特別展  大和古寺の仏たち(6・終)

室生寺

奈良県の北東部、室生川の上流の山間にある山寺で、四季折々の自然に溶け込んだ美しい景観を見せる伽藍と「女人高野」という名で親しまれている。当寺の建つ室生寺一帯は急峻な山岳や渓流によって神秘的な境内が形成され、山中には竜神が住むと信じられた龍穴と呼ばれる洞窟もあり、古来、竜神信仰の霊場として知られている。当時の創建の由来は、宝亀年中(770~78)に、後の桓武天王となった山部親王が病気になった時、室生山中で祈祷を行わせところ平癒し、その後、興福寺の僧賢珪(けんけい)が天皇の仰せを蒙って鎮護国家のために建立した寺であると伝える。賢珪の後を継いだ当時の興隆に務めたのが賢珪の弟子で興福寺の別当に任ぜられた修円であり、優美な姿で名高い五重塔はこの時期に建立されたと考えられる。9~10世紀にかけて、金堂が建立されるなど伽藍の整備が進められ、真言宗や天台密教の流れも加えながら、その後も長く興福寺との密接な関係を保っていた。しかし近世に入ると、当寺の帰属をめぐって興福寺と真言宗が争い、元禄年中(1688~1704)に至って真言宗に編入された。徳川綱吉の母桂昌院の帰依もあり、当寺が、女人禁制の高野山に対して、「女人高野」と呼ばれるようになったのは、これ以降のことである。私は、大学3年生の5月(1954)の連休後に、室生寺に初めて訪れた。殆ど訪ねる人もなく、階段の脇の美しい石南花(しゃくなげ)に魅入られ、更には本堂の部像群の美しさに圧倒され、小さな五重塔にも美しく感じ、「なんと美しい寺だろう」と圧倒されたことを思い出す。当日、大学では、イギリスの有名な女性経済学者が講演する日に当たり、講演よりも室生寺を選んだことに,幸福を感じた。65年前のことが、まるで昨日のように思いだされる。以来、室生寺は私の一番好みの寺となり、何回訪れたか思い出せない程、お参りをしている。

国宝  十一面観音立像   木造  彩色   平安時代(9~10世紀)

室生寺金堂須弥壇の向かって左側に安置されている十一面観音像である。伏し気味の細い目、丸くふっくらとした頬、やや突出した小さめな唇など、豊頬の女性を思わせる特色ある顔立ちを示し、現存する数ある十一面観音像の中でも、とりわけ美しく、親しみ深い像である。十一面観音は変化観音と呼ばれるいろいろな形をした観音の中では最も早く成立し、その超人的な姿はあらゆる方向に顔を向けて人々を救済する観音の力を象徴している。本像の頭上には、髻の上に如来の頭部(佛面)を一面、冠帯上の頭髪部の正面に穏やかな表情を示す菩薩面、その左側に怒りの表情を示す瞋努面(しんぬめん)、右側に口端から牙を出す狗牙上出(くげじょうしゅつ)面を各3面ずつ、さらに同背面中央に大笑いの表情の大笑面を一面の計十一面を拝している、二メートル近い大きな像であるが、頭体を通して榧の一材から彫り出され、背面から内刳りを施している。体躯には張と奥行きがあり、堂々とした量感を示されるが、誇張的なものではなく、頭部がやや小振りに表されているものの、頭体のバランスはよく整っている。本像は、平安時代初期一木彫の特色が整理され、さらに洗練された趣があり、その制作時期は9世紀末ないし10世紀初めに置くのが妥当と思われる。なお、現在の光背は後世補われたものであり、像の表面に残る漆箔や彩色もその大半が後世の補作である。

重文  伝安定羅大将立像  木造・彩色  鎌倉時代(13世紀) 金堂所在

重文  伝波夷羅大将立像  木造。彩色  鎌倉時代(13世紀) 金堂所在

室生寺金堂の須弥壇を囲む供物壇の正面内側台上に横一列に並べられている十二神将像のうちの2躯である。室生寺本来の像かどうかは明らかではない。いずれも十二支標識を頭上につけ、岩座上に立つ武装神の姿である。今回陳列の安定羅大将は午の,波夷羅大将は酉の標識をつける像で、いずれも炎髪を表し、甲の下に裾を垂らした衣を着ける。波夷羅大将の着衣の形式や右手を振り上げた姿勢は他の十二神将にもよくみられ、もととなった図像も知られるが、安定羅大将の袖なしの上半身の衣、または袴をつけずに素足に長靴を履く姿はくぁっており、典拠はもとより類例もあまりない。鎌倉時代初期に慶派仏師が制作したとみられる十二神将像に連なるものであるが、やや誇張が過ぎ、ぎごちなさもみえるところから、鎌倉後期、13世紀末ごろにくだる時期の制作とみられる。

重文  光背(地蔵菩薩立像付属) 木造 彩色 平安時代(9~10世紀)金堂

現在、室生寺金堂の地蔵菩薩像に付属している光背であるが、本来は、この堂の当初像とみられる安産寺の地蔵菩薩立像の一具をなしていたと考えられる。この光背は二枚の檜の板を中央で接合し、宝珠形の頭光や光脚などの輪郭を浅く彫り出したもので、表面には九体の地蔵菩薩と唐草や花などの文様が鮮やかに描かれている。葉の先端の一部が火焔のようになびく唐草の形をはじめ、文様の描法や配色法、光脚などは同寺金堂の中尊像の光背とよく類似している。この光背は、出色の出来栄えを示す作例の一つとして注目され、さらに、一般に知られる僧形の地蔵の姿を描いた絵画作品としても、日本最古の作例であり貴重である。

安産寺(あんざんじ)

室生寺に近い、室生村三本松の中村区に所在する無宗派の寺である。中村区には、三重方面に向かう近鉄奈良線の室生口大野駅からさらにもう1駅行った三本松駅にほど近い位置にある。当寺は、真堂とも呼ばれ、その管理は中村区によってなされている。本尊は地蔵菩薩像で、現在収蔵庫に祀られているが、その作風が室生寺金堂の中尊と近似しいつことから、本来は室生寺金堂に安置されていたと考えられている。この像がいつ頃当地に遷されたのかは明らかではないが、土地の伝承によると、その昔、当地を流れる宇田川が、豪雨によって異常に増水した時に川辺に流れ着いたもので、村人がこれを救って運んでいくと、現在地付近で急に足が進まなくなった。そこで村人はここが像の安住の場所であると悟って、この地に像を祀ったという。像内には貞享5年(1688)に修理が行われた際に収められた木札があり、その頃にはすでに当地にあったことが知られる。現在、この地蔵菩薩像は中村区の人々によって大切に保護され、「子安地蔵」と呼ばれて親しまれている。また毎年1月に初地蔵会、9月には本尊御命日の法会が行われるなど、篤く信仰されている。

重文  地蔵菩薩立像  木造、彩色   平安時代(9~10世紀)

もと室生寺の金堂に安置されていたと推定される地蔵菩薩像で、現在は室生寺に近い室生村三本松に所在する安産寺に祀られている。いつの時期に室生寺を離れて三本松の地に移ったのかは不明である。この像が安置されている新堂(真堂)の岡下を流れる宇田川(室生川の支流)に漂着したという伝承が残っている。像内には貞享5年(1688)の修理銘を墨書した木札が収められており、本像がその頃、すでにこの地にあったことが知られる。この作風は、室生寺金堂の当初像として中尊像と同一の工房によって製作されたと推測される。平安初期一木彫の特色を示しながらも、誇張の少ない体形や形式的な整いを示す衣文表現など、一歩洗練した感覚があり、制作時期は9世紀乃至10世紀の初めにおくのが妥当と思わせる。なお前掲した光背は、現在室生寺金堂に安置されているという地蔵菩薩像に付属しているが、その大きさの一致からも本来は本像と一具をなしていたと考えられる。(なお、私は、この地蔵尊を拝したことはない。室生寺に近いことは判っているが、どうしても室生寺の美しさに惹かれ、中々室生寺を離れられないのである。今となっては、少し地蔵菩薩を拝するために「安産寺」に行くことは難しい。

當麻寺

二上山の東南の麓に所在し、中将姫の伝s熱を持つ當麻寺曼荼羅と毎年5月14日に行われる迎講(むかいこう)で良く知られる。草創については正確な記録がないため明らかではないが、鎌倉時代の縁起によると、用命天皇の皇子麻呂子親王の発願によって建立された寺を、天武天皇10年(681)に、壬申の乱で功績のあった当麻真人国見が当地に遷し造立しあっと伝えている。天武10年という年次は、現在講堂に安置されている塑像の弥勒如来像や乾漆造りの四天王像の制作時期としても矛盾はなく、当寺はその頃に当麻氏の氏寺として創建されたとみるのが妥当であろう。奈良時代から平安時代にかけての東西両塔が建立されて伽藍が整備され、當麻曼荼羅を祀る現本堂(曼荼羅堂)の前身の堂も建立された。治承4年(1180)平家の軍勢によって金堂や講堂を焼いたが、後に再建されている。鎌倉時代に入ると浄土信仰の展開と共に阿弥陀浄土を描いた當麻曼荼羅が脚光を浴び、多くの信仰を集めていった。現在の宗派は寺内の子別院にて異なる。珍しいお寺である。で                             高野山真言宗勤                              浄土宗

重文 持国天立像(四天王のうち) 脱活乾漆造  彩色  飛鳥時代(7世紀)

金堂土壇の四隅に配される四天王中の一躯で、頬から顎にかけて表される雄大なひげが、その偉丈夫のさまを際立たせる。このひげは、麻布ないし獣皮のようなものを一本づつコヨリ状にした芯の木糞(こくそ)を盛って植え付ける丁寧なつくり方で、本尊の表面仕上げにかわる技法的な特色を端的に示している。本体は、塑土に麻布を漆で張り重ねて乾かす脱活乾漆造りからなる。本像で際立つのはその異国性である。大きな襟を立て、肩で締める形はもとより、胸甲・肩甲・背中のそれぞれを独立的に表し、かつ、その下方の胴部両脇に当てた腰甲とそれを締める幅広の皮状玉帯、さらには最近しばしば言及される未だ日本化されない前楯(まえだて)など、その服制は成都万仏寺出土の神将像や敦煌莫高窟第220窟北壁薬師浄土図中の神将など、中国6世紀後半から7世紀にかけての神将像のそれを正しく継承する。鎌倉時代にはすでにそれらが金銅に祀られていたことが明らかである。一方、他の作例との比較では、飛鳥前期の法隆寺金堂四天王や同玉虫厨子の神将像、同じく飛鳥後期の法隆寺ー橘夫人厨子扉絵の神将像、さらには法隆寺金堂壁画の九号壁中の神将像などからあげられる。このうち最も近いのは法隆寺金堂壁画であるが、中国・敦煌膜後窟第220窟のそれとの近接も著しい。これらを総合すると年代は、やはり本寺創建の天武朝から持統朝にかけて造られたとみるのが妥当であろう。

(1993年に東京国立博物館で開催された「特別展 大和古寺の佛たち」と題する展覧会の図録を参照して、1から6まで合計6回に分けて記載した、思いがけない長い「美」となった。6月から博物館がコロナのため、逐次閉館されるようになったので、古い図鑑を活用した「美」は、まだ続くと思う。この「大和古寺の佛たち」は中々、力の入った展覧会であったと思いながら、この長い6回に亘る連載を終わることにしたい)

 

(本稿は、図録「特別展 大和古寺の佛たち  1993年」、図録「特別展 日本仏教美術名宝展  奈良国立博物館 1995年」を参照した)