生誕140年記念 木島桜谷展 近代動物画の冒険

木島桜谷(このしまおうこくー1887~1938)は、明治から昭和にかけて活躍した京都の日本画家である。今年、生誕140年を記念して、六本木の泉奥博古館において、「木島桜谷特別展」が開催されている。宮内省(明治天皇)や住友財閥等の買い手がつく人気作家であったが、戦後はなぜか人々の記憶から遠ざかってしまった。私がこの名を知り、名作「寒月」の写真を見て、一度是非拝観したいと思ったのは、日経新聞が日曜日に連載している「ザ スタイル・アート」の2017年10月15日、10月22日の連載記事を見た時である。記事によれば「忘れ去られた京都画壇の俊英」であり、「さえざえとした冷たさと孤独感」、「文展の寵児 100振りに光」、「明治天皇に財閥 堂々たる買い手」等見出しが躍る記事であった。私は近代の洋画・日本画を知るために「日展100年」という展覧会を見て(2007年7月頃)、その分厚い図録を字引き代わりに使用して、画家の略歴や絵画を調べることにしていた。ところが「文展の寵児」と書かれながら、この「日展100年」の図録には、木島桜谷という氏名も絵画も見つけることが出来なかった。これほど何度も日展の最高賞に選ばれた人が、何故「日展100年」に全く氏名を残さなかったのか?不思議である。さすがに「原色日本の美術第26巻 近代の日本画」(昭和52年版)には、木島桜谷の代表作「寒月ーかんげつ」(1912年)を見開き2ページを使い、紹介している。解説を書かれた河北綸明氏は「こうした桜谷の作風も現在ではほとんど顧みられることはない。時代は、このような静雅なものを執り残して展開したのであろう」と述べられている。戦後、日本の高度経済成長は、桜谷のような画家は捨て去ってしまったのだろうか?低成長の今日、その解決を求めて、今回の特別展 木島桜谷展を拝観した次第である。なお、木島桜谷氏の紹介は、記事の最後にまとめたい。

獅子図屏風 紙本着色  六曲一双屏風       明治37年(1904)

ライオンが岸辺でふと歩みをとめ、探るように遠くを見つめる。威風堂々たる立ち姿に対し、左隻にうずくまり水を飲む柔和な虎がいる。日本画らしく輪郭線はほとんど見られず、淡彩から濃彩へ塗り重ねた色面にもで肉体を作り上げる。油彩画を意識した青年期の冒険作というべき1点で、淡墨の背景描写や、そこはかない金泥霞が典雅さを添える。桜谷は明治36年大坂で開催された第5回内国博覧会の余興動物園に通ったようである。そこで実際の虎を見て、この絵を描いたのであろう。虎の威力が良く映されている。

熊鷲図屏風  紙本墨色着色  二曲一双       明治時代

 

雪原でたちどまり遠くを見つめる熊。大小の割筆を用い乾いた墨調で毛描きする。筆致は素早く放埓に見えるが、ごわついた質感、顔や足先など細部を的確にとらえる。一方、鷲は屈曲した松幹に鋭い爪をたて、やはり前方に視線を投げる。湿潤な側筆で風になびく羽毛を大胆に描き分ける。墨調た筆づかい、そして動物の表情など左右の対比も鮮やかである。熊を片寄せ余白を取る構図は、優しく内省的な眼差しと相まって余剰染み渡る静謐な空間を作り出す。確かな運筆、素早い奔放な筆致、そして円山派の写生に西洋画の写実表現を取り入れた、青年期のひとつの到達点である。

しぐれ 紙本着色 六曲一双 第1回文展2等賞(最高賞)明治40年1967)東京国立近代美術館

この作品は第一回文部省美術展覧会(文展)で二等賞一席(日本画で最上位)を獲得した。桜谷(おうこく)は一気呵成に描きだしたそうである。薄なびき、枯葉舞い散る秋の荒野を、子連れの鹿一行が行き過ぎる。ふと首をもたげる牡鹿はやさしい瞳でこちらを見るとも、空を舞う紅葉に気遣うとも見える。余白を活かしたバランスの良い配置、流麗な描線による秋草の表現などが詩情をかきたてる。今日伝わる桜谷の写生帳で最も多いのは鹿である。鹿の絵については、相当自信を持っていたのであろう・

和楽(わらく)絹本着色六曲一双 第4回文展 明治43年(1909)桜谷文庫

右に農家の軒先でくつろぐ家族や仔牛、左に家路の農婦と向かえる子らを描く。左が夕方ならば、右の霧が多く鶏が餌をついばむ様はさしずめ朝の光景だろうか。紅葉や葛の花も見える秋の一日、労働前後の和みの時であろう。これは第三回文展出品作品であるが、見所を盛り込み過ぎたとの批判もあった。西洋画的な写実主義をも見せる。先割れの刷毛や筆による仔牛のうぶ毛、濃青によるハイライトを点じた潤んだ瞳(右隻の下の牛)などは桜谷の真骨頂であろう。

かりくら 絹本着色 二幅 第4回文展出品  明治43年(1910)桜谷文庫

  

高さ250cmの巨大な画面に、薄野を疾走する騎馬の武士三人が勇壮華麗に描かれる。これは表第通り、狩り競べそのものをクローズアップする。渾身の力で馬を駆る男らの表情のさりばがら、写実的で躍動感ある馬にみるべきものがある。前年の「和楽」とは対照的な鮮やかな濃彩に、西洋画的な陰影をほどこされる。桜谷最大級の作ながら、第4回文展での発表後、翌年の選画会、ローマ万国博覧会以降記録が途絶えていたが、近年桜谷文庫でマクリ状態で発見され、2017年に修復を終えた。桜谷の絵の中では異例の装飾が施された絵画である。

寒月 絹本着色 第6回文展出品最高賞 大正元年(1912)京都市美術館

森閑とした月夜の竹やぶ。降り積もった雪の上に足跡を残しながら、キツネが一匹、水を求めてさまよい出てきた。天敵に目配りしてか狷介(けんかい)そうな目であたりをうかがっている。六曲一双の左隻端が幾分かすんでいるのは雪がやみ切っていないのだろう。横長の画面を生かした構図と配置である。色彩に乏しいモノクロ画面のように見えて、竹幹や木々には青、緑、茶などの色料が薄く厚く筆跡を残して施され、見る角度によって鮮やかに浮かび上がる。林立する竹にはダークな絵具を使い、さえざえとした冷たさと孤独感を際立たせている。凛(りん)とした空気が漲る絵である。この作品が描かれた当時、日本の画壇に旋風を巻き起こしていたようだ。名指しで批判した文豪がいたという。夏目漱石である。夏目漱石は、次のように酷評している。(朝日新聞)「木島桜谷氏は昨年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ちの悪くなる鹿である。今年の「寒月(かんげつ)」も不愉快な点においては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と、それから狐だか何だか動物が一匹いる。その月は寒いでしょうと言っている。所が動物はいいえ昼間ですと答えている。とに角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である」この時代ならではの酷評である。たしかに漱石の指摘通り、この作品には月明かりによって竹に生じるはずの影がない。一つ一つの細部は写実的かもしれないが、合理性に欠ける。「日本画に西洋的リアリズムをなじませようとした矛盾がわざとらしい。そんな感じがして英国帰りの漱石の鼻についたのでは」(野地耕一郎・泉奥博古館分館長談)。桜谷本人は絵画の技量だけでなく、論も立つ文書家だったが、礎石に反論・抗弁した形跡はない。意に介さなかったのか、あえて無視したか。しかし、漱石の批判をよそに「寒月」(かんげつ)はこの年の第6回文部省展覧会(文展)で2等賞を取った。1等賞がなかったから、全国から出品された入選作186点中、事実上の主席であった。木島桜谷は文展が開説されて以来、上位入賞の常連だった。文展は第9回まで1等賞はない。1907年に開設された第1回では鹿の群れを描いた「しぐれ」で2等賞、第3回、農村の風俗を題材にした「和楽」で3等賞。第4回が騎馬武者の狩りにせまった「かりくら」で3等賞。第6回の「寒月」の2等賞を最後に、翌年から桜谷は36歳で審査員に回った。私は、この「寒月」の前の椅子に座り1時間ほど見せてもらったが、やはり明治時代の日本画の最優秀作品の一つであると実感した。漱石先生の酷評は、的を得ていないと実感した。

幽渓秋色 絹本着色 一幅    大正時代     京都府

紅葉する晩秋の渓谷で、絶壁の隙間から流れ落ちる滝が望まれる。雄大な風景のなか、前景の岩上に姿を見せた子連れの猿の一群が風情を添える。桜谷は若い頃から橋本雅邦に私淑しており、本作が雅邦の代表作(白雲紅樹)を彷彿とさせるのは偶然ではないだろう。壮年期に取り組んだ顔彩による油彩風のマチエール表現で、樹木の葉叢を点描で盛り上げる。その彩色層の厚さゆえに珍しく剥落が目立つ。

葡萄栗鼠(ぶどうりす)絹本着色  一幅         大正時代後期

鬱蒼(うっそう)と茂る葉影からたわわな美がのぞく葡萄畑に、一匹の栗鼠(りす)が現れる。たらふく食べた後なのだろうか、満足げに目を細め指先の手入れをする。葡萄は多く実をつけ、また栗鼠は多産の鼠に似ることから、ともに子孫繁栄の象徴として、古来から中国や日本で合せて描かれてきたが、桜谷は伝統の吉祥画を微笑ましい初冬の景に転換させている。桜谷の動物画の手腕が遺憾なく発揮されている。

獅子 絹本着色 一幅           昭和時代   桜谷文庫

桜谷は生涯に二度、獅子図を集中的に制作した。明治後期の30歳前後と、昭和初期の50台前半である。本作品は後者に分類される。生涯を通じて桜谷の獅子は顔を左斜め前に向けるが、表情は少しずつ変遷を遂げ、時には猛々しく、時には威圧的だ。しかし、ここではその雰囲気は払拭され、威厳をたたえつつ内省的で言い知れぬ哀愁すら感じさせる。朝鮮美術展覧会(1922~45)出品と伝えられてた。

角つぐ鹿紙本墨画 一幅 第13回帝展出品 昭和7年(1932)京都市美術館

山の斜面で苔むした木に角をすり付ける牡鹿。黄や赤に色づく木々の葉も残り少ない晩秋から初冬の景である。生え替ったばかりの豊かな冬毛もよく描かれている。中央の大木は今なお衣笠の自邸画室前に健在の唐楓、鹿は動物園や奈良公園のそれをモデルにたという。最晩年の第13回帝展出品作品である。桜谷は生涯を通じ鹿を多く描いたが、縦長の作品としては突出して大きい。この絵には下書きが、最近発見された。紙を貼って微細な試行錯誤が多数見られ、入念な構想の上で画面全体のバランスや奥行が表現されている。

秋野弧鹿  絹本着色  一幅   大正7年(1918) 泉屋博古館分館

古来、鹿はその姿や声に秋の到来、もの悲しさ、孤独が重ねられ、絵画化もされてきた。桜谷は鹿の図で青年期から一定の評価を得、生涯大小の作品を手掛けた。その多くは秋野を舞台とするが、ここでも縹緲たる草野でふと耳をそばだてる雄鹿の後姿を描く。桜谷の鹿図には背を向けたポーズが多多見られ、白い鏡毛に覆われた姿が愛らしい。少ない筆致で形態や質感を確実にとらえる。粗略に徹した草との対比、十分な余白をとった配置などバランスも秀逸である。なにより、ふと見返るまなざしの透明感こそ、桜谷の鹿の魅力であろう。

写生帳

桜谷が生涯何よりも大切にしたのは「写生」であったという。それを実証する大量の帳面類が、今日、桜谷文庫に遺される。その数674冊である。俗に「背丈まで積み上がるほどの写生をしたら一人前」と言われる日本画の世界だが、これらは桜谷の身長の倍は優に超えていた。特に「動物」の写生が多い。紙面類は写生以外に、古今の絵画を縮小して模写した「縮図」が含まれるので、正しくは「写生縮摸帖」と呼ぶべきであろう。体裁は和紙を綴じた手製のものと洋紙の規制スケッチブックに大別され、前者はさらに大小に分かれる。桜谷は自ら画塾を主宰するようになってからも、かっての塾友や弟子たちと鷹ケ峰、貴船、大原などに足を運び、道々の風景や建物、牛馬や鶏といった家畜などを素早く写しとっていった。奈良にもしばしば出かけ春日の鹿を写生している。生きた動物観察の場である動物園が京都に開設されたのは明治36年で、それ以後は虎、鹿、ライオン、鳥類などを求めてしばしば通った。桜谷は大正11年の入場優待券、いわゆる年間パスポートを贈呈されている程である。

 

木島桜谷(このしまおうこくー1877~1938)は、木島周吉とすえの次男として、京都に誕生した。本名は文次郎という。曾祖父の木島元常は狩野派の絵師吉田元陳の弟子で、寛政期の内裏造営障壁画制作にも参加した。祖父周吉は内裏に高級調度を納める有職舎を興し、父周吉(二代)はそれを継承したが、明治初年には店をたたみ、自適生活を過ごしていた。当時木島家は三条室町東入ル御倉町にあった。三条室町と言えば、染色商が集中する商業の町であり、同時に画家や学者なども多く住まう、京都の経済と文化の中心地であった。このような環境下で桜谷は幼い頃から絵が好きだった。京都の中京(なかぎょう)の商家のならいとして京都市立商業学校予科に進んだ。算術、簿記などには全く興味を持てずに明治25年(1893)、父が逝去。それを機に退学した。その年の12月、16歳の桜谷は父の知己であった今尾景年(1845~1924)の門をたたいた。今尾景年は円山派に南画を融合させた鈴木百年の弟子で、のちに帝室技芸員に任じられるなど明治・大正のの京都画壇の重鎮であった。その号「桜谷」は入門時に景年から授かられたものである。景年の塾では、師風を超えて個性のまま制作活動をすることを容認し、展覧会には多彩な作品が並ぶ稀有の画塾であった。桜谷自身も、景年が花鳥画や山水画をもっぱらとするのに反しして、歴史画に強く惹かれ、東京画壇の研究も行い、中世に取材する武者絵を展覧会に出品し、景年は温かく見守った。明治35,6年前後には桜谷は画家として独立し、37年11月まで生家からほど近い御池両替町角の借家に転居して龍池画塾を開いた。明治40年(1907)、文部省美術展覧会(文展)が始まる。初の公設展覧会の開催に東西画壇が大きく揺れる中、桜谷の「しぐれ」は二等主席に選ばれる。文展は9回まで一等は空席のままだったので、実質日本画壇の主席ということになる。以後、春には京都の新古美術展、秋には文展を両軸として大作を連続出品していく。題材は武者絵、農村風俗、動物、技法も水墨淡彩を基調とするものから濃厚な彩色を施すまで、毎年めまぐるしく変わり、二等、三等などを連続受賞した。第6回文展で第一席となった「寒月(かんげつ)」は、彩色と康生に独自の方法で挑んだ意欲作であったが、その表現と審査をめぐり大きな議論を呼んだ。夏目漱石が朝日新聞紙上で酷評したこと、また桜谷を擁す今尾景年と安田靫彦を推す大観とが審査会場で衝突したとも伝えられる。当の桜谷は黙して語らない態度を貫いた。その後、京都衣笠(きにがさ)に邸宅を新設し、後に「衣笠絵描き村」と称されるほど画家が集まってきた。今や画壇の頂点に立ちながら、帝展(文展改め)では審査員を務めながら、3回以降連続出品している。50代にさしかかった桜谷は、公務から身を引き、画壇のつきあいから遠ざかり、自邸にひきこもるようになった。ただ写生だけは続け、すでに功なり名を遂げた桜谷だが、この作品の夥しい下絵、写生からは、50代にしてなお、求道者として純粋な姿勢が介間見られる。昭和13年(1938)62歳で没する。何故、この木島桜谷という俊才を日本は忘れてしまったのであろうか?植田彩芳子。京都文化財博物館学芸員は次のように語っている。「記憶から遠ざかると、関連図書がなかなか出版されず、回顧展も開かれない。そうなると悪環境に入ってしまいがち。文展では東京画壇の気鋭、菱田春草と争うくらいだったのに、春草の光の当たり具合に較べると、桜谷は割を食っている感じです」

 

(本稿は、図録「生誕140年記念 木島桜谷展   2018年」、原色日本の美術「第27巻  近代日本画」、図録「日展  100年  2007年」、日本経済新聞社2017年10月15日、10月22日「忘れられた京都画壇の俊英木島桜谷」を参照した)