特別展  大和古寺の仏たち(5)

百毫寺(びゃくごうじ)

奈良市街の東、高円山の中腹に建つ。この寺の創建については、天智天皇の発願により、皇子志貴親王の離宮を寺としたものであるとも、大安寺の勤操僧都(ごんそうそうず)が創建した岩淵寺の一院であるととも伝えられるが確かではない。鎌倉時代には律学を復興したことで有名な西大寺の僧叡尊(高正菩薩)によって再興されている。百毫寺は一切経寺とも呼ばれるが、これは当寺で春を告げる行事として親しまれた一切経転読に由来する。この一切経転読は、叡尊の弟子道照が発眼し、のちに中国宋より一切経を将来したことにはじまる。明応6年(1497)、兵火により本堂をはじめ、ほとんどの堂宇を焼失した。この後、復興は漸次進んだものの、再度火災に見舞われ、現在は本堂・御影堂などを残すのみである。真言律宗

重文 菩薩坐像 木造・漆箔    平安時代(9世紀)

大正6年に百毫寺から大阪市宝塚市の長尾山に移築された多宝塔に安置されていた像であるが、塔は桃山時代から江戸時代の建築であり、それ以前の伝来は不明である。寺伝では文殊菩薩といわれるが、伝来は不明であることや両手首から先が後補であることから、造像時の尊名は詳らかにし難い。かつ本像が密教像であったとは考えにくい。造像年代にゆいては、承和期の像に近似しながら、熟練した木彫技術や表現の硬さから9世紀後半とする意見があるが、本像の髻(もとどり)は安祥寺像のような側面で結束が複雑に絡む形とは異なり、神護寺像に近い。造像は承和期に遡る可能性もあると思われる。

法隆寺

聖徳太子が宮を開いた斑鳩の地は当時、大和と河内をむすぶ交通の要所であった。この地に今もいにしえの姿を伝える法隆寺は、聖徳太子一族のために建てられたお寺である。(近年、高校の教科書から「聖徳太子」という氏名が消えているが、私は、日本仏教史の上からも欠かせない人物であり、名称はともあれ実在したと考えている)お寺の創建について諸説あるが、仏教を信仰した聖徳太子が自らのお寺を建立しなかったとは考え難く、太子存命中の推古朝半ばには建てられていたと考えるのが妥当であろう。天智天皇9年(670)に法隆寺が落雷により被災したことという「日本書記」の記事を巡って、明治以降、いわゆる法隆寺再建、被再建論争が行われてきたが、西院伽藍の南に残る若草伽藍跡が昭和14年に発掘調査され、再建説が有力となった。私が大学1年生の頃まで、この論争は続いていたが、やはり再建説が妥当と思われる。現在せは、若草伽藍が推古朝に創建された当初の法隆寺で、それらが焼失した後、寺地を移して再建されたのが現在の西院伽藍であると考えるのが一般的である。再建は和銅年間(708~715)には終えたと考えられる。異論はあるが、再建説は間違い無ない。い。                      聖徳宗(しょうとくしゅう)

重文  菩薩立像  銅造  鍍金  飛鳥時代(7世紀)

両手で法珠を持ち、立ち上がりの強い連弁のついた蓮華座上に直立する。伝来の経緯が明らかでなく、寺伝では観音菩薩といわれるらしいが、観音の印である阿弥陀如来の化佛(けぶつ)が表されておらず、尊名も特定しがたい。頭や両手先・足先が太振りに作られ、全体に左右相称を保った厳格な作風をみせる。止利仏師作と伝える法隆寺金堂本尊釈迦如来三尊像(623)の脇侍佛に似通っており、7世紀前半の像佛界の主導的な役割をになった、いわゆる止利派の典型的な作例の一つに数えられる。

重文 観音菩薩立像(伝金銅阿弥陀如来脇侍) 銅造 鍍金 飛鳥時代(7世紀)

かって法隆寺金堂西の間本尊阿弥陀如来坐像の脇侍とされ、同像の台座下段にまつられていた。威容からみて、本来、単独像として造立された可能性が高く、いまは大宝蔵殿に安置されている。本体・台座・持物まですべて一鋳で仕上げており、この期の金銅仏の中でも精作に属し、古代の彫刻史を考える上で貴重な遺例といえよう。法隆寺献納宝物などにも類似した作風の像がいくつもあることから、法隆寺あるいは周辺で活躍した仏師の手になるものと考えられられていた。像容からみて、本来、単独像として造立された可能性が高く、いまは大宝蔵殿に安置されている。本体・台座・持物まですべて一鋳でしあげており、この期の金堂像の中でも精作に属し、古代の彫刻史を考える貴重な遺例といえよう。法隆寺献納宝物などにも類似した作風の像がいくつもあることから、法隆寺あるいは周辺で活躍した佛師の手になるものと考えられる。

国宝  観音菩薩立像(夢違観音) 銅造・鍍金  飛鳥時代(7世紀)

この尊像に祈れば、悪夢を吉夢に変えてくれる霊験があるという伝承にちなみ、何時の頃からか夢違観音と呼ばれ、多くの人々に親しまれている。江戸時代以降、法隆寺東院絵殿の本尊とされてきたが、それ以前の伝来が定かでなく、現在は同寺大宝蔵殿の北倉に安置されている。7世紀後半頃、中国大陸や朝鮮半島から新たな様式が波及し、それまでの抽象的・観念的な造形から、写実身のある柔軟な造形が日本でも徐々になされるようになった。飛鳥時代後期のいわゆる白鳳期の代表作の一つである。所々にわずかに鍍金が残り,往時、金色に輝いていた端麗な姿がしのばれる。

国宝 地蔵菩薩立像 木造 彩色 平安時代(9世紀)  金堂所在

本像は現在金堂本尊の背後に北向きに安置されるが、江戸時代までは奈良県桜井市の大神神社神宮司である大三輪寺に伝わり、慶応4年(明治元年、1868)の廃物希釈で同市の聖林寺に、さらに明治6年に法隆寺北室院に移されたという。像は円頂で、天衣・編纂・裙を着けて直立する。両手首より先を除き、連肉を含めて榧の一材より掘出し、表面には白土地を着けて直立する。両手首より先を除き、連肉を含めて榧の一材より掘出し、表面には白土地を施し彩色する。体躯は重量感に満ち、大衣脚部には量感を強調するy字型の衣文が表される。これは8世紀後半に中国よりもたらされた表現で、唐招提寺新宝蔵の伝薬師如来座像が日本に残る最も古いと思われる。

岡寺

飛鳥の東、里を見下ろす小高い丘の上にあり、龍蓋寺とも呼ばれる。その創建については、法相宗を広めた奈良時代初期の高僧義淵が、草壁親王の岡宮の地を天智天皇より賜り、寺としたのが始まりであると伝えられている。この説に従えば、遅くとも義捐が没した神亀5年(740)の文書に既に見え、旧寺地とみられる現在の伽藍の西方、治田神社あたりから飛鳥時代末の瓦も出土しており、これらのことからも岡寺の創建は7世紀末から8世紀初頭頃と思われる。平安時代に興福寺の末寺となり、興福寺の僧が代々この寺の別当となっている。平安時代の末に興福寺の末には本尊如意輪観音への信仰とともに、観音霊場三十三所のひとつとなり栄えた。また「水鏡」によると二月初午にこの寺へ詣で厄をよける信仰があったようである。                          信義宗真言豊山派

重文  菩薩半跏像  銅造  鍍金  奈良時代(8世紀)

岡寺の本尊如意輪観音坐像(塑像)の体内佛と伝えられている。榻(とう)と呼ばれる円筒形の椅子に座り、右足を曲げて足首を左足の上にのせ、右手首を軽く頬にそえた、いわゆる半跏思惟の姿である。寺伝では如意輪観音と言われるが、当寺の通例からすれば、恐らく弥勒菩薩として造立されたものであろう。半跏思惟の仏像は7世紀を中心に日本でも盛んに造立されたらしく、今日でも数多くの作例が残る。全体は一鋳になり、底部から榻座の上部まで中空につくられ、台座の下端近くの側面の四方に小孔が開けられている。この台座下部のつくりかたからすると、当初は、今の台座の下にさらに大ぶりの台座が取り付けられていたのかも知れない。

橘寺

岡寺からの道を西に向かって歩くと、河原寺跡と道をはさんで反対側、南の丘の上にある。この寺は正式には仏頭山上宮皇院菩提寺というように、聖徳太子生誕の地との伝承があり、当寺も太子建立七寺のうちの一つに数えられる。しかしながら、この寺の名が文献に見られるのは天武9年(680)の記事に岡寺の尼十坊が焼けたとあるのがはじめてであり、出土する瓦の年代からも7世紀後半、天智天皇のころの創建と考えるのが妥当と思われる。発掘の結果、創建当初の伽藍配置は堂塔が東向きに一直線上に並ぶ、四天王寺式の伽藍配置であることがわかった。鎌倉時代より、聖徳太子信仰に伴い繁栄したが、文安初年以降数度の兵火にあい、寛永元年(1628)ころには講堂と礎石のみを残すばかりであったという。その後復興され、現在は本堂、太子堂などが立ち並ぶ。

重文  伝日羅像  木造  彩色   平安時代(9世紀)

円頂で大衣・偏䙁・裙を着ける姿は地蔵菩薩のものであるが、寛政4年(1792)に行われた寺社の宝物調査記録である「寺社宝物展閲目録」では、すでに「日羅木造」と記されている。「日本書記」によると日羅は、583年に敏達天皇によって百済より日本に召されて国政を説き、後に随身に暗殺されたという。そこでは仏教との関わりは何も語られないが、後の聖徳太子信仰の高まりの中で太子の仏教上の師とされるようになる。橘寺には聖徳太子建立の伝えがあり、それが橘寺と日羅を結び付けたと思われる。本像が日羅として造像されたものではないことは推測に難くないが、明確に表現された髪際線、面を取って表される弧状の眉、左に捻る腰にあわせて左下方に視線を向ける切れの長い目、写実味のある口元、といった異相の風貌は”お地蔵様”のイメージでは捉えにくい。小さめな頭部とすらりとしたプロポーションには九世紀前半の重厚さの表現は認められない。また、正面では左に捻る腰も、背面ではその様子を思い起こさせるに足る表現はなされておらず、整理された衣皺線とともに時代の降下を示し、9世紀中頃の造像と考えられよう。

百毫寺、法隆寺、岡寺、橘寺、と奈良・飛鳥地方と多くの地域とお寺を巡ったが、法隆寺以外は、案外知られていないお寺ではなかと思う。私にとっては、大学時代の4年間にこのすべてのお寺を回り、社会人になっても何度か訪れた懐かしい古寺である。特に飛鳥地方は、大学3年生の春に、法学部のK君と同行して回ったのが最初であり、「日本書記」を片手に持って,回ったものであり、実に懐かしい。今回、展覧会に出品された仏像は、必ずしも、そのお寺の一級品ではないかも知れないが、私には掛け替えの無い青春の思い出である。まさに「大和し、うるわし」である。

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の仏たち  1993年」、竹山道雄「古都遍歴」を三照した)