生誕300年記念  若冲  雅遊人、若冲

18世紀という多彩な文化が花開いた活気ある時代に、85年の生涯を生きた若冲は絵師としては、恵まれた環境のなか、充実した画師生活を送った。鮮やかな色彩、多彩な墨色が生み出す表情を求め、様々な技法を駆使して、画事を愉しんだ”画遊人”であった。若冲は、18世紀の江戸時代の京都では有名な画家であり、平安人物志では、丸山応挙に次いで2番目に有名画家であり、蕪村、大雅と続くほどの有名画家であった。しかし、応挙のように弟子を抱え、丸山四条派を築くようなことはしなかったため、いつしか忘れ去られ、日本画家としての地名度は無い状態であった。1970年、辻惟雄氏の「奇想の系譜」、「奇想の図譜」によって、俄かに浮上し、一般にも広く知られるようになった。若冲の作品が一般に注目されたのは平成12年(2000)に京都国立博物館で行われた「没後200年 若冲」展がきっかけとなった。そして平成18年(2006)に「プライスコレクション・若冲と江戸絵画」展が全国各地を巡回し、翌年平成18年(2007)に相国寺承天閣美術館において開基足利義満600年記念 若冲展」の開催があり、更に平成21年(2009)、東京国立博物館で「御即位20年記念特別展」Ⅰ期(永徳、若冲から大観、松園まで)で「動稙綵絵」全30幅が公開された。第Ⅱ期は「正倉院宝物と書・絵巻の名品)であり、正倉院宝物類が多数展示され、大勢の観客を集めた。私が、若冲の「動稙綵絵」全30巻を見た最初であり、その色彩の多彩さに、正に仰天した。今では、日本絵画史の上で、一番人気の高い画家となった。この稿では、図録が画遊人と名付けた部分から、特に優秀な作品を招介する。

孔雀鳳凰図  双幅  伊藤若冲作   江戸時代(18世紀) 岡田美術館蔵

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このほど存在が確認された「孔雀鳳凰図」は、宝暦5年(1755)若冲40歳前後に描かれた作品と推定され、小林忠氏は「動稙綵絵」の直前の画風を伝える作品とされ、畢生の大作に向けた若冲の制作過程をうかがい知ることができると述べられている。この双幅が投げかけるもう一つの問題は、その来歴である。大正15年(1926)に、美術専門誌「国華」にモノクロ図版で紹介されたが、その時の所蔵者は公爵浅野長勲(ながこと)氏 だったことが分かっている。浅野長勲(1842~1937)氏は、安芸広島藩浅野家の12代藩主で、昭和の時代まで生き抜いた「最後の大名」として知られる人物である。大政奉還を建白するなど明治維新の功労者デ、イタリア公使、貴族院議員、十五銀行頭取などを歴任、政財界で活躍した。若冲の絵の来歴の中で、「武家との直接的な関わりを示す作品は聞いたことがない」と話すのは、若冲研究家の狩野博幸・同志社大学教授である。若冲の絵は、若冲が帰依した臨済宗や黄檗宗をはじめとするお寺や神社に納められるか、商家に伝わったと見られる作品が大半だからである。もし「孔雀白鳳図」が浅野家に長く伝来したら、安芸広島藩42万石の大大名と、京都の絵師、若冲との意外な接点が浮かび上がることになる。今回およそ90年ぶりにこの双幅が公開されることになった。一見して明らかなように「孔雀図」は「動稙綵絵」の「老松孔雀図」に、「鳳凰図」は同じく「老松白鳳図」に図柄が酷似している。孔雀図も鳳凰図も裏彩色(うらざいしき)に黄土と胡粉を活用しており、白色の羽が金色色に見えるのは、その裏彩色のせいである。

重要文化財鹿苑寺大書院障壁画 葡萄小禽図屏風伊藤若冲作宝暦9年(1759)

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京都・鹿苑寺の境内には、金閣から錦湖池を挟んで東側に方丈がある。本作は、その方丈に隣接する大書院を装飾していたものである。鹿苑寺は相国寺の開基でもある足利義満の別邸「北山第」を没後に寺院としたものであるが、室町末期にはすでに荒廃し、金閣の他には殆ど堂宇がないほどの状況であった。寛永13年(1636)に鹿苑寺が落成し、長く白い襖のままで推移したと考えられる大書院に、大典の弟子であった龍門承猷(じょうゆう)の入寺に相前後して若冲が墨筆の筆を振るったことにも、相国寺と同様の事情があった可能性がある。本作はこの大書院のうち、最も格式の高い「一之間」を飾るものである。同様に「二之間」には「松鶴図襖絵」、「三之間」には「芭蕉叭々鳥図襖絵」、「四之間」には「菊鶏図襖絵」「狭間」には「竹図」が描かれ、全部で50図となり、すべて重要文化財に指定されている。

重要文化財 菜蟲賦(さいちゆうふ)伊藤若冲作 寛政4年(1792)佐野市立吉沢美術館蔵

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巻頭に絖本(こうほん)墨書の題字が付けられ、続いて2メートルほどの長さの絵絹が5枚貼りつがれる中、前半には蔬菜や果物、後半には昆虫や両生類が彩色で描かれそして巻末に、絖本墨書の跋文を付した珍しい巻子作品である。巻頭の題字は大阪の書家・福岡撫山(ぶざん)、巻末の跋文は大阪の漢学者・細合半斎(はんさい)による。そして最後、縦に断ち割った冬瓜の中に「斗米庵米斗翁行年七十七歳」とあり、天明の大火によって若冲が大阪に逃れていた時期の作例であることがわかる。「動稙綵絵」等で完成されたモチーフは、老齢に至るまでにすっかり成熟し、力みのない垢抜けた表現として、新たな魅力を表出している。若冲の最後期の作品である。

重要文化財 仙人掌(さぼてん)群鶏図襖絵 伊藤若冲作 天明9年(1789)大阪・西福寺蔵

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左右3面づつの群鶏が三角形を作る安定した構図で、デフォルメされたサボテンと鶏の尾羽の動きを揺さぶる。奔放な鶏は水墨画で描かれていたが、ここで再び濃彩の細密描写と融合することで、宗達や光琳の金碧障屏画(こんぺきしょうへいが)とも違う新しい美しさを作り出している。檀家の鰻谷の薬種問屋、吉野五運の依頼で制作された。若冲唯一の金碧画である。若冲71歳の作品であり、天明の大火の後の作品である。

重要文化財 蓮池図(れんちず)伊藤若冲作 寛政2年(1790)大阪・西福寺

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上記の群鶏図の裏面であり、一転して墨色である。群鶏図襖絵の裏面に描かれていた襖絵であった。西福寺内陣側に本作が描かれていたのである。抑制された筆線による描写は、独特の水墨技法である。

象と鯨図屏風六曲一双 伊藤若冲作寛政9年(1797) MIHOMUSEUM

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近年、所在が明らかになったこの「象と鯨図屏風」の圧倒的な存在感はどうであろうか。陸の王者と海の王者を左右に描いた六曲一双の大画面が、圧倒する。象は先を丸めた鼻を高く上げ、耳はゆで卵を思わせる二重の楕円形、口からは太い牙が上へ向かって伸び、大きな鳴き声をあげているようだ。一方の鯨は、大きな体の一部が海面に浮きあがり、胴からは潮が勢いよく吹き出す。波の水しぶきや鯨の背びれには躍動感がある。

 

天明8年(1788)1月30日の夜明けから翌2月1日の夕刻にかけて、京都の町は応仁の乱以来とも言われる大火に見舞われた。後世まで「天明の大火」と記憶される江戸時代最大の京都の火災となった。相国寺も例外ではなく、宝堂(はっとう)といくつかの塔頭(たつちゅう)を除いて境内の堂宇のほとんどが灰燼に帰した。そうした状況の中で、「釈迦三尊像」と「動稙綵絵」を納めていた南蔵が類焼を免れたのは、幸いなことであった。若冲はこの正月には73歳を迎え、老齢の身にはじめての生活困窮が迫った。画室の有る自宅はもとより貸家など資産を失って、寛政3年(1791)76歳になった若冲は、相国寺との永代供養契約を解除せざるを得なくなった。大火の2年後に摂津の国、豊中の小曾根にある西福寺の襖絵制作に挑んでいる。大阪の薬種問屋の主で数寄者として知られた吉野五運の依頼を受けて、同家の菩提寺である西福寺に、金地濃彩の「仙人掌群鶏図襖絵」及びその裏面に墨絵による「蓮池図」の左右に離れて三面ずつ、表裏の襖絵六面づつを描いた。また、この頃、画面に無数の枡目を作って色点を埋めていく、モザイク絵のような屏風画に挑戦したようである。恐らく、門人たちの手も借りながら、一時期升目描きに没頭したようである。寛政4年(1792)には家業を譲っ次弟五代目伊藤源左衛門こと宗厳が享年74歳で亡くなり、それより先、安永8年(1779)に母が80歳で物故しており、若冲の直接の身内は、石峰寺の門前で晩年を妹(後家)とその子のみになってしまった。寛政12年9月18日(1800年10月27日)享年85歳でついに天寿を全うした。法名は米斗翁(あるいは斗米翁)若冲居士、縁の深かった石峰寺に土葬され、遺髪が伊藤家の菩提寺宝蔵寺と相国寺とに埋められた。

 

(本稿は、図録「生誕300年記念 若冲」、図録「皇室の名宝 Ⅰ 2009年」、図録「若冲と蕪村 2015年」、辻惟雄「奇想の系譜」、「奇想の図譜」、「若冲」、小林忠他「若冲の描いた生き物たち」、佐藤康宏「伊藤若冲」、田中英道「日本美術史全史」、「日経大人のOFF1月号」、日経新聞「2016年4月16日生誕300年記念 若冲」、日経新聞「2016年2月2日 夕刊文化」を参照した)