特別展 大和古寺の仏たち(2)

興福寺

美しい芝生の上を鹿が戯れ遊ぶ奈良公園。その一画に興福寺はある。藤原氏の氏寺であるこの寺の歴史は藤原鎌足の妻が建てた山階寺に始まるという。その後、鎌足の子の不比等により飛鳥の地に移され厩坂寺(うまやさかでら)と称し、更に和銅3年(710)の平城京遷都に伴い現在の地に移った。当時は、大極殿から離れた、坂の上の寺に見えたかも知れないが、現在、奈良市内から見れば、一番の好立地であり、目立つ場所である。平城京に移転した後、不比等の死後も藤原氏一族とと朝廷のの力を背景に、着々と伽藍が整備されていった。平安時代以降の興福寺の歴史は火災と復興の歴史である。治承4年(1180)には平重衡の焼打ちにあい、東大寺同様に堂塔の大半を焼失してしまうが、この時も順次復興された。(法相宗)

重文 薬師如来坐像  平安時代(長和2年ー1013年頃)

螺髪の大半が失われているが、そのきりっとした端正な顔立ちが印象深い像である。かっては釈迦如来とされていたが、像内から発見された「薬師経」の奥書によって薬師如来として造られたことがわかった。この奥書には仏堂を造り、お経を自ら書くという願文(がんもん)の次長和2年(1013年)8月12日の年紀と沙門輔静(ほせい)という願主が記されている。また、この奥書に記された宝治元年(1247)の修理銘には「三尊」とあるので、本来は本尊の他に両脇侍像があったことが知られる。しかしこの両脇侍像をはじめ、光背、台座、持物の薬壺(やっこ)が失われ、安置されていた仏堂も不明である。仏像破壊の明治初年の「廃仏希釈」の被害佛かもしれない。(黒川私見)

国宝  伝宮毘羅大将像(板彫十二神将のうち) 平安時代(11世紀)国宝館内

国宝 伝真達羅大将像(板彫十二神将像のうち) 平安時代(11世紀)国宝館内

厚さ3センチメートル程度の檜の板から十二神将を半肉彫りにした珍しい作例である。12面全部が現存しているが、本展では伝宮毘羅大将と伝真達羅大将が出品されている。猫背風に両肩を下げて、左斜前方を見据える三度羅、正面を向き、口を「へ」の字に曲げて合掌する真達羅、ともに髪を逆建てて怒りの表情を示すが、ユーモラスな雰囲気をたたえている。自在な彫り口、面と面の微妙な段差と起伏によって、浮彫り像とは思えないほどの立体感と奥行きが表され、制約された方形の枠内から前面に飛び出してきそうな迫力ある造形を示している。」「興福寺濫觴記」の東金堂の項目に、この板彫に相当する十二神将の記載がある。東金銅は薬師如来を本尊としているので、仁和寺旧北院の薬師如来像(白檀製)や教王護国寺金銅の約如来像の例から考えて、この板彫像は東金堂の薬師像の台座の側面を囲むように貼られていたものと推定される。

国宝 天燈鬼立像 木造・彩色 鎌倉時代(13世紀)

もと興福寺西金銅に安置されていた。仏前に捧げる大きな灯篭をかかげる鬼形像である。本造は左肩に灯篭を担ぎ上げて腰をひねり、右腕、右脚を側面に張って立ち、激しく怒号する姿で、灯篭を頭上にのせて黙して立つ龍燈鬼と一対をなす。二像は阿吽の組み合わせであるとともに、両者間で動静二態の巧みな対象を図っている。江戸時代の「享保弐日時記」によると龍燈鬼の複内には健保3年(1215)に仏師法橋康弁が造った旨を記す書付が納入されていたという。康弁は運慶の三男に当たる仏師であるが、写実を基調とした見事な出来栄えは運慶子息の作にふさわしく、伝えは信ずるに足りよう。

東大寺  東大寺大仏殿除夜  入江泰吉氏撮影

奈良市街の東北、若草山のふもとに今も威容を誇る全国の区分時の上に立つ総国分寺として位置づけられたこの寺の歴史は、天平15年(743)に聖武天皇の出した大仏建立の詔に始まる。当初、大仏の建立は信楽宮にて着手されたが、天平17年の平城京遷都にともない現在の地に変更された。平城京の外宮にあたるこの地には、大和国分寺と定められた金鐘寺があったが、そこに大仏建立の地として選び、大伽藍の造営が始まった。同年8月にはやくも着工し、天平勝宝4年(752)にはインド僧菩提僊那を開眼師とする開眼供養が盛大に行われた。治承4年(1180)には平重衡の焼打ちによって堂塔の大半を焼失するという甚大な被害を受けたが、これを復興したのは重源である。鎌倉時代に復興された堂塔は、永禄拾年(1567)の兵火で再び大きな被害を受けた。その後復興はなかなか進まず、現在の大仏殿は江戸時代になって創建時よりも規模を縮称してようやく再建された。宝永6年(1709)に落慶供養が行われた。大仏殿の裏には高度の礎石が今も残り、江戸時代に再建された大仏殿ともども往年の規模の大きさにを偲ばせる。(華厳宗)

国宝 誕生佛釈迦如来立像   奈良時代

仏伝では、シッダルタ太子(後の釈尊)は、母マーヤー夫人がルンビニ園でアショーカ樹の花を摘もうとして右手をあげたとき、その右脇の下から誕生したとされる。生まれたばかりの太子は、七歩歩んで天地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱え、温冷二種の水で浄められ(灌頂・潅水)た。インドやガンダーラでは、この一連の場面を表した仏殿浮彫が多数あり、ナーガ(龍)、あるいはインドラ(帝釈天)とブラフマー(梵天)に潅水され、天空にはハーブ、太鼓などの楽器が舞い、仏陀の誕生を祝福する様が描かれている。インド・ガンダーラの作例では、太子は両腕を垂加するか、施無畏印を結ぶように挙げているものが多く、本像も含めて朝鮮・日本の誕生佛には通例の姿である右腕を天に向かって高くさしあげているものがみられない。本像は、右手前膜で手をついてでいる以外は、一鋳である。ふくよかな顔に笑みを浮かべ、赤ん坊のような腹や腕のくびれを表現した豊満な肉体は、大仏殿前の八角灯篭火袋の音声菩薩彫像とも類似しており、ともに天平勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼会の行われた頃に制作されたと考えられている。

重文  弥勒菩薩坐像  木造  平安時代(9世紀)

本像の大きい頭部と小さい脚部の比例は、巨像のそれを思い起こさせる。前傾させた体躯や前に突き出した頭部、指先が像底よりもさらに下方に伸びる襞る手は、観る者に迫ってくるような印象を与える。この像は「試みの大仏」の名で広く知られる。なお、明治25年の「国華」31号に「東大寺廬舎那仏雛形」と紹介されるのが、この呼称に関わる最も古い記録のようである。本像は明治37年までは法華堂に安置され、今でも本尊不空検索観音像の背後には、それまで収められていた小厨子が置かれている。

重文 阿弥陀如来立像  快慶作  木造  鎌倉時代(13世紀)俊乗堂所在

運慶とともに鎌倉時代を代表する仏師として著名な快慶の代表作の一つで、彼が最も得意としたいわゆる三尺の阿弥陀如来立像の優作である。像の右脚枘正面に「アン」(梵字)の刻銘があり快慶が安阿弥陀仏と名乗った時代の作である。快慶は制作の時期によって、「仏師快慶」、「巧匠アン阿弥陀仏」、「巧匠法橋快慶」、「巧匠法眼快慶」の名を作品にとどめているが、建久3年(1192)から建仁3年(1203)に及ぶ十年間は「巧匠アン阿弥陀仏」(安阿弥陀仏)時代は、快慶が作家として最も充実した時期であり、彼の阿弥陀信仰の師である重源上人関係の造像を精力的行ったことが知られる。重源は東大寺再興の勧進上人で、念仏を中心に造寺造佛などに結縁して事業を推進する独特の阿弥陀信仰集団を率いていたが、快慶の三尺阿弥陀像は彼らから来迎阿弥像の典型として高く評価されたばかりでなく、法然上人の念仏集団からも歓迎されて、後世に至るまで大きな影響を与えていく。快慶が制作した三尺阿弥陀像は、絵画的に整えられた美しい衣文線や穏やかな形姿による優美な表現に特色があるが、特に安阿弥時代の作品には頭頂部を除く表面全体に金泥を塗り、衣の部分にはさらに切金(きりがね)文様を表す入念な仕上げが採用されている。俊乗堂にも七宝繋ぎ、四ツ目亀甲、二重斜格子、籠目などの繊細な切金文様のきらきらとした輝きが見事に調和している。

 

本稿では、興福寺、東大寺の優れた仏像を紹介した。中でも快慶作の阿弥陀如来立像が好きである。最も優れた快慶の仏像として紹介したい。

本稿では、興福寺、東大寺の優れた仏像を紹介した。中でも、私は快慶作の阿弥陀如来立像が好きである。最も優れた快慶作の仏像として紹介した)