狩野元信展   天下を治めた絵師

狩野元信(147?~1559)は、室町時代より400年間に亘り日本画壇の中央を担ってきた狩野派の二代目である。狩野派とは、血縁関係でつながった「狩野家」を核とする絵師の専門集団であり、元信は始祖・正信(まさのぶー1434~90)の息子として生まれた。正信は優れた画技を持ち、その作品は歴代の狩野派絵師の中でも最も高く評価されているのみならず、工房の主催者として勝れた能力を発揮した。画技と統率力、組織力に抜群に優れた絵師であった。幕府の御用絵師となった狩野派は、日本絵画史上最大の画派へと成長していくが、その繁栄は二代目元信なくして語れない。狩野派の台頭を支えた要因の大きなものに、「画体」(がたい)の確立がある。従来の漢画系の絵師たちは、中国名家による手本に倣った「筆様」(ひつよう)を巧みに使い分け、注文に応えた。元信はそれらの「筆様」を整理・発展させ真・行・草(しん、ぎょう、そう)の三種の「画体」を生み出した。その「型」を弟子たちに学ばせることで、集団的な制作活動を可能にした。襖や屏風などの制作時には弟子たちが元信の手足となって動き、質の高い大画面を作成することに成功した。すなわち、オルガナイザーとしても、素晴らしい能力を発揮したのである。また父・正信は中国絵画を規範とする漢画系の絵師であったが、元信はさらにレパトリーを広げ、日本の伝統的なやまと絵の分野にも乗りだした。濃彩の絵巻や、金屏風の伝統を引き継ぐ金碧画(きんぺきが)など、形状・技法の導入に加えて、風俗画や歌仙絵など、やまと絵の画題にも積極的に挑戦し、特に扇絵制作は、工房を維持する上で、重要な仕事となった。このように和漢の分野で力を発揮し、元信工房は多様なパトロンを獲得していった。なお、本稿では、元信の作品を中心に開設する。図録には、初代正信、中国画人の優品が多数紹介されているが、極力、元信の作品の作品を中心とする。

重要文化財 四季花鳥図 狩野元信 (旧大仙院方丈壁画)室町時代(16世紀)

大徳寺大仙院方丈では、室内に相阿弥が担当した瀟湘八景図を描き、元信が旦那乃の間に「四季花鳥図」と衣鉢乃間に「禅宗祖師図」を担当した。制作は永正十年(1513)頃であり、現存する元信の作品としては最古である。この作品では、画題の骨組みとなる松や岩、滝などを水墨で描き、一方、画面の主役である美しい花や珍しい鳥の絵は、いずれも着色で、しかもほぼ実物大に描かれている。大仙院四季花鳥図の中には、ひとつの作品の中に和の要素と漢の要素が併存しているのである。これもまた、元信の「漢にして倭を兼ねる」(本朝画談)画風を表している。元信の代表作であり、かつ最古の作品例である。(なお、大仙院は2016年1月16日の「大徳寺と塔頭・大仙院」の中で「石庭の寺」として詳しく報告しているので、ご確認いただきたい)

重要文化財 禅宗祖師図(部分)狩野元信作六幅(旧大仙院方丈壁画)室町時代(16世紀)京都国立博物館

この障壁画は衣鉢(いはつ)乃間に設えられたもので、元信の真筆と認められている真体人物の代表作である。この部分は5.六祖渡航、6.徳山托鉢、の場面である。すなわち5、五祖・弘忍(ぐにん)が六祖・慧能(えのう)を送る場面、6.まだ食事の合図が無い内に、鉢を持って出てきた徳山宣鑑(とくざんせんがん)禅師を見て、弟子の雪峯義存(せっぽうぎぞん)が声をかけ、徳山は戻るが、後にその真意を悟る話が表されている。巨岩や土埞、樹木、橋などの山水景物の描き出す力強い線や、モチーフを重層的に組み合わせる構築的な構図、人物の表情を的確に捉える筆さばきなど、いずれも出色の出来栄えである。

浄瓶踢倒図(じょうへいてきとうず)狩野元信絹本墨色一福室町時代(16世紀)

京都市指定有形文化財に指定されている唐時代の人物画であり、無款であるが、元信真筆とされる行体人物画である。この主題は、唐時代の高僧・百丈懐海と弟子の司馬頭陀が、湖南にある潙山に住山せしめる者を弟子からひとり選ぶことになり、善覚首座と霊祐典座の二人が候補となった。百丈は浄瓶を示し、「これを瓶と呼ぶべからず。では何と呼ぶか」という公案を与えたところ、霊祐は瓶を蹴倒して立ち去った。その結果、霊祐が選ばれたという。本図では向かって右が霊祐、左の岩座に坐す老僧が百丈、袈裟を着ていない奥の人物が司馬頭陀、手前が善覚であろう。元信は同じ画題を「禅宗祖師図」でも取り上げているが、それぞれの表情は本作の方が豊かである。

本湍図(ほんたんず)「元信」印 紙本淡彩一福室町時代(16世紀)大和文華館

「本湍図」は典型的な元信様式の真体山水図で、秋元公爵家から原三渓の手に渡った名品であり、一本の掛軸となっている。画面左下に「元信」の朱文壺形印があるが、掛軸に改装時に捺されたものであろう。岩の細かい皺法や濃い青を基調とする彩色から、元信本人ではなく、有力な弟子の作とする指摘があるが、力強い流水表現など、作者の腕の確かさがうかがえる。

重要文化財 瀟湘八景図 狩野元信筆 紙本墨画 四幅 室町時代(16世紀)東海庵

元信による行体山水図のなかで、最も高く評価されている作品である。瀟湘八景とは中国・湖南省で瀟水と湘水という二つの川が合流し、洞庭湖にそそぐ景勝地を八つの景観として描く画題を言う。本作では一福に二景ずつ表されている。このような描写はともに室町幕府に仕える相阿弥から、大仙院での共同制作を通じて学んだものと言われているが、元信はモチーフや構図をより明確にし、判り易い画面に仕上げている。各福の右下に捺される「元信」朱文津語形印は基準印の一つである。

群雁図屏風 「元信」印 紙本墨色 六曲一双 室町時代(16世紀)サントリー美術館

松が枝を指し伸ばす水辺に七羽の雁が群れて身を寄せている。左方を眺める雁の視線の先には燕が飛んでいる。元は六曲一双の右隻に当たり、「花鳥図屏風下絵」の四双目の下絵に類例を見出せる。画面の右端下方には「元信」朱文壺形印が捺されている。筆写については諸説あるが、元信自身の可能性が高いと思われる。松の針葉や枝振りなど細部の筆致から見ても、やや工房的性格も認められる。

重要文化財 酒伝童子 「元信」印 紙本着色一福 室町時代(16世紀)サントリー美術館

源頼光が家来の四天王である綱・侯時・末武・及び藤原保昌らを引き連れ、八幡・住吉・熊野の緒神の加護を得て、近江国伊吹山に住む鬼神・酒伝童子を退治する物語を描く。この絵巻は小田原北条氏の第二代・氏綱(1487~1541)の発注によるもので(異説がある)、絵は狩野元信、奥額は三条実隆が担当しており、当時の京都でも第一級の文化人たちが集結している。絵に関しては、場面によって描写の精粗に差があるため、最も優れた出来栄えを示す第一巻は元信、第二・第三は有力な弟子が中心になって制作に当たったとする説が有力である。第三巻(写真)は、鬼が泥酔し、本来の鬼の姿に戻った童子の寝所に討ち入り、見事にその首を刎ね、退治するクライマックスである。童子は首を切られてなお毒気を吐き掛け、頼光に噛みつくが、氏神から授かった帽子甲の力で無事であったという。絵からは土佐派を始めとするやまと絵系絵師の絵巻から学んだ様子が見えて取れる。狩野派は、やまと絵の絵巻物まで、注文を取るようになったのである。

月次(つきなみ)風俗図扇面流し屏風「元信」印紙本金地着色室町時代(16世紀)京都・光願寺

川面を背景に、まるで扇流しのように散らされた二十四面の扇面は、京名所や祭礼、年中行事を表す。画題は正月の左義長(さぎちょう)から、六月の祇園山鉾巡行まで、一年のうちの上期のものに限られる。(右側)現状は六曲一双のみ伝わるが、おそらく当初は、下期のもう一隻とあわせて月次風俗を描いた一双屏風であったと考えられる。実際に扇として使用された折り目の残る各扇面には、元信の基準印の一つ「元信」朱文壺形印が捺されており、永承13年(1516)から天文17年(1548)頃に、元信工房で制作されたことが確実な扇として貴重である。元来、扇絵は主としてやまと絵系や町絵師系によって生産されていた。しかし元信は、新しい顧客獲得を見込んで、扇絵制作に積極的に乗り出した。扇絵を新たに求め始めたのは、京都町衆であろう。なお、この屏風は、私は江戸時代に、現在の屏風の形にされたものだと考えている。

白衣観音像 狩野元信  紙本着色 一福 室町時代(16世紀)ボストン美術館

この白衣観音像を見た時に、私はこの絵は一度見たことがると思いだした。帰って図録集を調べたら1983年の「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展」の図録に掲載されていた。34年前に一度見た白衣観音像を、思い出した勘には驚いたが、名品中の名品である。忘れる訳がない。元信の確実な作品である。全体を墨隈して幽遂な崖下の空間に、二重の光背を負い禅定印(ぜんじょういん)を結んで結跏賦座(けっかふざ)した白衣観音を描く。胡粉塗の白衣に墨の衣文線、頭の飾り、胸の瓔珞(ようらく)には金泥、頭髪は白群色であらわした正面向きの像容である。背景の懸崖や岩の皺、波頭に見られる手堅い技法を本格的に取り入れている。私は、この仏像の神々しさに、自ずから頭が下がった。元信による仏画の最高傑作である。仏画は本来、仏画の専門職人が制作するものであったが、狩野派は、確実に仏画の部門で最高傑作を造りだしている。この神々しさは、34年経っても忘れることが出来ない傑作である。なお、本作は阿波の蜂須賀家の旧蔵品で、山中吉兵衛(後の山中商会)からフェノロサが購入し、愛蔵していた。

重要文化財 神馬図額 板字着色 2面 室町時代(16世紀)兵庫・加茂神社

正信自身の署名と花押の捺された大型絵馬は、室町時代の絵馬の中でも、有数の名品である。瀬戸内海の重要港湾として栄えた室津の鴨神社に伝来し、奉納者は弥延長門守乃家の名が記される。播磨守護であった赤松政村の被官であった。制作年代は明らかでないが、絵馬各所に天文8年(1539)など16世紀中頃の年紀を伴う落書きが複数ある。従って、天文初頭、1530年代の元信画と見て間違いない。資本を蓄積した商人や有力大名のみならず、在地領主層にも狩野派の信奉者が浸透したことを示している。いわばパトロン層の拡大である。

 

狩野派の元祖は、狩野正信(1434~1530)であり、最初に記録に現れるのが寛正4年(1463)、30歳の時である。相国寺の僧・季瓊真蘂(きけいしんずいー1401~1530)が私費を投じ、自坊である雲頂院の将堂に観音及び十六観音の壁画を画かせたのが「性玄」こと正信であった。この季瓊は陰涼職(いんりょうしき)という地位にあり、将軍が参禅や法を聴くために相国寺内に設けた陰涼軒を預かっていた。正信が室町幕府の御用絵師に上り詰めた背景には、足利将軍と密接な関係があった季瓊の推挙があったと推察される。正信は、次に文明15年(1483)、50歳の時、将軍の座を譲った足利義正(1436~90)が隠居所として造営した東山御所、いわゆる東山殿において、日常生活の場となる常御所の障子絵を担当している。その後、延徳2年(1490)には義政の葬儀のための法体像を描いている。正信は更に第九代将軍・義尚(1465~89)関係の画事も請け負っており、延徳元年(1489)には義尚の病気平癒の祈願に用いるため、弥勒像の制作を行っている。正信は義尚の母である日野富子(1440~96)の葬儀用肖像画も描いており、将軍家と密接な関係を作った。本来、仏絵師たちの専門領域であった仏画や、やまと絵系絵師たちが手掛けていた肖像画の領域までレパトリーを拡張していた。二代目の狩野正信は父・正信の遺産を受け継ぎ、狩野派の画風や、その組織を確立していく。正信については、本文で詳しく書いたが、正信の狩野派にもたらした成果をまとめてみると、次のようになるだろう。1.狩野永納の「本朝画伝」には、「狩野派は元信の代に「天下画工の長(おさ)となったと記されている。2.正信は筆様では無く、真体、行体、草体の三種の「画体」を創り出し、元信様式としてマニュアル化することで、一定の品質を保った作品群を生み出す土壌を創った。3.一方で、やまと絵の分野においても特筆すべき活動を見せている。狩野派は漢画を専門とする絵師集団と理解されてきたが、元信の時代になり、やまと絵の領域にも進出し、和漢両方の画題や手法を使いこなせることが狩野派の宣伝文句となり、レパトリーを広げ、大勢の需要者を造りだした。「本朝画伝」では「狩野派は是れ漢にして倭を兼ねる者なり」と記されている。元信の孫・永徳や、永徳の孫・探幽と狩野派の稀代の大天才が相次いで登場したことにより、「狩野派ブランド」に大きな信頼が寄せられるようになった。正に、二代目正信が、歴代狩野派の中で最も優れた画力を持ち、かつ組織力、経営力を持つ稀有の能力を発揮したことが、狩野派が400年に亘り、画壇の頂点に君臨し続けた、大きな要因であった。

 

(本稿は、図録「狩野源信  天下を納めた絵師  2017年」、図録「ボストン美術館 日本絵画名品展 1983年」、田中英道「日本美術全史」を参照した)