生誕300年記念 若冲 釈迦三尊像と動稙綵絵

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伊藤若冲(1716~1800)は、正徳6年2月8日(1716年3月1日)に京都市中、高倉錦小路の青物問屋「枡源」(ますげん)の長男として生まれた。この年には、6月2日に琳派の巨匠尾形光琳が亡くなり、同月22日に享保と年号が改まり、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍に就任している。江戸時代の歴史上、また美術史上での転換期であった。文人画家として大を成す与謝蕪村も、若冲と同い年で、この年に生まれた。若冲は、屋号は枡屋、代々源左衛門を名乗り、略して枡源といった。父宗清はその三代目であり、宗派は浄土宗で、宝蔵寺(蛸薬師上ル)がその菩提寺であった。元文3年(1738)数え年23歳の時に父を失い、四代目枡屋源左衛門と「枡屋」の家業を継ぐことになった。それから17年間を商家の主として務めを果たし、一方で趣味としての絵画に傾倒していった。それと同時に仏教、特に禅へ傾倒した。若冲居士という居士(こじ)号を絵画に記すようになった。宝暦5年(1755)40歳にいたった若冲は店を次弟宗厳(そうごん)に譲り、楽隠居の身となった。居士号とは、出家しないで仏門に帰依する男子に与えられる称号である。相国寺の大典和尚と相知る仲となり、それが禅宗への傾倒の理由であったかも知れない。相国寺は、室町時代の1382年に将軍足利義満によって創建された禅寺で京都五山の一つに数えられる、由緒ある名刹である。現在、宮内庁三の丸尚蔵館に収蔵されている、若冲の代表作である「動稙綵絵」と、相国寺に伝わる「釈迦三尊像」は、共に若冲によって相国寺に寄贈されたものである。相国寺への寄贈は、両親と自己の永代供養を願う作善(さぜん)の行為であったのであろう。明和2年(1765)に末弟宗寂が亡くなったのを機に、「動稙綵絵」24幅と、「釈迦三尊像」3幅を諸国寺に寄進し、明和7年(1770)10月に、最後の6幅を加えた全33幅の寄進が完了した。

釈迦三尊蔵 釈迦如来像(中央)文殊菩薩像(右)普賢菩薩像(左)絹本着色3幅江戸時代(18世紀)相国寺

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明和2年(1765)9月、動稙綵絵のうち24幅とともに寄進されたものである。この3幅だけでは、現在も同寺に保管されている。この縦2メートル以上の大幅に、独特の濃艶な色彩で彩色を施し、驚くべき緻密さで細部の文様を描いている。本図は東福寺(京都五山の禅寺)に伝来した張思恭筆と伝えられる古画(釈迦如来はクリーブランド美術館、文殊、普賢像は静嘉堂文庫美術館、現在展示中)を模写したものであるが、若冲は鮮烈な色彩と力感を持ったものとして描き上げている。辻惟雄氏は「若冲が模写した伝張思恭画は明画(みんが)ではなく、朝鮮画であったという可能性も否定できない」としている。この寄進に際し、若冲は寄進状を書いている。図録の「大意」から引用する。「私は才能の乏しい身ではありますが、日頃より絵画に心と力を尽くし、常に草木、植物の素晴らしいものを描き、鳥や虫の姿を描き尽くしたいと思っております。また、このため、画題を広く求め、多く集めて一家の技を完成させるに至りました。また、かって張思恭の描いた釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩の像をみたところ、その巧妙なことは他と較べることができないほどであり、つよく模倣したいと感じました。そしてついに「釈迦三尊像」三幅と「動稙綵絵」二十四幅を描き上げたのでのです。」この「動稙綵絵」には、大勢の観客が集まり、初日から大変な人気で、見終わるまでに1時間程度もかかったが、肝心の三尊像を熱心に拝んでいるのは私だけであり、三尊像の前に人は殆どいなかった。若冲の寄進状を引用するまでもなく、若冲は三尊像を寄進し、その荘厳(そうごん)の目的で「動稙綵絵」を併せて寄進したのである。まず三尊像ありき、なのである。しかし、私は仔細に見て、この三尊像の持つ宗教性、荘厳さを感じることは出来なかった。私の信仰心が薄いためだろうが、平安時代や鎌倉時代の仏像画の持つ”気高さ”を感じなかった。そういう意味で、大変不満であった。

秋塘群雀図(しゅうとうぐんじゃくず) 伊藤若冲作 宝暦9年(1759)

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若冲はかって、市中で鳥を商う者から、数十羽の雀を買い取り、自宅の庭に放してやったが、空に帰してやる前に、雀たちの動きをしっかり把握したのであろう。まるで編隊を組んで来襲するような勢いで飛ぶ雀の群れに、白色の一羽が混ざっている。落下してくる雀たちの目標は、たわわに実った粟(あわ)の穂に間違いない。先に着いて穂に群がっていた雀たちは、飛んで来る雀とは逆にさまざまな形に描かれている。雀の観察が、この絵に生かされているのであろう。

梅花皓月図(ばいかこうげつず) 伊藤若冲作   宝暦10年(1760)

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複雑に広がった梅の枝に、白い花と蕾(つぼみ)とがびっしりと付いている。梅の枝の間から満月をのぞかせている。小さな花や蕾が無数の星のように見える。「動稙綵絵」のシリーズの中には珍しく、画中に鳥の姿が見えない。その代わりに、辺りにただよう梅特有の清らかな香りが想像される。

南天雄鶏図(なんてんゆうけいず) 伊藤若冲作  江戸時代(18世紀)

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南天の赤い実と鶏の黒い羽が極端な対比を見せ、さらに南天の実と鶏冠とが同色で呼応する。この激しい迫力に満ちた画面の上には、枝にとまって赤い実を一つくわえる黄色い小鳥を描きこみ、緊張感をやわらげている。白い菊の花も加えて余白がほとんどないほどに描き込んだため、署名を書き入れることができず、初期に愛用した二つの印章を捺印している。南天の実をよく見れば、一粒一粒に雌しべの柱頭の跡が描かかれている。南天の実の生々しさを一層際立たせる効果を狙ったのでろう。また、この絵には裏彩色(うらざいしき)という技法を用いている。即ち、南天の実はただ一色の赤で描かれているのではない。辰砂(しんさ)という赤色顔料を用いて、浦彩色した実、また表面では辰砂の上に染料の赤色を加えた実等、その濃度や重ねの違いによって房全体に立体感を現わそうとしている。

棕櫚雄鶏図(しゅろゆうけいず)伊藤若冲作  江戸時代(18世紀)

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南方原産の棕櫚の、それも自然林のように林立する特殊な背景の前に、黒と白の羽装(うそう)を対比させて、二羽の雄鶏がむかいあっている。本当に、18世紀の京都に棕櫚の木があったのだろうかと不思議に思う。若冲の幻想と言う人もいる。棕櫚の放射線状に伸びる葉の軸になる部分が、目のようにも見える。不思議な絵である。

牡丹小禽図  伊藤若冲作    江戸時代(18世紀)

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赤、薄紅、白の三色に花開いた牡丹が主役となり、蕾のコデマリが脇役として加わって、画面いっぱいに絨毯の花柄のように花と葉で充満させている。そこに二羽の小禽と岩が描かれている。若冲の執拗な描写意欲が、このように目のくらむような複雑混沌の空間に仕立て上げている。江戸美術に対する概念を打破するような、余白否定の態度を貫かれたこの図は、綵絵連作を通じて若冲が追及してきた装飾空間の、一つの極限的な姿を示すものだろう。この牡丹の花には陰影がある。これはマネの牡丹の絵に付けられた陰影(印象派)の100年前、に若冲が光の陰影を描いていたことにある。

老松白鳳図  伊藤若冲作     江戸時代(18世紀)

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若冲は、鶏や鸚鵡(おうむ)、孔雀(くじゃく)や鶴など、もともと白い羽の鳥や、あるいはわざわざ白い変わり種を描くことを好んだ。ここでも、あえて白鳳を主役に選んでいる。白い体に点ぜられた口や鶏冠、それに尾羽の先のハート形の文様、それらの赤い色が右上の太陽に鮮やかに呼応して、効果を高めている。羽の下からのぞく金色に見える地肌は裏彩色(うらざいしき)と言われる、画面の絹地に裏から塗った黄土(おうど)という絵具によるものであろう。「動稙綵絵」には、しばしば裏彩色を使用している。

菊花流水図(きくかりゅうずいず)  伊藤若冲作   江戸時代(18世紀)

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菊の下を流れる水を飲むと長寿が得られるという故事を踏まえた絵であろう。菊は亡き父と末弟への献花だろうか。俗世間の重力を逃れてゆるやかに弧を描き、空中に大輪の花をつける。まるで尾形光琳の紅梅図屏風の流水の曲線を描いて、それと菊花が柔らかにからんでいる。動物はいない。琳派の意匠を見る思いである。秀作である。

紅葉小禽図(こうようしょうきんず) 伊藤若冲作  江戸時代(18世紀)

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紅葉の色が多彩で美しい。幾何学的な形への好みは続いているが、激しく屈曲する折れ線や蛇行する曲線は無い。紅葉の葉の色がさまざまであるのは、裏彩色によるもので、冴えない色の紅葉は、裏からの彩色のみである。明和7年(1770)10月の「釈迦三尊像」三幅と「動稙綵絵」三十幅を相国寺に寄進したのは、父の三十三回忌を追善供養するものであり、この絵を描いた動機には格別なものがあったのであろう。二羽の小鳥を向かい合せて描いているのも、親子の情愛を暗示しているのかも知れない。

 

 

「動稙綵絵」と「釈迦三尊像」の寄進に際して、若冲は相国寺に対して寄進状を寄せている。既に一部を「釈迦三尊像」の所で披露したが、その最後の部分を「大意」で記したい。(図録303pより引用)「これは世間に私の画名を広めたいといった志のもとに描いたものではありません。このすべてを満年山相国寺承天禅寺に喜捨し、荘厳の一助となること、そしてこれらが永久に伝えられることこそ、私の望む所です。また、私の死後、この地に埋葬されることを願っておりますので、謹んでいくらかの寄進をさせていただき、香華の縁を結びたいと思います。つきましては、すべてご嘉納いただくことを伏して望みます。」(相国寺保管)若冲の希望通り、相国寺によって大切に守られ、明治維新後は明治22年(1889)に皇室に献納されて、今日まで無事に保たれた。(図録より)しかし、私は明治政府の強権で、時価100億円以上の寺宝を、当時の1万円という下賜金で召し上げたものと理解している。これは法隆寺の小金銅仏と同じ形であり、明治政府のえげつない施策と思う。但し、相国寺派管長の有馬氏は、図録で「その下賜金により明治の廃仏稀釈、上知令により疲弊していた相国寺が近代の復興を成し遂げた」と述べている。菅長という立場であれば、内心はともあれ、このように言わざるを得ないのだろう。毎年6月17日に行われていた法要、観音繊法(かんのんせんぽう)では、「釈迦三尊像」三幅を正面中央に掲げ、その東西左右に十五幅ずつ対になるように掛け並べられて、都の評判を呼び、大変な人気であったそうである。だからこそ、平安人物志では、画家の部で円山応挙の次に若冲が並び、大雅や蕪村がその下に並んだそうである。小林忠氏(岡田美術館長)は、「花や実をつける草や木と大小の鳥や各種の虫、水に棲む貝に到るまでを登場させる「動稙綵絵」の総体が、この世のありとあらゆるものが仏性を備えていて成仏できるという、「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)の思想を具体化したものであるのに相違はない」と述べている。(図録13pより引用)「若冲展」の拝観を勧めたいが、私は初日の4月22日の9時半の開館と同時に並んだが、実に中に入るまでに1時間、拝観2時間、グッズ類購入のため1時間、合計4時間を要した。かって経験したことのない混雑振りである。「若冲ブーム」と言えばそれまでだが、5月24日までの実質1ケ月という期間が短すぎる。多分、宮内庁の意向で、1ケ月が限度であったのだろうが、それにしても異常な混雑振りである。「日経大人のOFF」1月号では「若冲展は、かってない大行列になる。ひどい天気の平日、閉館間際に行くほかしかない」と山下祐二氏(明治学院大学教授)が予言していた。更に「こんな展覧会、僕が死ぬまで二度とないでしょう。しかも会期が1カ月と短いから、何時間待ちの行列になるのか想像できない。この展覧会はもう宣伝しないほうがいいね。」とまで言っていたのである。よせば良いのに、新聞広告、テレび宣伝をバンバンやるから観客はたまったものではない。もし観にいくならば、1日掛ける積りで、平日の雨の日にお出かけになることをお勧めする。なお「奇想の系譜」の中で、辻惟雄氏が、「文庫版あとがき」に次のように述べていることに気付いた。これが若冲現象を説明する一つのキーワードかも知れない。「この本に登場する六人の画家たちは、当時はみな美術史の脇役だったが、今や彼らは江戸時代絵画史のスターであり、とりわけ伊藤若冲の人気上昇は異常なほどだ。知らない間に現代の美的好みが、どんどんこちらへ接近してきたようなものである。」(2004年夏)

 

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲」、図録「皇室の名宝 1 2009年」、図録「若冲と蕪村  2015年」、辻惟雄「奇想の系譜」、「奇想の図譜」、「若冲」、小林忠他「若冲の描いた生き物たち」、佐藤康弘「伊藤若冲」、田中英道「日本美術全史」、「日経大人のOFF1月号」、日経新聞「2016年4月16日 生誕300年記念 若冲」を参照した)