特別展  大和古寺の仏たち(4)

大安寺

奈良市街の南西部に位置し、かったは壮大な伽藍を誇り、東大寺、西大寺に対して南大寺とも呼ばれたが、現在の境内はかなり縮小され、木立に囲まれた閑静なたたずまいを見せる。草創は聖徳太子の建立した熊凝道場に遡り、これを大寺にしたいという太子の遺志をを継いで、舒明天皇がその十一年(639)に百済川の畔に建立した百済大寺に始まると伝える。その造営は天智朝にも及んだとみられ、天智天皇7年(668)には、後世、薬師堂金堂の薬師如来像とりも優れると賞賛された乾漆造りの釈迦如来像が造立された。百済大寺の位置は現在の北葛城郡広陵町とされているが、天武天皇2年(673)に武市郡に移築されて寺名を高市大寺と改められ、同6年に大官大寺と改称された。大官は天皇を示し、大官大寺はまさに国家仏教の頂点に位置する寺院となった。平城遷都後、飛鳥の藤原京から平城京の左京に移されるが、その位置は右京の薬師寺と対応する。鎌倉時代以降は徐々に衰退し、その美観を失っていった。現在は、本堂や収蔵庫に安置されている木彫像、境内の南方にある広大な東西両塔の跡に往時の面影を伝えるのみである。     高野山真言宗

重分 伝不空羂索観音立像  木造 彩色  奈良時代(8世紀)

大安寺に伝わる木彫の観音像五躯のうちの1躯。八本の腕を持ち、不空羂索観音と伝えるが、腕はすべて後世補われたものに替わっている。現在の腕は像本体に対して小振りであり、全体に窮屈な印象を与えるが、当初は八本の腕の動きによって現状よりももっと大きな造形空間を形成していたと推定される。不空羂索観音は観音信仰の展開によって考えだされた様々な形をとる観音(変化観音)の一つで、十一面観音に次いで成立した。羂索(狩猟で使われた罠の一種)で、すべての人々や生き物を逃がすことなく救済し、あらゆる願いを叶える観音であり、日本では奈良時代から信仰され、東大寺法華堂(三月堂)の像はその代表的な作例である。本像は、通例の不空羂索観音が両目のほか、額中央に第三の縦の目が表されるのに対して両目のみであり、不空羂索観音の特色である鹿側をつけた形蹟がない点、やや像容を異にしている。なお、現在、本像はほとんんど木肌を著しているが、裳や天衣には草花や団花文などの彩色文様、截金にとる小花、銀泥描きの茎や葉などの痕跡があり、かっては華やかな彩色が施されていたことが判る。

重分 楊柳観音立像  木造・彩色 奈良時代(8世紀)

先の伝不空羂索観音像とともに大安寺に伝わる木彫の観音像五躯のうちの1躯。菩薩でありながら怒りの表情を示す、他に類例のみない像で、楊柳観音と伝えられるが、本来の尊名明らかではない。憤怒相の特異な像容から密教系の尊像であると思われるが、本像は弘法大師によって日本に密教が伝えられる以前の初期的な密教彫像の様相を示す作例として貴重である。

元興寺(がんごうじ)

奈良市街の中心、猿沢池の南方に所在し、かっては南都七大寺の一つとして栄え、壮大な伽藍を誇っていた。今では旧伽藍跡地の大部分に民家が建ち、往時の面影はわずかに極楽坊の一画や塔跡、小塔院跡などに残るだけである。草創は日本最初の仏教寺院として蘇我馬子によって飛鳥の地に建立された飛鳥寺(法興寺)に遡り、この飛鳥寺が平城遷都に際して平城京に移されて以降、元興寺と称されるようになった。平城京の移転は他の寺よりもやや遅れて、養老2年(718)であり、造営も8世紀後半まで及んだ。             真言律宗

重分 阿弥陀如来坐像 木造・彩色  平安時代(10世紀)

堂々とした姿の阿弥陀如来坐像で、もと本堂の厨子内に本尊として安置されていたが、現在は収蔵庫に移されている。伝来については明らかではないが、現在「大乗院寺社雑事記」(興福寺寺社雑事記)の、文明15年(1483)9月13日条によると、宝徳3年(1451)10月14日に大和の徳政一揆で願興寺禅上院の八角多宝塔が炎上した後に、その本尊阿弥陀如来像を極楽坊の道場に入れたという記載があり、本像がこの阿弥陀仏像に当たる可能性もある。高く盛り上がった肉髻(にっけい)、丸みのある顔立ち、柔らかさの肉親や着衣の表現など、全体にまろやかさが印象的な像である。本像は天平彫刻の伝統を濃厚に継承した造形を示していると言えよう。制作時期は、その顔立ちやなで肩の体形などに正歴4年(993)に造立されたことが知られる滋賀・善水寺の薬師如来坐像と共通する趣があり、10世紀末頃と考えられる。

法華寺

平城京の東、奈良市宝華町にある。この地は、和銅3年(710)の平城遷都の際に、右大臣藤原不比等等が邸宅を構えた所であった、養老4年(720)に不比等が亡くなると、光明皇后が受け継ぎ皇后宮としていた。天平17年(745)遷都を繰り返していた聖務天皇が都を平城に戻した時に宮寺となり、更に天平19年頃に、総国分寺である東大寺に対して、女人修養の場であり、天下の太平や人々の豊かに暮らせることを願う總国文尼寺(法華滅罪之寺)としての役割を担うようになった。造営と兵火、大地震等をへて、慶長6年(1601)より豊臣秀頼によって再興事業が行われ、現在の本堂や南門などが建立された。光明皇后の姿を写したと伝えられている本尊十一面観音立像は、平安初期に制作されたもので、慶長6年、秀頼の本堂再興に際して本尊とされた。

重分 維摩居士坐像  木造、彩色  奈良~平安時代(8世紀)

維摩は、「維摩経」の主人公として想定された人物で、釈迦の時代に毘舎利城に住んだ、学識に優れた富裕な居士(在家の仏教信者)である。いま法華堂本堂の一隅に安置されている本像は老貌痩躯の姿で、「維摩経」問疾品(もんしつほん)に説く、病をおして文殊菩薩と法論をたたかわす維摩の姿を現している。かって法華寺金堂で修されていた維摩会(ゆいまえ)が興福寺に移された後、金堂に西向きに安置されていた維摩居士像が興福寺を恋うて東南の方に向き直ったという話が記録されている。法華寺で維摩会が行われたのは延歴20年(801)以前の一時期であったという。本像は作風上その頃の作とみてさしつかえないので、そのせい制作時期はおおむねおさえることができる。

秋篠寺

西大寺の北西、秋篠の里の閑静な一画にあり、雑木林に囲まれた境内は落ち着いた風情を示し、本堂に安置されている伎芸天はその美しい姿でつとに知られいる。寺伝によると、当寺は光仁天皇と桓武天皇の御願により、善珠(ぜんじゅ)を開基として創建されたと云われる。開基の善珠は法相宗の高僧で、桓武天皇の護持僧としても活躍した。当寺には鎌倉時代の作例であるが、大元帥明王像が伝えられている。保延元年(1135)には兵火のため講堂を残して一山焼亡したといわれ、現在の本堂の南方には金堂や東西両塔の礎石が残っている。江戸時代中期に至って衰退の傾向を示し、明治の廃物希釈の際には無住となった。その後、浄土宗西山派に一時帰属し、やがて真言宗、法相宗兼学の寺として独立し今日に至っている。私には「伎芸天の秋篠寺」という印象が強い。 真言宗、法相宗兼学の寺

重分 梵天立像 奈良時代(8世紀) 頭部 脱乾漆造 彩色 体部 木造 彩色

脱乾漆造りの頭部に木造の体部を補った像である。梵天と呼ばれているが、本来の名称は明らかではない。補作の体部は、甲を着た上に丈帛をかけ裙を着けており、その姿はむしろ帝釈天を思わせる。同工の補作を行った四駆の像のうちでは、本像頭部はもっとも保存がよく、木製の天冠台や頭髪以外の彩色が後補であるほかは制作当初の原形を保っている。唐代8世紀後半の中国彫刻に類例がある。厳しい表情は、唐招提寺像ほどのスケールの大きさに欠ける。一方、表情の厳しさは一段と進んでおり、平安初期彫刻に通ずるものがある。秋篠寺創建期の奈良時代末期の制作であろう。

重分 伝菩薩立像(伝救脱菩薩像) 頭部 脱活乾漆造 彩色/体部 木造 彩色

秋篠寺に伝わる伎芸天・伝梵天・伝帝釈天・伝救脱菩薩の四駆の像は、いずれも頭部が脱乾漆造りで、体部は鎌倉時代に木造で補われたものである。これらの名称はいずれも仮の名で、いま救脱菩薩というめずらしい名で呼ばれている本像もその由緒は明らかではない。他の三像と同時期の制作とすれば、奈良時代末期の制作と見られる。体部は檜材寄木造り、彩色。梵天像と同様に正応2年(1289)頃の補作であろう。

 

秋篠寺と言えば、伎芸天像を思い起こすほど著名であり、多くの仏像ファンがいる。多分お寺の都合で、この展覧会には伎芸天像を出品できない事情があったのであろう。思わず、60年前の大和仏像鑑賞の旅を思い起こす、懐かしい寺名である。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち 1993年」、「南都大安寺」、亀井勝一郎「大和風物詩」を参照した)