の壇像彫刻にも認められ、その間の密接な関連もうかがわせる。このような本像における大理石や壇像との作風的つながりは、8世紀中頃の中国における造像傾向をそのまま反映するものとみなされる。本像をはじめとする木彫の造像概念そのものにおいて、それ以降の日本の仏像に、少なからぬ影響を与えたことは十分推測される。

重文  伝衆宝王菩薩立像  木造  奈良時代(8世紀)

目頭に蒙古襞を刻み、眉根を寄せ気味に遠くをみつめる両眼はもとより、張り切った頬と強く引き締めた口元が本像の顔立ちに独特の機微さを与える。そして背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ体躯は、やや肩幅が広めながらも、太からず細かからず、バランス良くまとめられる。また正面の衣文の折りたたみなど、彫刻面に直角に刻みこまれたノミさばきは鮮やかで、像の静かなたたずまいに、峻烈ともいえる緊迫感をみなぎらせる。このほか、臂釧や腰の石帯の緻密な彫技に加え、冠帯や天衣の垂下部など像身から離れた部分もできるだけ一木で彫成しようとする意識は、当時、中国で盛んに造られた壇像のそれを思わせる。また、額に縦に表された一眼や腕のつけ根の痕跡から知られる六臂の形相は、雑密と呼ばれる初期密教の、特異な尊格が認められ、その作者は、和上に随行した唐工人、ないしはその直接的指導下にあった人物が想定される。

重分 伝持国天立像  木造  奈良時代(8世紀)  講堂

重分 伝増長天立像  木造  奈良時代(8世紀)  講堂

唐招提寺講堂本尊弥勒菩薩像の前方左右に立つ像である。その作風から一具同時の作とみることに問題はないが、本来の二点像なのか、四天王像中の中の二躯が残ったものなのかは不明である。持国天・増長天という名称も確かではない。二躯はいずれも頭上に髷を結び、顔をやや右に向け、左手を下げ、腰を右にひねって邪鬼上に立つ姿である。増長天は口を閉じ、右手に剣を取って高くかざすが、右腕は後補である。持国天は口を開いて、右手に三鈷を握る。ともに檜材の一木造りで、髻頂から足枘までを完全に一材から彫り出し、内刳りもない。表面は現在まったく素地をあらわしている。ずんぐりとした一種のユーモラスな、量感あふれる体躯の表現や、増長天像の腕下に巻かれた帯や腰甲の形などの新しい形式は、盛唐後期の石彫像に通ずるものがある。甲の細部やその装飾文様を克明に刻みだす点には中国壇像の技法の影響も認められる。唐代彫刻の最新の意匠を積極的に取り入れたところに、本像作者の姿勢がうかがわれる。

重文 如来立像  木造 彩色  平安時代(9世紀) 新宝蔵殿

頭部や手足が欠けたギリシャ・ローマの彫刻をトルソーと呼ぶ。この如来立像が唐招提寺のトルソーとして注目されるにいたる背景には、ヨーロッパ近代の彫刻に対する新しい見方がかかわっている。本像の立ち姿は瀟洒で美しい。ここまで来ると、この像の元の像の名前は問わないことで良いのではないだろうか?

西大寺

平城京の西、丁度東大寺と対応する位置に造営された寺院で、その草創は、天平宝治8年(764)、藤原仲麻呂の乱に際し、乱平定のため、孝謙天皇によって金堂四天王像が発願されて以降、孝謙上皇と上皇の信任厚かった道鏡によって大伽藍が造営され、宝亀年間(770~780)にはほぼ完成したとと考えられる。平安時代に入ると数度の火災で衰退したが、鎌倉時代、興正菩薩叡尊によって、戒律の復興運動と真言蜜教の修養のための中心道場として再興された。現存する当寺の仏像や工芸品の多くは、叡尊関係のもののみであり、その伽藍も、文亀2年(1502)の兵火でその大部分が壊滅した。(真言律宗)

重文 釈迦如来坐像  木造・漆箔  奈良時代(8世紀)

西大寺の五重塔の初層に安置されていたと伝えられた四体の如来坐像の一体である。他に、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来と呼ばれる像が現存している。四体ともに大きさがほぼ同じで、その作風や木心乾漆造りに近い構造を示すなど共通し、本来一具の像であったことが推定される。西大寺中興の祖叡尊の伝記である「感身学生記」に弘安6年(1283)に「御塔四佛」が補修され供養されたと記しており、この四佛が現在像に該当する可能性が高い。この釈迦如来像は当寺の四佛の中でも優れた出来栄えを示し、切れ長の目や丸く頬の張った顔立ち、やや太造りで柔軟性のある体躯、深いうねりを持つ柔らかい衣文表現は乾漆像に近い趣を示す。

重文 愛染明王坐像  木造・彩色 鎌倉時代・法治元年(1247)愛染堂所在

愛染明王は、空海将来の「金剛嶺楼閣一切瑜伽経」に説く名王で、人間の愛欲などの欲望すらも佛心に通ずることを教える仏である。西大寺愛染堂の秘仏本尊である本像は、五胡鍾を付けた獅子冠をいただき、宝瓶蓮華座に結跏跋座する三目六臂の姿で、「瑜伽経」に説く姿とほぼ一致する。

重文 釈迦如来坐像 木造  鎌倉時代・建長元年(1249) 本堂所在

西大寺の本尊として本堂に安置される釈迦如来像で、鎌倉時代に寺を再興した叡尊が自らの意向で造像を希望した由緒深い像である。叡尊の宗教的目的の一つはインドの釈迦時代の仏教の原点に戻って戒律を再興し、多くの人々に戒を授け、その仏縁によって衆生救済をはかることにあったが、釈迦如来像は叡尊の理念を象徴するに最もふさわしい尊像であった。現在、京都・嵯峨の清凉寺に伝わる釈迦如来像の模像の制作を希望して、弟子の堅任が施主10人、結縁者186人と相談して法治2年(1248)8月8日に造像を発眼した。建長元年(1249)3月13日に、西大寺から僧衆16人、大仏師善慶を中心とする仏師9人が、清凉寺に派遣され、翌年3月に清凉寺にて釈迦像を供養し、模造の制作を行った。その年の5月7日に開眼供養が行われた。

 

大和の地は、まさに「国のまほろば」であり、時空を超えた望郷の地として、わたくしたちの心を捉え、多くの人々が大和の古佛に魅了され、古寺の巡礼を繰り返している。この特別展では16の寺院から、仏像類が出品されている。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち  1993年」、山本勉「日本仏像史講義」を