生誕120年記念  東郷青児展

二科会を中心に活動した洋画家・東郷青児(1897~1978)の生誕120年を記念して、初期から1950年代までの作品による回顧展が、東郷青児記念館で11月12日まで開催されている。東郷は明治30年(1987)に鹿児島市に生まれ、5歳の頃に一家で上京した。東郷鉄春(本名)は、青山学院中学部時代、「東青児」の雅号で「海女」と題した裸体画などを雑誌に投稿する早熟な文芸少年であり、武久夢二の「港屋」に通い、芸術家の奔放な生き方に憧れたという。東郷は、最初の個展を大正4年(1915)、18歳の時に日比谷美術館で開催した。きっかけは作曲家の山田耕作との出会いであった。東郷は山田から欧州の前衛芸術について知識を得ると共に、東京フィルハーモニーの練習場にスペースの提供を受け、そこで音楽をテーマにした作品を描き、初個展として発表したのである。この時の出品作の大胆な色彩とデフォルメが、首都新聞に「所謂未来派、立体派のような」と取り上げられた。この個展が東郷に二科会展への道を開いた。二科展は新しい美術を志す美術家たちの在野団体であり、大正3年に文部省美術展覧会(文展)から独立して公募展を始めたのである。東郷の初個展を見た有島武郎が弟の生馬に話し、生馬の勧めで二科展に「パラソルをさせる女」を出品し、初出品にして二科賞を受賞した。それ以降、東郷は国内で最初期の前衛的画家と見做さるようになった。東郷は大正10年(1921)から渡仏し、7年間の長期滞在となり、油絵だけでなく生活と一体になった欧州の芸術文化全般に見解を広め、ピカソや藤田嗣治と親しく接したようであるが、滞仏中の東郷の足取りは不明な点が多い。

パラソルさせる女 油彩・キャンヴァス  大正15年(1916)陽山記念館

大正5年(1916)の東郷青児の第2回個展を訪れた作家の有島武郎は、「東郷青児の絵画展を観に行く。彼は未来はの絵をかく唯一の芸術家である」と、その日の日記に書いた。彼は、その個展のことを弟の生馬に話し、ぜひ見るように勧めたという。生馬の勧めで東郷は、その年の第3回二科展に、この絵を出品し、二科賞を受賞した。これ以来、東郷青児は「未来派の画家」という呼称が付いて廻った。東郷自身は次のような回想文を書いている。「有島生馬先生の勧めで第3回二科展に”パラソルの女”という二十五号大の油絵を出品した。海浜のピーチ・パラソルの影に水着の女を配置してそれを萬崋鏡のような色彩の交錯で、思う存分デフォルメしたようなものだったが、写実万能の当時だったから、相当に問題となった。すでにピカソの立体派や、マリネッティの未来派がぼつぼつ理論的に紹介され始めていたけれど、まだそれを実地にやって見るような変わり者もいなかったと見えて、日本の画壇にとっては、私の作品が、その方面の第一号となったわけであるである」と記している。大正7年(1918)の「文章世界」新年号の「現代美術実録」で、東郷は、「独学にて洋画を研究し、未来派の画家として知らる」として紹介されており、「未来派」の呼称が定着したようである。

サルタンバンク 油彩・キャンヴァス大正15年(1926)東京国立近代美術館

サルタンバンクとは道化師、軽業師などの大道芸人のことである。東郷画集の中で、次のように語っている。「この絵が出来上がった時は天下を取ったように嬉しかった。早速ピカソを僕のアトリエに引っ張って来て見てもらった。”自分の絵を見るような気がうする”というピカソの評には”ぎゃふんとまいった”。藤田(嗣治)もわざわざ身に来てくれた。まさに、得意の絶頂を味わったようである。しかし、渡仏7年間の間に、東郷は独自のスタイルを探究し、ピカソ、マリネッテイ、藤田等と交流していた。

超現実派の散歩 油彩・キャンヴァス 昭和4年(1929)東郷青児記念館

東郷は、「東郷青児画集」のなかで、この絵について次のようの述べている。「超現実派の散歩とは、散歩のつもりでも超現実派の試運転をやった意味である。僕は超現実派の中に含まれている時間、空間、ノスタルジーなどを一番鋭敏に感じる。理論は嫌いだが、只純粋にこれだけを抽出してみた」。「超現実派の散歩」と題する作品は、その後4年間NO4まで出している。この連続する題名には、何等かの東郷の表明が込められているように思える。二科展出品作に「超現実派の散歩」という題名をつけておきながら、「若し僕らの仕事を超現実派と呼称するなら、少なくとも僕は閉口する」とも言っている。要するに、東郷にとって「超現実派」とは、常に前衛であろうとする東郷の意志表明であろう。昭和4年(1929)に始まる試運転と何だったのか?東郷の試運転の時期は、「超現実派の散歩」を描いている時期、すなわち1929~1933年頃と推定できる。それは丁度大衆主義と職人主義を自覚し推進する時期と重なる。その過程にあって、彼の絵画は、より滑らかな肌合いを獲得し、美しい女性像へと変化していく。大衆主義と職人主義への傾向を強めていくことが、彼の試運転だったのかも知れない。

聖道女 油彩・キャンヴァス 昭和10年(1935) 高松市美術館

名前は聖道女といかめしいが、実は昭和9年(1934)終わり頃から10年(1935)にかけて、似た絵を5枚画いている。その内の1枚が、この絵画である。「少女、1935年、印刷、紙、額装」を描いた時に東郷は、次のように述べている。「少女 東郷青児 この絵は空想だけで描いたもので、私が普段やっている仕事とは随分かけ離れている。地塗りをしたり艶出しをしたりする替りに、ブランシェの細目へいきなり描いた。私はいろんなことをやる時が一番楽しい。昭和9年の終わり頃から10年の夏頃までに、この手のものを5枚描いた。興味のあるテーマにぶつかると飽きるまでいろいろな角度からやってみるのが私の癖である。大きさは8号、5日位かかって仕上げた」。その1枚が、この「聖道女」であり、殆ど同じ絵が3枚展示されていた。未来派、超現実派から大きく変化した時期であった。

山の幸 油彩・キャンヴァス 昭和11年(1936) シェラトン都ホテル

1930年代、新興産業が活性化し、新たな富裕層が出現するなかで、百貨店は消費文化の発信源、大衆娯楽の拠点として躍進を遂げていく。そうした中、東郷は京都の丸物百貨店(現近鉄百貨店)内の装飾壁画を、藤田嗣治とともに手がける機会を得た。東郷は、「山の幸」を描き、古典的量感と牧歌的雰囲気を備えた清楚な女性像を描いた。ここには未来派、超現実派など前衛の面影は全くない。これが東郷の言う試運転であったのである。東郷は藤田という大先輩から、教えを受けて大きな感銘を受けている。東郷は、当時を回想して「日本での壁画Ⅰ号は京都の丸物の大衆食堂に描いたもので、たしか2間に5間位のものだった。この時は、同じ丸物の喫茶室に藤田嗣治先生が壁画を描き、助手の若い二科の連中と1ト月位の間、ひどく楽しい生活を続けた」と言っている。(芸術新潮56年10月1日刊)

舞 油彩・キャンヴァス 昭和13年(1938)  東郷青児美術館

東郷青児は、記事の中で次のようにお述べている。「今年の(1938年)二科展に出品した「織女」と「舞」は、天平風俗の私らしい絵を描いて見ないかという注文で、わざわざ奈良に出かけた挙句出来た作品である。奈良の古い彫刻は芸術品というより神品で、あれを見ていると千年という時代的な悠久さに圧倒されて終う。であるから私は現代の夢に天平の衣を着せるという手近な方法を取る以上の冒険はやらなかった。婦人像とベールは私の習慣的な作品で、表情の中に今日を表現すべく相当に苦心した。美しく冷ややかな女の顔が私は好きなのである」

裸婦  モザイクタイル 昭和27年(1952) INAXライブミュージアム

東郷は、戦後(1947)の二科会に「裸婦」と題した絵画を出品した。また「官能」という雑誌の創刊号(1948年7月)の表紙に裸婦を描いており、挑発的な絵である。この時代、戦後の退廃という気分の中で「女性の裸体」を見せたり、描いたりするのが時代の気風であった。東郷は、1947年に伊奈製陶(現LIXIL)が商品化した「アートモザイク」と呼ばれるタイルを使用した絵である。10mm角と小さく色数も豊富で、本作も20色のタイル約13、600枚を使用して制作された。紺色の楕円窓や女性の姿態のそれぞれにタイルと目地の色を同系統にするなど、絵画的な施工がなされている。東郷は、微妙な濃淡や細部の形まで原画のイメージに沿って仕上げたと考えられる。

望郷  油彩・キャンヴァス 昭和34年(1959) 東郷青児記念館

毎日新聞社主催の日本国際美術展では、第4回と第5回展に一般入場者の投票による「大衆賞」が設けられた。第4回では東郷の「バレリーナ」が、第5回展では、この「望郷」が連続して大衆賞を受賞した。「望郷」は、私が東郷青児に持つイメージそのもであり、これが大衆賞に選ばれたことは、東郷青児がいかに大衆に愛される画家になったかの証しであろう。なお、大衆賞はこの2回だけで、後は廃止されたそうである。ここにきて(1959年代)、私たちが抱く東郷青児の基本が固まったと言っても言い過ぎでは無いだろう。私は、この「望郷」に浮世絵の美人画を重ねて見る思いがする。特に、長い首をかしげる様は、浮世絵の美人画ではないだろうか?

レダ  油彩・キャンヴァス 昭和43年(1965) 東郷青児記念館

第53回二科展(昭和43年ー1968)に出品された作品であり、今や東郷は文句なしの、大衆に愛される大画家となった。この辺りが、裸婦を描く最後の頃と思う。むしろやさしい「憂いある美女」を描く時代が始まる。

若い日の思い出油彩・キャンヴァス昭和43年(1968)損保ジャパン日本興亜

典型的な東郷の「憂いある美女」の絵画である。東京火災(現損保ジャパン日本興亜)は東郷の二科展出品作品を買上げ、毎年カレンダーに印刷して得意先に配布していたそうである。東郷自身は、1960年代以降、貧困などの社会的テーマや、アフリカや西アジア諸国のエキゾチシズム、絵具を厚く盛上げた抽象的な構成などへと挑戦を続けるが、安田火災(東京火災の後身)は西欧風の叙情的な(私の「憂いある」)女性像を独自に東郷から購入してカレンダーに掲載するようになり、可憐な女性像を描く画家という東郷像が浸透する一因になった。

 

 

東郷青児が未来派、前衛派、超現実派など抽象画を描く画家から出発したことは、全く知らなかった。むしろ、自由ヶ丘のケーキ屋(モンブラン)の壁画や包装紙(これは今でも使用しているそうだ)を手掛けた「憂いある女性像」を美しく描く画家であると思い込んでいたが、今回、家内の要望もあり「東郷青児展」を観て、180度東郷青児に関する見方が変わった。抽象画から出発し、雑誌や図書の装丁を行い、むしろデザイナー的な感覚で仕事をした時代や、藤田嗣治と組んで百貨店の壁画を描くなど、商業デザイナーのような感覚で受け入れられていた時代があったことを知った。しかし、私にとっては、東郷青児は永遠に「憂いある美人」を描く画家である。東郷青児の1周忌の回顧展で植村鷹千代氏が「いわゆる東郷様式」と呼んで要約した、次の3点こそ、私の東郷青児観である。「1.誰にでも判る大衆性、2.モダーンでロンアチックで優美、華麗な感覚と詩情、3.油絵の表現技術にみられる職人的完璧さと装飾性、」。こんなに素晴らしい要約は私には出来ないが、相変わらず「憂いある美人」を描く天才と評したい。なお、余談ながら、東郷青児と女性スキャンダルは切り離せない話題である。中でも作家の宇野千代が、昭和5年4月頃に、取材にきて、直ちに同居が始まり、約4年間続いた事件である。宇野千代は、この事件を「色ざんげ」という小説に仕立てている。しかも、きっかけは、宇野千代がガスで情死する様を描くために、情死事件を起こした東郷青児を取材に来た時からである。宇野千代は「生きて行く私」という本の中で、次のように書いている。「東郷は毎日毎日、偽札を作るように絵を描き、私はそれを風呂敷に包んで売り歩く。考えようによっては、信じられないような生活が続いた。」(生きて行く私」より)こういう文章を呼んでも、私の東郷青児に関するイメージはいささかも変わらない。「憂いある美人」を書き続ける画家である。

 

(本稿は、図録「生誕120年  東郷青児展  2017年」、宇野千代「生きて行く私」、土方定一「日本の近代美術」を参照した)