特別展 神仏人 心願の地(1)

多摩美術大美術館で、表記の展覧会が9月1日より10月14日まで開催されている。私は、初日・9月1日の10時から約2時間観覧し、更に午後1時から3時までのトークセッション「世界に一つー加東遺産を語る」(加東市の歴史と文化)、クロストーク「京へ続く丹波道」を午後3時まで聴き、更にその後午後4時まで、多摩美術大教綬と加東市教育委員会文化財係による展示物の説明を聞き、結局1日を、この美術展に費やした。これほど長い時間をかける展示会は初めてである。時間をかけた理由は、1つは加東市とは兵庫県の都市であり、かって2年間神戸に住んだ私にとっては、懐かしい場所であったからである。今一つは、展示名である「神仏人 心願の地」という題名と展示された仏像類が全部初めてお目に懸る仏像類であり、ここで見逃すと、一生見られない内容であると思ったからである。事実、この展覧会を見て、この想いは間違いがい無いことを確信した。「心願」とは、広辞苑によれば「物事の要点をはっきりと見分ける鋭い心の働き」と説明している。思うに「鋭い心の働く土地」との意味であろうか?「かみ、ほとけ、ひと」に対し「鋭い心の働く土地」の意味であろう。私は、神戸に2年間棲み、働いた土地であり、兵庫県内で知らない土地は無いと自負していたが、情けないことに加東市という土地には全く記憶がない。しかし、加西市という土地名を覚えており、多分その東の都市だろうと、大体の推測はついた。図録の「ごあいさつ」を読んではっきりした。加東市は平成18年に社町、滝野町、東条町が合併して誕生した新しい地名であり。知る筈がないのである。その場所は、神戸よりやや北西に位置し、三木市や加西市に隣接する土地である。加東市は、古くは播磨国風土記に記載のある賀毛群(現在の加東市・小野市・加西市域)に属している地域とされ、平安時代以降東西二つに分断された加東郡(加東市・小野市)と加西群(加西市)という地名が誕生した。この時期から、市内を東西に横断する主要道路の丹波道が積極的に活用されるようになり、この地が歴史の舞台に登場する機会が増えた。また市内を南北に縦断する一級河川加古川の存在も、この地域の歴史にとっては欠かせない。内陸部の物資を大阪方面に送るために発達した舟運の重要な拠点として舟坐が設けられた。当地域は、多くの社寺、大名・旗本の領地となり、中央政界とも密接な関係を持つに至り、豊富な文化遺産が現在に引き継がれているのである。

播磨国風土記  佐保神社本  江戸時代末期~明治時代  佐保神社

風土記とは和同6年(713)当時の朝廷が各地の役所に命じて作らせた、日本最古の地誌である。現存するのは、常陸国・出雲国・肥前国・豊後国・播磨国風土記の5つのみである。これは播磨国風土記の内容が記載された写本であり、和綴じの冊子で、計51紙で構成される。本資料は、幕末~明治期に在世していた佐保神社の宮司神崎長平が書写したものと推定される。明治期まで、風土記が書写されていたことに驚いた。日本人の向学心の高さに驚かされた。

出土祭祀土製品(阿高・上の池遺跡出土)  古墳時代中期(5世紀後半)加東市

河高・上の池遺跡は扇状地に位置する。この遺跡の東端付近から、二棟の竪穴式住居跡が見つかっている。この竪穴建物遺跡は、広大な扇状地上に一棟のみ存在していたことから、集落を見下ろす位置に建設された特殊な施設であると判断された。この特殊な施設は、何等かの祭祀を執り行う場であった可能性が高い。これらの土製品は、現時点では、日本で唯一の祭祀用品であるそうだ。「播磨国風土記」には、荒ぶる神を鎮めるために人形を使ってお祀りが行われたと言う記載があることから、この土製品は、風土記に記された祭祀が5世紀中頃には既に行われていたことを示すものであろう。

木像地蔵菩薩立像  平安時代(11世紀)        東古瀬地区

平安時代中期から後期と目される仏像の作例が90体以上、この地域に伝わっている。播磨国風土記にある加茂郡は現在の加東市、加西市、小野市、多可郡等の行政区域を含み、この加茂郡には有力貴族や寺社の地領地が散在したことが、大きな理由であろう。この地蔵菩薩は、まさに心願の造形である。頭から足まで一材で刻み内刳を施す地蔵尊である。両手首と足先は後補である。広い肩幅と堂々とした体躯は、平安時代の特徴を示す。

木像十一面観音菩薩立像  平安時代(11世紀)       沢部地区

頭部からは足枘までを一材で彫る一木造である。手首と足先、頭頂仏と化仏は後補である。彩色は近世の修理であろう。全体として保管状態は、極めて良い。

木像  地蔵菩薩像   平安時代(11世紀)    沢部地区

頭部から足枘まで一木で彫る一木造である。両手首と足元から先は後補である。江戸期と思われる彩色補修が見られる。着衣は厚さがあり、裳の下裙は足首上辺りまで垂れる。本像のように腹部を丸く隆起させる特徴は丹波の達身寺に多く見られ、「達身寺様式」と呼ばれる。丹後との文化交流が見られ、この地区の先進性を示す事例である。

木像  薬師如来坐像   平安時代(12世紀)    東光寺

結跏趺座し衲衣を着す薬師如来坐像である。螺髪は表さない。右手は屈臂し胸前で施無為印を取り左手は膝上辺りで掌を上に向け薬壷を載せる。ヒノキの一材から彫り出した後に、前後に割り矧ぎ、内刳りを施して接合し、細部を仕上げる割矧造である。眼は玉眼で造立当初からのもの考えられる。穏やかな風貌や浅い着衣の彫りから考え造立は平安後期の頃となろう。

木像 阿弥陀如来坐像  平安時代(12世紀)   東光寺

来迎印を結び結跏趺座する阿弥陀如来坐像であり、玉眼で、前者の薬師如来坐像と共に同じ厨子内に安されていいる。薬師像との共通点が多い。一方、螺髪の有無や面相の造り、薬師像の衣文が簡略化されていることなど作風の差も見られる。共に玉眼の早い時期の作例であり、遠からぬ関係にある仏師(例えば兄弟弟子等)によって造立された可能性もある。

木像  薬師如来坐像  平安時代(12世紀)  多井田地区

結跏跋座する薬師如来坐像である。右手は施無為印、左手は薬壷を載せる。衲衣を偏祖右肩に纏い偏杉を着している。頭部から体部を檜の一材で彫刻し、横一材から膝前及び裳先を共に刻出し矧ぎ着ける。膝前に載せるのは後補の手首である。制作時期は平安後期である。面貌は穏やかである。

木像 阿弥陀如来坐像(左) 室町時代(元亀2年ー1571)  貞守地区    木造 薬師如来坐像(右)  室町時代(元亀2年ー1571)  貞守地区

 

頭部から蓮華座までを一材で刻む阿弥陀如来蔵王である(左)。衲衣を通肩に着し、蓮華座上に結跏跋座し腹部で定印を結ぶ。小像ながら量感も併せ持つ像である。像が負う舟形光背も当初のものであり、像の彩色も含め良好な状態で制作時の姿を留めている。背面には墨書銘で作者、光背の裏には「元亀二年辛未/一躰乃施主常住坊源重律師/六月廿日」の墨書銘が残り、仏師と施主そして造像年月日が判明する際めて珍しい像である。薬師如来坐像にも像の背面、及び光背裏に全く同じ墨書銘が残り、両像は、仏師と施主そして制作年月日が判明する極めて珍しい像である。

紙本 熊野勧人十界図  江戸時代中期(18世紀)  持法院

熊野観心十界図は、視心十界の世界を描いた作例の一つ。「心」の文字を中心に、六道四聖を放射線状に展開させるところに図像的特色がある。十界は六道の地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天、四聖の声門、緑覚、菩薩、仏のことである。勧心十界図の図像名に熊野の地名を冠しているのは、熊野との強い結びつきから命名されたものである。熊野観心十界図は熊野比丘尼が地獄極楽の説教に用いる図像として開発された。では、どのような地獄図なのであろうか。絵の寸法はタテ140cm、ヨコ約130cm。大きな画面には地獄を初めとする様々な世界が描かれている。絵具は安物の泥絵の具、そして、その絵は庶民の感性に訴える素朴な筆致である。熊野比丘尼が所持していた熊野歓心十界図は工房で量産だが、その工房は明らかではない。16世紀は、戦国動乱の時代であった。日本の社会は大きな変革期を迎えていたが、その一つに庶民層における「家」の成立がある。「家」は暮らしの拠点でありと同時に、家名、家業、家産を継承する母体であった。庶民の自立と家意識の高まりは無縁ではなく、庶民はこの時期、自分たちの人生を考え、自らの死後世界と向き合う時代を迎えた。この「家」意識の広範な成立は、先祖の安楽と家の安泰が結びつき、先祖への報恩・供養の重要性が説かれたのである。熊野観心十界図は、家意識の高まりの中で新しく登場してきた来世の世界観を積極的に取り入れた「家」社会の地獄絵であった。この制作時期は16世紀以降とみて大過ない。

 

兵庫県加東市に伝わる播磨風土記や「心願の造形」を見てきたが、「播磨国」が持つイメージより遙かに都会的、京都的であることに強く感銘を受けた。これは隣接する摂津国、丹波国からの都会的(京都的、大阪的)文化の影響であろう。その意味で、加東市を南北に貫く丹波道の影響が大きいであろう。神戸の持つ先進的と姿性は、明治以降の開国の賜物であり、18世紀以前の播磨国は、源平の戦場跡であり、この「心願の地」が示す先進性を持っているとは思ってもいなかった。この展覧会から得たものは、播磨国の先進性であり、仏像、仏絵の優れたものが多数残されていることである。また、多摩美大美術館が、案外私の住いから近いことも、一つの発見であった。

(本稿は、図録「特別展  神仏人 心願の地 2018年」、探訪日本の古寺第13巻「近畿」を参照した)